──僕はソイツの代わりなの? だからあの日、僕を置いて帰ったの?

──じゃあ僕の名前、呼んでよ

──……もっと、呼んで


 ソイツって誰のことだ。
 あの日っていうのは看病のために家に行った日のことか?
 どうして名前なんか呼ばせた? おまえは俺の名前なんて呼んでくれないくせに。

 悟、と呼んだ自分の声を、もう思い出したくない。


「……───」

 最後にしようと抱かれた日の次の朝。目が覚めると五条はいなかった。この家のどこにも気配が無くて少しばかりほっとする。身体が怠くてあちこちが痛い。声を出してみるとひどく掠れていて、今日の生徒との体術訓練を考えるとため息が漏れた。

 昨日は相当ぐちゃぐちゃにされたと思うが何故か身体は綺麗になっている。いつもは俺が帰り支度の時に自分のタオルで身体を拭くのだけれど、昨日は途中から記憶がないのでそのまま眠ってしまったはず。もしかして五条が後処理をしてくれたのだろうか。意外と律儀なところがあるのか、それともただの気まぐれだろうか。

「っ痛、」

 右の肩や二の腕にずきりと痛みが走って、思わず顔を顰めた。勝手に家の中を歩き回るのは気が引けたがせめて顔を洗わせてもらおうと洗面所の鏡を見ると、執拗ともいえる数の歯形やキスマークが残されていた。前々からこの箇所にはよくこういった痕があった。何故かは分からない。俺が五条のことを分かったことは一度もないからきっとこれからも知らないままだ。
 服を着れば隠れる位置にあった痣に見えなくもないキスマークをひとつだけ残して、他は反転術式で全て治しておいた。

 スマホを見てみると、五条からメッセージが入っていた。

『昨日はごめん。今日はきみの授業は自習にしておいたから。朝ごはん適当にレンジで温めて食べて。鍵は持ってて』

 五条からの連絡に謝罪の言葉があることが意外だった。俺の何かが気に入らなくて昨日の行為が引き起こされたのだと思うから、社交辞令の可能性だってあるけれど。
 あまり休みたくはなかったけど、こんな声で誰かに会うのは憚られるのでお言葉に甘えることにした。まあ任務と同行さえ入っていなければこうして急に休んでしまうことになったって何とでもなる。俺に割り振られた仕事はそんな程度のものだ。だからもう、さっさと京都へ戻った方がいい。



 朝ごはん、と聞くとお腹が空いているような気もするが、さっきまで五条のモノが入っていて内臓が押し上げられるような感覚があったからかあまり食欲がないような気もする。だけどせっかく用意してくれたものなら食べないのも悪いので、お茶碗によそわれた白いご飯とだし巻き卵、そして味噌汁などの副菜を温めさせてもらって食べた。
 なんとなく菓子パンなどを食べていそうなイメージだったので、和食は意外だった。シンプルな朝食は味も濃すぎず出汁の香りを感じるものでとても美味しかった。あの見た目に加えて料理もできるとなればいよいよ女にモテるだろうなと場違いなことを考えた。

 五条の手料理など後にも先にも今日だけだろう。ゆっくりと味わって食べ進め、完食して洗い物を済ませる。家主のいない部屋はより広く見えて、当たり前だけど物音もせず静かだ。
 五条が自身のパーソナルスペースに俺みたいな人間を置いていくのは違和感があるけれど、五条が危惧しているのは自分じゃなくて生徒に危害が及ぶことだと思い直した。俺が五条に何かをしたとしたらそれこそ、その力で捩じ伏せればいいだけだから。

 腰の鈍痛は反転術式を使うほどではなく、そして喉は傷ではないから俺の技術では完璧には治せないのが歯痒い。服で隠そうとしても目立つ肩と腕の噛み跡だけは完璧に治したことをもう一度見直して、五条の家を出た。ここに来るのは今日で最後だ。

『朝ごはんごちそうさま。美味しかった。鍵は借りるの申し訳ないから、マンションのエントランスに預けておきます』

 五条にメッセージを送り、ため息をつく。電池が僅かになっているのを確認して電源を落とした。せっかく休みを貰ったのだ。たまには良いだろう。
 これから家に帰って部屋を片付けて、引っ越しの準備をしなければ。といっても、いつでも京都へ戻れるようにほとんど荷物を持ってこなかったから、段ボール3つ程度に収まるだろう。残る家電なんかは引越し業者に任せる手筈だ。

 明日は任務はあるけど授業はもともと入っていない日だから高専には行かないし、五条に会うことはない。あとは、その後も五条に会わないように任務を詰め込めばいいだけだ。もし遠方の出張任務があれば引き受けるから優先的に回してくれと補助監督に伝えておけば、この業界は常に人手が足りていないからすぐに何かしら割り当てられるだろう。

 引っ越し業者に荷物を頼んですぐに出張へ行って、それが終わったらそのまま京都に戻る。それが理想だ。両学長には異動の話が出た時に、急に戻る可能性があるからとは伝えてある。きっと大丈夫だ。









W今日は高専にいる?W
Wごめん。今日は任務のあと直帰だからW

 メールを見て暫く眺めて、少し間を置いてメールを返信する。これで3度目だろうか。五条からの誘いなのか何なのかよく分からない要件を断ってため息をつく。
 最初の頃なら考えられなかった。疑心を抱く五条にせめて身体を差し出して精神的な波を少しでも緩やかなものにできたらとなんとなく始まったものだ。その時は断ったらどんな目に遭うか想像もつかなかったが結果、一度断ってみると案外問題なくその話は終わった。

 ──もしかしたら五条が俺との行為にそれなりの執着を覚えてくれているかもしれないなどと浅はかな思ったが、そんなことは無かったらしい。俺がいなくなったらそれはそれで、新しい誰かでその隙間を埋めるのだろう。

 以前なら声をかけられればその予定を最優先にして動いていた。それをあの日以来すべて断っていて、俺が五条からの誘いを断るのは色々な意味で俺の精神衛生に良くなかったけれど、それでもこの直近の数回ある程度慣れた。

「……W悟W」

 それが声になっているということに、自分の耳への残響でようやく気付いた。思い出したくないと自分で言ったくせに、自分勝手だ。

 優しくされたことなんてないのに、あの日無理やり呼ばされただけのその名前を無意識に呟くなんて馬鹿げてる。そもそも避けているのは自分なのに会えなくて声が聞けないことに自分自身が参っているというその事実が、あんまりにも滑稽でいっそ笑えた。