なんとなく意識がぼんやりと霞がかったような感覚の中、これは夢だなと早々に気付いた。

 遠目で見渡すような視界の中に高専時代の自分がいて、その更に向こう側に五条と夏油が居た。これは多分、京都校で行われた交流会の時の光景だ。京都校は上級生がメインで参加していて一年の俺は見学だったけど、それでも鮮明に覚えている。東京校は五条と夏油と数名の上級生が来ていた。まあ俺が覚えているのは五条と夏油だけだけど。

 中でも五条の術式はあまりにも圧倒的でどうにもならない程だったから、ああこれが天才かなんて他人事のように思った記憶がある。勝負にならないと誰もが思うほど、誰をも寄せ付けなかった。一年らしからぬふてぶてしさがあったけれど、そんな五条が唯一、夏油にだけは楽しそうに話していて。その笑顔から目が離せなかった。

 今振り返ってみれば、きっと自分では一生見ることができない表情だろうなと思って心臓が少し痛いけれど、俺なんかがそんなことを思うことすら間違っている。






「……お。起きたか」

 誰かの声を聞いて頭が覚醒し、目を開けたら高専の医務室だった。生徒の手当や見舞いのために此処に来たことはあれど、こうしてベッドに寝たのは初めてかもしれない。

 家入さんに話を聞くと、遠方任務で救助されて近くの病院に運ばれ、そこで簡単な治療と呪霊の術式の中和をして一日入院してから此処へ運び込まれたらしい。随分と大層なことになっていたようで申し訳なさが募る。どうやら3日間も目を覚まさなかったと知った時にはそれはもう驚いたし、更に申し訳なかった。思ったより呪霊の術式がしつこかったのだと家入さんは言う。

「あの、誰が助けてくれたか知ってる?」
「ん?」
「家入さんがそう言うぐらいの術式なら、中和とか色々してくれたのって補助監督じゃないよな。お礼言わないと」
「あー……」

 家入さんが少し言葉に詰まったタイミングで、俺の枕元で携帯が震えた。着信ではなくメッセージの受信だ。見れば俺の携帯にはきちんと充電器が刺さっていて、何から何まで申し訳ないという気持ちになりながら画面を見ると歌姫先輩からのメッセージだった。
 家入さんも自分の携帯を見ていたので見ても構わないという暗黙の了解だと捉え、メッセージを開封する。内容としては、元気にやっているかということと久々に東京に来たから飲みに行かないかという内容だった。後でスケジュールを確認して返信することにして携帯を置けば、家入さんがじっと俺を見ていた。

「えっと、何?」
「……いや。そういえば、傷は全部塞がってる筈だけどなんか異常ある?」
「たぶん大丈夫。治療してくれてありがとう、迷惑かけてごめん」
「全然。面白いものも見れたし」
「……え、俺もしかして寝言とか言ってた……?」
「みょうじは何もしてないから気にしなくていい」

 家入さんは笑ってコーヒーに口をつけた。絶対に何かあっただろうと思ったけれどそれ以上追随してもきっと話してはくれなさそうだったので諦めた。

 その後、軽い呪力操作とその場で体を動かして異常がないか確認し問題が無かったので退院することになり、簡単な問診を終えて立ち上がった俺を見て、家入さんはふと目を逸らして笑った。

「……右腕、あるな」
「え?」
「悪い、ちょっと思い出してさ」

 あの馬鹿がバカやった時、肩から吹っ飛ばされてたから。

 家入さんの言葉で思い出したのは、五条との行為の時に自身の体にいくつも付けられた痕だった。

「……、そうか」

 右肩。いつからかそこにだけ残るようになった執拗な噛み痕。その懐かしむような表情からも、W馬鹿Wというのはきっと彼のことだろう。
 夏油にはあるはずのないその腕が憎いんだろうか。五条の夏油に対する思いの大きさは計り知れないもので俺には分かる筈もないのに、つい考えてしまって空笑いが溢れた。

 何気なく五条のことを聞くと、一週間ほどの海外の任務に行っていて、帰ってくるのは5日後の夜の予定らしい。任務に文句を言うことは多々あるが今回の海外出張に対しては本気で嫌がり相当機嫌が悪かったと家入さんは笑っていた。五条の不機嫌を笑えるのはたぶん世界中を探しても家入さんくらいだと思う。

 とりあえず会わずに京都へ戻るチャンスだと安堵のため息を吐くとともに、会いたいと感じている自分に気付いて呆れた。会うタイミングも何もかもすべて拒んでいたのは自分なのに。そしてただ以前の距離に戻るってだけで、一生会えなくなるわけじゃ無いのに。……まぁ、一生会わない方が良いってぐらいの気持ちでいるけど。

 家入さんに重ねてお礼を告げて、久しぶりに自宅へ戻った。歌姫先輩からのメッセージに返信をする。元気だという内容と、飲み会が可能な候補日をいくつか入力した。返信は比較的すぐに来て飲み会は明日の夜に決まった。さすがに3日間も意識不明なんていうのは久々だったので、胃に優しいものを食べておかなければアルコールで胃が焼けそうだなと思った。












「……は? 3日も意識無かったの!?」

 互いに東京の店を知らないからと歌姫先輩が家入さんにリサーチし予約してくれた店は、ご飯もお酒も美味しい個室の居酒屋だった。歌姫先輩は気にしていないらしいけど、先輩の顔の傷をちらちら見てくる人間だっているから、人目を気にせず過ごせる個室でよかったと思う。

「硝子からアンタが怪我したのは聞いてたけど……」
「はは。ちょっと遠方任務でやらかしまして」
「なら断りなさいよ、病み上がりのくせに」
「入院してたお陰で今日、予定が合いました」
「バカ」

 まあ全快祝いね、とビールのジョッキを差し出され、それよりも低い位置から縁を合わせた。

 

「───そういえば、そっちでも噂になってるの? 五条のこと」

 今日何度目かの「五条」という言葉に、息が止まる。いかに五条がムカつく奴かというお馴染みの話に始まり、五条に何かされていないかという話題も上がった。されたかされていないかで言えばまあされたんだろうが、俺も望んでやったことなので「何もないですよ」と笑っておいた。

 さて、そんな今日のやりとりの中で、初めて耳にした『噂』。俺はもともと耳が早くない上に任務を詰め込んだり怪我の療養をしていたりしたから本当に何も知らず、ただそんなこと歌姫先輩に言えるわけもなく、「噂?」と聞き返した。

「五条がそろそろ身を固めるんじゃないかって噂よ」

 ドクン、と心臓の細胞ひとつひとつが嫌な音を立てて軋んだような、そんな心地がした。歌姫先輩の前だ、表情を取り繕えないなんてことは許されない。ビールのジョッキを傾けてどうにかやり過ごそうとするけれど、味がしなくて思いのほか気が紛れなかった。

「見合いの申し込みはずーっとあったけどアイツは取り合わなくて、でもこの間ついにどこぞの呪術師の家系のお嬢さんとお見合いしたとか」

 見合い。家柄のことを考えれば当たり前のことだ。そう思っていても肺にうまく空気を吸い込めないまま、乾いて張り付きそうになる喉をこじ開けて覚束ない呼吸をしていた。