星を掴んだ日
※転生パロ
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星を掴み損ねるばかりの人生だった。
ハイゼンベルクが最期に見たのは、己の肉体が崩壊する際に発せられた爆炎に照らされたマリンブルーの瞳の勝ち誇ったような輝き。
あの村は閉鎖的で薄暗い陰惨な空気の漂っていて、あそこから見上げる空はいつも灰色に淀んでいるような気さえしていた。五十五年の人生で、結局一度も村から出ることができなかった自分が初めて目にした星の輝きは、皮肉にもハイゼンベルクを打ち倒したイーサン・ウィンターズの瞳だったのだ。
手を伸ばしても、星に手が届くことはない。ハイゼンベルクとイーサンは決定的に交わらない。性格も、考え方も、価値観も、生き方も。何もかもが違いすぎる。
それでも。自由を掴み取るために人生を捧げたハイゼンベルクは、煌々と強い光を放つそれに手を伸ばさずにはいられなかった。もし、共闘の誘いが上手くいっていたら。こんな村で出会っていなければ、カドゥ適合者でも貴族でもミランダの息子でもなく、ただのカール・ハイゼンベルクという人間として出会っていたら。そうしたらあの星を掴むことができたのだろうかーーーー……
某社製のスマートフォンのけたたましいアラーム音がハイゼンベルクを夢の世界から現実へと引き戻す。枕に顔を埋めたまま手探りでスマートフォンを探すが、枕元に置いたはずのそれは見つからず、まるでハイゼンベルクの惰眠を許さないとばかりに耳障りなアラームを発し続ける。眠気と騒音紛いのアラーム音を天秤にかけ、ハイゼンベルクは仕方なく上体を起こしてスマートフォンを探す。何のことはない、いつの間にか床に落ちていただけだった。画面を操作して息の根を止めてやると、ようやくベッドルームに静寂が訪れる。
せっかく今日は休日のつもりで昨夜は深酒を楽しんだというのに、結局普段と同じ時間に起きてしまった。寝起きが良いと言えば羨ましがられるが、一度目を覚ますと二度寝が出来ない質はこういう時に損をした気分にさせられる。ハイゼンベルクは伸ばしっぱなしの髪を乱雑に掻き混ぜると、諦めたようにベッドから抜け出しシャワールームへと足を向けた。
爆発四散したはずのハイゼンベルクがどうして日曜日の朝に優雅にシャワーを浴びているのかというと、簡潔に説明するならこれがハイゼンベルクにとって二度目の人生だからだ。
東欧の山奥ではなく某合衆国のとある地方都市で生まれ、至って善良な両親に人並みに愛され、貴族とは程遠い平々凡々な家庭で育ったハイゼンベルクは、二十歳を迎えた時に前世での記憶を思い出した。
死んだ娘を甦らせるという妄執に憑りつかれた魔女と、狂った人体実験の末に異形の力に目覚めた自分。魔女を崇拝する村で名ばかりの貴族としていいように使われる日々。魔女が娘の器として攫ってきた赤ん坊、そして赤ん坊を救いにきた父親との死闘……まるでコミックかゲームのような悍ましい前世の記憶に混乱したのは最初だけで、時間が経てば「そういやそんなことあったな」と自分でも信じられないほどすんなりと受け入れていた。というのも、幼少の頃より前世での出来事を夢という形で何度も体験していたからだ。やけに一貫性のある夢を見続けるなと不思議に思っていたが、それが前世の記憶の欠片とわかれば疑問が解消されてむしろすっきりしたくらいだ。
さすがにバスに乗ったらに娘と思しき赤ん坊を抱いたミランダが乗っていたり、スーパーでまだ幼い三姉妹に囲まれて菓子を強請られているドミトレスを見かけたり、見覚えのある人形を抱えてレモネードスタンドに勤しむドナの面影のある少女を見かけたり、当時のバイト先の一つである映画館にモローが客として来ているのを目撃した時はさすがに動揺した。しかし、分かっていて無視されているのかそもそも前世の記憶がないのか、偶然を装ってお互いの顔が認識できる程に近づいてみても向こうが気づいて接触してくることはなかった。
便宜上ミランダと四貴族は母と子という体をとってはいたが、当然自分たちの間にに家族の情などありはしない。モローやドナも、依存できるならミランダでなくてもよかったのだから。そんな薄っぺらい関係だったので、他の四人が前世のことを憶えていなくても落胆はない。ただ、前の人生と違いやれバイオテロだの特異菌だの菌根だのがないこの平和な世界で、各々それなりに幸せそうに生きている姿を目の当たりにするのは何となく居心地が悪かった。
たった一人前世の記憶を持つハイゼンベルクだが、今の生活は可もなく不可もなくといった評価だ。今世でハイゼンベルクは街の片隅で小さな工場を営んでいる。前世同様に工学で優秀な成績を修め、大学院の研究室から大手製造会社まで引く手あまたであった。大学を卒業してから二年ほど某社の開発部で働いていたが、結局ハイゼンベルクは誰かの下について金や地位を得るより一人気ままにやる方が性に合っているのだ。
そんなわけで、会社を辞め学生時代に貯めたバイト代と働いていた頃の貯金を資金にして今の工場を始めた。工場の規模も前世とは比べ物にならないほどに小さく、車や家電の改造・メンテナンスから子供の玩具の修理まで幅広く手掛けている……といえば聞こえはいいが、ようは便利屋のように思われているだけだ。不思議と不満はないため、持ち込まれればどんな物であろうと直すし、老人や目の離せない子供のいる家には出張サービスをしてやったりもする。そんなハイゼンベルクをこの街の人々は「いい人」だとか「親切な人」と呼ぶ。別に親切心からではなく報酬をもらっているからやっているだけで、そんなふうに無邪気に慕われると胸の奥がつっかえるようなむず痒いに気持にさせられる。
自分の好きな仕事をして裕福ではないが生活には困らない稼ぎを持ち、家族とも隣人たちとも友好的な関係を築き上げ程よい距離感で付き合っている。恋人はいないがそもそも欲しいとも思っていないため、遠出をした先で一夜の関係を楽しむのが若い頃からのハイゼンベルクのスタイルだった。
そんな刺激はないが順風満帆といっても過言ではない今世の自分。ミランダの呪縛から解放され、あんなに渇望していた自由を手に入れたというのに、ハイゼンベルクは自分の中に燻る満たされなさに気づいていた。望んでいたものはすべて手に入れたはずなのに、ハイゼンベルクは未だに空に手を伸ばし続けているのだ。
(……いや、『すべて』ではないな)
ひとつだけ。たったひとつだけ、前世から今世に至るまで手に入れられなかったもの。
可能性を考えなかったわけではない。自分や他の連中がいるのなら、あの男もこの世界のどこかに存在しているのではないか、と。
しかし、もしそうだとしてもどうやって見つけるというのだ……いや、仮に彼を探し出す手段があったとして、あの男に――――イーサン・ウィンターズに会って、自分はどうしたいのだろうか。
ハイゼンベルクにとってイーサンという男は、己が自由を得る為に欠かせない駒の一つ、ローズマリーという強大な力を持った赤ん坊の父親、ただそれだけのはずだった。想定よりもはるかにタフで奇妙な体を持つしぶとい父親を自分の方へと引き込めれば、ローズマリーを手中に収めるのは容易い。将を射んとする者はまず馬を射よの言葉通り、イーサンはハイゼンベルクにとってローズマリーという本命を御しやすくするための馬……要は踏み台に過ぎなかった。
だが、たった一人で命を削りながらライカンの群れを掻い潜り、化け物揃いの四貴族を相手に一歩も引くことなく悪態をついて立ち向かう姿を見ているうちに、ミランダへの復讐心だけで突き動かされていたハイゼンベルクの空虚な心に、今まで感じたことのない感情が芽生えていた。
儀式が成功しエヴァが復活すればいよいよ自分は用済みになる。猶予などないというのに、ハイゼンベルクはイーサン・ウィンターズという男をもっと知りたいと思った。
子供なぞ女を孕ませればいくらでも作れるのに、何故そこまで己の身を犠牲にしてまで守ろうとするのか。いくら血を分けた娘とはいえ、普通に生きていれば味わうこともなかったであろう恐怖や苦痛を受けてまで助けようとして、自分の身が可愛くないのか。父親の愛とは、子を想う心とは、長年積もらせたハイゼンベルクの怨嗟の念よりも強いというのか。
ハイゼンベルクとイーサンは何もかもが違いすぎて、知りたいことが沢山あった。だが、何よりあの強い意志を宿す青い瞳に『四貴族』としての自分ではなく、ただのカール・ハイゼンベルクとしての自分の姿を映してみたいと。そう、願ってしまった。それが何を意味するのか、分からないほどハイゼンベルクは子供ではない。
(前世の因縁の相手に惚れるとか、流石にイタすぎんだろ……。)
前世は前世、と割り切って生きてきたはずなのに、イーサンだけはそうもいかなかった。欲の発散の為に行きずりの女を抱く度にこれがイーサンだったら、と夢想した。思えば、前世の記憶を取り戻す前から生意気そうなブロンド女ばかり選んでいたのは執着が凄まじくて我ながら引く。
コックを捻り、いつの間にか水になっていたシャワーを止める。水滴を纏うくすんだ髪をタオルで乱雑に拭き、いつもの作業着を身につけシャワールームを後にする。
コーヒーを淹れトーストにバターを塗って簡単な朝食にありつく。賑やかしにつけたテレビで流れるキャスターの声を聞き流しながら、ハイゼンベルクは無理やり気持ちを切り替える。
────前世のことは今世には持ち込まない、そう自分で決めたのだから。
「…………仕事すっか」
決して急ぎというわけではないが、こういう時は機械を弄るに限る。ハイゼンベルクはコップと皿をシンクに置くと、自身の気持ちから逃げるように工場へと足を向けた。
***
作業に没頭し、一区切りつけて時計を確認すると午後一時をまわっていた。集中している際はなりを潜めていた腹の虫がここぞとばかりに鳴いて主張し始める。
「もうこんな時間か……このチェーンソー届けてからどっか飯でも食いに行くか」
ハイゼンベルクは直し終えたばかりのチェーンソーをトラックに積むと、エンジンをかけた。依頼主は街の外れで民宿を営んでいる夫婦で、修理が完了したので今から届ける旨を報せると、お礼に昼食を用意すると申し出てくれたが、他人と食卓を囲むのが得意でないハイゼンベルクは厚意だけ受け取って丁寧に辞退し、早々にトラックを発進させた。
工場から目的地である民宿までは約一時間弱かかる。日曜日とあって民宿の方は忙しいようで、手が塞がっている夫婦に代わり娘がトラックまで依頼品を取りにきた。不良息子な兄貴と違い、妹の方はしっかり者でよく手伝ってくれると夫妻が話していたのを思い出す。
しっかりと料金を貰い、いくらか雑談を楽しんだ後ハイゼンベルクは民宿を後にした。
来た道を戻り、行きつけのカフェレストランにでも寄ろうかと考えていると、ふと視界の端に少し先の道端で右往左往する人影が映り込む。服装や体つきからしてハイスクールくらいの少年が、マウンテンバイクの側でしゃがんだり立ったりと不思議な挙動を繰り返している。そこまで目視したところでハイゼンベルクの乗る車が少年を追い越した。
今のご時世、見知らぬ子供に声を掛けただけで通報されかねない。年端もいかない幼児ならともかく、あの位の年齢なら自分で助けを呼ぶなりどうにかできるだろう。 昼食を食いっぱぐれて腹も減っているし、無視してそのまま通りすぎようとしたハイゼンベルクだが、バックミラーに映る少年の背中が妙に気になってしまう。
「あ゙ー!くそ!」
車をUターンさせ少年の元へと引き返す。少し手前に車を停め、なるべく怪しい印象を与えないようにとお気に入りのサングラスを外してシャツのポケットに引っ掛ける。
「おい、どうした坊主」
突然話しかけられたせいか、少年はビクッと肩を震わせるとこちらを勢いよく振り返った。
「あ、えっと……釘か何か踏んだみたいで、自転車のタイヤがパンクしちゃって……!」
「────……、」
こちらが何者かもわからないというのに、まるで地獄に仏とばかりに安心した顔をして少年が近寄ってくる。ハイゼンベルクの肩ほどしかない背丈やオーバーサイズのパーカーから覗く手首の細さは記憶にあるよりもずっと華奢で未成熟だった。
ドングリみたいに丸っこい青い瞳が縋るような目つきでハイゼンベルクを見上げてきて、サングラスを外したことを後悔した。
「イーサン……ウィンターズ……」
「えっ?あの、どうして俺の名前を……?」
思わず口をついて出た名前は、やはり少年と同じものだったらしい。ハイゼンベルクが呼んだ名前に反応して、少年は驚いたように目を見開いている。しかし、警戒するような素振りはない。前世で敵対し、憎々しげに射抜く瞳しか知らないハイゼンベルクは、そのあまりにも無防備な様子に腹の奥からよからぬ感情が湧き上がるのを感じて思わず舌打ちをした。
「……そこに転がってる自転車に書いてあるだろ」
「あ、そっか」
マウンテンバイクに名入りのステッカーが貼ってあったのは事実だが、それは完全に後付けの言い訳だ。だが、イーサンは特に疑うこともなく納得した様子だった。
「俺はここから少し先にある工場でまぁ、便利屋みてぇな感じで色んな機械を直してる。どれ、見せてみろ」
「は、はい」
ハイゼンベルクがしゃがみ込むとイーサンもそれに倣う。すぐ隣にあるイーサンの存在をあまり意識しないよう、目の前のマウンテンバイクに集中する。傷や凹みがないことを確認してからタイヤを触ってみると、確かに空気が抜けて平らになっている。しかも、かなり大きな釘を踏んだのかタイヤがパックリと裂けてしまっている。
「こりゃあ、タイヤごと交換しねぇとダメだな」
「そんなぁ……」
「仕方ねぇだろ。つっても、この辺は何もねぇしな……親呼んで迎えに来てもらえよ」
「父さんと母さんは、俺が小さい時に交通事故で……今はおじさんと姉さんが保護者みたいなものだけど、二人とも仕事してるから迷惑かけたくないんだ……」
困ったようにへにょりと眉を下げるイーサンに、ハイゼンベルクは深く長い溜息を吐く。
「なら、俺の工場まで来い」
「えっ?」
「俺ならこれぐらいの修理は朝飯前だ。場所もここからそう遠くねぇし、自転車ごと車で運んでやる」
「いいんですか?!」
パァ、と顔を明るくさせてイーサンは勢いよくハイゼンベルクを見つめる。その純粋すぎる眼差しが何とも居心地悪くて、ハイゼンベルクは思わず視線を外した。
記憶の中のイーサンと今のイーサンが違いすぎて脳がバグを起こしそうだ。前世と違って今のハイゼンベルクとイーサンの間にはなんの因縁もしがらみもないのだから当然といえば当然だが。
「おら、俺の気が変わらねぇうちに乗りな。このポンコツと一緒に何十キロも歩きたくないだろ?」
「うん、ありがとう!えっと……」
「……カール・ハイゼンベルクだ」
名前を名乗り右手を差し出すと、イーサンは迷いもせずにハイゼンベルクの手を取って握手を交わす。前世ではすげなく振り払われた手が、こうして繋がっていることに確かな高揚感を感じていた。
ハイゼンベルクはイーサンの手を離すと、倒れたマウンテンバイクを担ぎトラックの荷台へと積み込む。
「ハイゼンベルクさん、俺がやるよ!」
「んな生っ白い腕で持ち上げられんのか?……あと、俺のことは呼び捨てで構わねぇ。敬語もなしだ」
機械の扱いは手先だけでなく筋力も使うことが多い。日頃の機械弄りのお陰で自然と逞しく鍛え上げられたハイゼンベルクは苦もなくマウンテンバイクを持ち上げて荷台へと下ろす。
それより、イーサンが自分に対して畏まった態度を取ってくる方が問題だった。敬われるのは嫌いではないが、イーサンだけは別だ。前世ではあれだけ罵詈雑言を向けてきた相手から丁寧に敬語で話しかけられる度にゾワゾワと違和感が全身に奔って気持ちが悪い。なんて、特殊すぎるハイゼンベルクの事情なぞ知らないイーサンは明らかに戸惑っているようだった。
初対面の年上の男にいきなり砕けた態度で接してくれと言われれば無理もないと理解できるが、こちらとしても嫌なものは嫌なのだ。
「いや、それはさすがに……」
「俺がいいって言ってんだ。次さん付けや敬語使ったら自転車ごと放り出すからな」
「マジかよ……!?っ、わかっ……た、普通に話せばいいんだろ?」
胡乱げな視線でこちらを見ながら渋々といったふうに話すイーサンは前世の彼によく似ていて、ハイゼンベルクは思わず笑ってしまう。
「いい子だ。さ、ドライブと洒落こもうじゃねぇの」
ハイゼンベルクに促され、イーサンは素直にトラックの助手席に乗り込む。彼が乗り込んだのを確認してから運転席に乗り込みロックをかければ、二人きりの密室のできあがり。今ここでハイゼンベルクがイーサンに殴りかかったり、レイプしたとしても逃げ場はどこにもない。しかしそんなことは想像もしていないのだろう、イーサンは無防備に助手席のシートに体を預けている。
前世の彼では考えられない警戒心のなさが、己の中にある前世のハイゼンベルクの欲望が首をもたげるのを感じた。隣にいるのが親切者の皮をかぶった狼であることに気づかない哀れな子供を、頭から食べてしまいたいと。
「……出すぞ。シートベルトはしたか?」
「ああ、大丈夫だよ」
よからぬ考えを払うようにエンジンをかけて車を発進させると、イーサンは開け放った窓に肘を乗せ、流れる景色に目を輝かせている。
道路も混雑しておらず、少しばかり法定速度を無視してかっ飛ばしたトラックは想定よりもずっと速く工場へと帰還を果たした。
「俺はこのまま修理にかかる。この辺は何もねぇが、少し歩けばそれなりに店があるから、時間を潰したきゃ行ってみるんだな」
このまま一緒にいると、自分でも何をするかわからない。トラックを降りたハイゼンベルクはイーサンにそう告げると、マウンテンバイクを降ろして足早に作業場へと入ろうとする。しかし、それはコートの裾を引っ張られて阻止されてしまった。
「えっと……側で見てちゃダメ……かな?」
「面白ぇことは何もねぇぞ」
「それでもいい。お願いだよ」
「…………好きにしろ」
「ありがとう!あ、でも……邪魔になったら遠慮なく言ってくれよ」
「ああ」
つい根負けしてイーサンの願いを聞いてしまう。ダメだ、どうしたって彼が関わるとハイゼンベルクは自分を上手く制御できない。これなら前世の彼のように敵意を剥き出しにしてくれた方がまだ対処のしようがあった。
ハイゼンベルクが修理に取り掛かっている間、イーサンは興味深そうに工場の中を見てまわったり、生返事しか返さないハイゼンベルクに構わずあれやこれやと話しかけてきたり、かと思えばすぐ側でハイゼンベルクの手元をジッと見つめていたりと、初めて来たとは思えないほど自由に過ごしていた。
イーサンは聞いてもいないのにこちらが心配になるほどあけすけに自身のことを話してくる。十年前に両親が交通事故で他界したこと、歳の離れた姉と妹と三人で施設で育ったこと。姉は頭が良くてしっかり者でとても美人で、妹は自分にベッタリで天使のように可愛いこと。最近になって『黒いおじさん』に引き取られこちらに越してきたこと、おじさんに十七歳の誕生日に買ってもらった大切なマウンテンバイクだから直してもらえて本当に嬉しいこと。他にも沢山、とりとめのない話をぽつりぽつりとハイゼンベルクに聞かせた。
ハイゼンベルクはハイゼンベルクで、イーサンが気づかない隙を狙って彼のことをじっくりと観察する。決して引っ込み思案ではなくむしろ物怖じしない質なのに、目を合わせようとすると照れて顔を背ける癖だとか。白い膚の、とりわけ鼻と頬に薄らとそばかすが浮いていることだとか。一生懸命セットしたであろうくすんだブロンドの髪が柔らかそうだとか。利用価値のある駒としてではなく、ハイゼンベルクは初めてイーサンという人間をきちんと見たような気がした。
「俺、来週からこっちの学校に転入するからまだ友達も知り合いもいなくて……でも、ハイゼンベルクに会えてよかったよ」
イーサンの言葉に、ハイゼンベルクはチューブを弄る手元から視線を外し顔を上げると、勝手に持ってきた椅子に座るイーサンの瞳と丁度視線が混じり合う。朝焼けに照らされる湖面のように静かな青色の瞳に映る自分の姿を認めて、ハイゼンベルクは思わず息を呑む。
────ずっと求めていた星に、手が届く。そう思ったら、もうダメだった。
ハイゼンベルクはイーサンの胸ぐらを掴むと力任せに引き寄せる。突然のことにバランスを崩した軽い少年の身体は椅子ごとハイゼンベルクの方へと傾き、いとも簡単に腕の中に収まってしまう。
「ぅ、わっ……!?な、なにすんだよ!危ないだろ!」
乱暴な扱いに対してイーサンが非難の視線をハイゼンベルクに向ける。その生意気で負けん気の強い眼差しは前世の彼とそっくりで、ハイゼンベルクは無意識に笑みを深めた。サングラスと汚れた革手袋を外し、深爪気味のささくれた指でイーサンの小さな顎を捉える。
逃がさないようにしっかりと固定すると、肉食の獣が獲物に食らいつくかのようにまだ清いであろう少年の唇を奪った。
「んむっ……?!っ、ンーっ……!」
イーサンはハイゼンベルクのあまりの暴挙に反応が遅れたようだが、すぐに何をされているか理解をしたのかハイゼンベルクの胸板をドンドン叩いて抵抗してくる。だが、体格も筋力も勝る大人の男相手に敵うはずもなく、息苦しさに口を開けた瞬間を狙って舌を捩じ込んだ。
「……ッ?!……ふ、ぅ……ぁ、」
逃げる舌を絡め取って強く吸い上げれば、鼻にかかった甘い声が上がる。上顎や歯列をなぞり、逃げようとする舌を捕まえて甘噛みするとイーサンの体が大袈裟に跳ねた。
「んッ……んぅ……ふ、ぅう……」
上顎を擽るように舌で撫でると、腕の中の存在がビクリと震える。ハイゼンベルクのシャツを縋るように握る手が小さく震えていて可愛らしい。
「っ、ン……ぁ、は……っ」
最後に下唇を軽く食んで解放してやれば、すっかり力が抜けたイーサンが膝から崩れ落ちる。それを抱き留めて、ハイゼンベルクはイーサンの顔を覗き込む。
潤んだ瞳は溶けかけの飴玉みたいに甘そうで、微かに開いた唇からは真っ赤な舌が覗いていた。瑞々しい果実のような唇を伝う唾液がもっと食べてくれと言わんばかりに扇情的だった。
「は、ぁ……はぃ、ぜんべるく……」
物欲しそうな顔でハイゼンベルクの行動を待っているように見えるのは都合のいい錯覚だろうか。
「イーサン」
「あ、ぅ……」
もう一度、今度は触れるだけのキスをする。イーサンの両腕が背中に回されようとしたその時、ハイゼンベルクは腕の中のイーサンを離し、何事もなかったかのようにサングラスをかけ直す。
「出てけ」
「ぁ、え……?」
「修理は終わった、もう用はないだろ。俺は暇じゃねぇ、さっさと出ていけ」
「な、な……っ!」
「失せろ」
「っ、この……!!」
イーサンは怒りに顔を真っ赤に染めると、ハイゼンベルクの脛を強かに蹴り上げ、マウンテンバイクを回収そのまま工場から飛び出していった。その背中が見えなくなるまで見送ってから、ハイゼンベルクは先程までイーサンが座っていた椅子に座り込み大きく息を吐く。
「あー……やっちまった……」
ガシガシと力任せに伸びた灰色の髪を掻く。前世と今の人生を混同しないとあれほど決めていたにも関わらず、簡単に箍が外れて前世の記憶もないガキ相手に盛ってしまった。
「はっ……でもまぁ、もう二度と会うことはねぇか……」
本当は余すことなくあの若木のような身体を暴いてやりたかったが、なけなしの理性を総動員させてイーサンを突き放した。親切にしてくれたかと思いきや突然キスをされて襲われかけたのだ、下手したら通報されているかもしれない。だが、ハイゼンベルクはそれでもよかった。イーサンが近づいてこなければ、自分は前世のような加虐趣味の異常者にもならず、彼を傷つけることもない。
────星は遠くにあるからうつくしいのだ。
そう言い聞かせて、ハイゼンベルクは心に蓋をする。警察に厄介になることを想定し、依頼されていた仕事に取り掛かる。脳裏に今日見たイーサンの様々な表情がチラついて集中できないことに舌打ちを溢しながら。
予想を裏切り、一週間経っても警察がハイゼンベルクを訪ねてくることはなかった。拍子抜けするほど変わらない日常が過ぎていくが、ふとした時に思い出すのはあの日イーサンと過ごした数時間のことばかりだった。
あの青い瞳が、声が、仕草が、頭から離れない。イーサンのことばかり考えていた。夢の中にまで現れた時なぞ、初恋に浮かれるティーンエイジャーじゃあるまいと自分で自分に引いたくらいに。
このまま時間が経てば忘れられるだろうかと期待していたハイゼンベルクだったが、その期待はあっさりと裏切られることとなる。
彼と再会した日から丁度一週間経った日曜日。今日こそは仕事は休みにしてやるとベッドで惰眠を貪っていたハイゼンベルクだったが、けたたましいベルの音に起こされる。こんな辺鄙な場所に朝っぱらから訪ねてくる奴などろくでもないと相場は決まっている。
無視して二度寝を決め込もうとしたが、それを許さないと言わんばかりに何度も何度もベルが鳴らされる。きっと自分が対応するまで鳴らすつもりだろう。そう直感が告げる。これは我慢比べだ。先に根負けした方が敗け。
「……っせぇな!今何時だと思ってやがる!」
結局、負けたのはハイゼンベルクだった。前世より丸くなったとはいえ、気が短いのは相変わらずなのだ。ドスドスと不機嫌さを隠さない大きな足音を立てながら玄関へと向かう。
不躾な訪問者が誰だか確認することなく勢いに任せて乱暴にドアを開くと、そこにいたのはもう二度と会うまいと思っていた少年。
「お前……なんで……」
突然の訪問に呆然とするハイゼンベルクを憮然とした表情で見上げていたイーサンが「俺がどこに行こうと俺の勝手だろ」と言い放つ。
「いや、そういう問題じゃねぇだろ……お前なぁ……」
あまりに想定外のことにハイゼンベルクも上手く言葉が出てこない。普通あんなことをされた相手の家にもう一度訪れるか?しかも、一人で。どこか抜けているというか、危機感がないというか。
「……」
「……」
二人の間に気まずい沈黙が落ちる。イーサンは黙ったままハイゼンベルクを見つめているし、ハイゼンベルクもなんと声をかけたらいいかわからずにただ押し黙っていた。
先に口を開いたのはイーサンだった。イーサンはキッと厳しい眼差しでハイゼンベルクを睨みつける。
「俺は……やられっぱなしは、性に合わないんだ」
「はぁ?それとこれと、どう関係が……」
ハイゼンベルクが言い終わる前にイーサンに胸ぐらを掴まれ、唇が重なり合った。
ガチンッと歯がぶつかる音がして、一瞬遅れて鉄臭い味が口に広がる。イーサンは痛みに顔をしかめていたが、それでも唇を離そうとはしなかった。あの時の意趣返しのつもりか、ハイゼンベルクの唇を舌でなぞったり、歯を立てたりを繰り返す。いかにも慣れていなさそうな稚拙なキスだったが、ハイゼンベルクの心臓はカッと燃えるように熱くなった。
「ハ、どうだ、ざまーみろ……!」
満足したのか、唇を離したイーサンは得意げな口調で吐き捨てると、そのまま踵を返して駆け出す。ハイゼンベルクは咄嗟にイーサンの腕を掴み、その細っこい身体を胸の中に閉じ込めるように抱き締めた。
「っ、なんだよ、どうせまた揶揄うだけ揶揄って帰れとか言うんだろ……!?離せよっ!」
「離さねぇよ」
「は、はぁ……!?」
ハイゼンベルクの返答が予想外だったのかイーサンから驚きの声があがる。逃げようともがく体を逃さないように力を込めて抱き締める。ドクンドクンと早鐘を打つ鼓動の音がどちらのものかわからないくらいに密着して、自分のものとは思えないほど甘ったるい声で囁くように名前を呼ぶ。
「……イーサン」
その瞬間、腕の中の存在が完全に硬直したのがわかった。
何度も何度も、うじうじと繰り返してきた葛藤など、もはやどうでもよくなっていた。
────だって仕方ないだろう、掴み損ねたはずの星が、自分からこの手の中に落ちてきたのだから。
「ご愁傷さま、パパ」
「……?」
せっかく逃がしてやろうと思っていたのに、幾度となくチャンスは与えたのに、もうやめだ。
ハイゼンベルクは腕の中に捕らえた星をそれはそれは丁重に抱き上げ、己の砦たる工場の中へと連れ込んだのだった。
次回、おじさん(クリス)と姉(ミア)襲来、ハイゼンベルク死す!デュエルスタンバイ!