ああ、心臓も肺も痛い。俺はうまく笑えているだろうか。

「……へえ、五条が」
「別に聞いてもないのに耳に入ってくんの。具体的な結婚じゃないのに、御三家ともなると見合いってだけで騒がれんのね」

 歌姫先輩の言葉を咀嚼するたび、ぐらりと脳が揺れる。あの日の頭痛がぶり返したのではと思うほど、頭を鈍器で殴られたような衝撃。痛みは感じないけど確かに思考が停止して息が喉に詰まった。
 不規則に刻まれる脈拍が気持ち悪い。脳はまだ動かないままで、アルコールの所為にするには飲み足りない。再度ジョッキを傾けてみたが、温くなった生ビールが僅かに注がれて空になっただけだった。

「五条家の、当主ですしね」
「まあ、あんな奴でもそれを考えると遅いくらいよね。でもアイツが了承すると思ってなかったから、それには驚いたわ」

 当たり障りのない会話を続けた自分の声は、震えてはいないだろうか。歌姫先輩に気付かれることなく、この飲み会を終えられるだろうか。今自分がどんな顔をしているかがてんで分からず、「お手洗いに行ってきます」と席を外した。

 鏡を見た自分の顔は傍目にはそう普段と変わらない気がして、まずは安堵する。万が一にも自分との関係がばれたら五条に迷惑がかかるかもしれない。五条ならばその力で全てを黙らせられそうだが、俺が嫌だ。傷をつけたくない。五条のこれからの人生に。

 そう考える頭の片隅で、ほんの僅かでも爪痕が残っていればいいのに、なんてことも思う。我ながら最低だ。自分でも今漸く自覚したこんな浅ましさが、五条にはきっと伝わってしまっていたんだろう。五条からすれば警戒して酷くして当然で、それを俺が受け入れることは俺の自己満足だから、五条にとってはただ引き続き警戒するべき対象で間違いない。

 余計なことはせずただの同い年の呪術師でいれば良かったのかもしれないと自分はどうやら本当にどうしようもなく五条のことが好きで、だからたったあれだけのことで動揺した。
 そもそもが予想できたことだ。御三家当主が適齢期で独り身なんて、そちらの方が珍しいくらいなのだから。

 順を追って考えてみると、俺は心のどこかで安心していたのかもしれない。五条はいつまでも夏油のことが大事で、だからそれ以上に大切なものはできないんじゃないかと思っていた。もちろん俺は五条の唯一にはなれないけれど、同じように他の誰もなれない。そう思っていたのにどうやら思い違いだったらしい。







 歌姫先輩を最寄りの駅まで送ってから、駅前の飲み屋街へと戻ってなんとなく目についたバーに入る。水を流し込むみたいに何杯目かも分からない酒を煽れば、アルコールが脳を鈍らせて頭がふわふわする。失恋でやけ酒なんて何やってんだろうって思考の片隅では思うけど、この時ばかりは馬鹿な行いを止められないでいた。

「ねーお兄さん。結構飲んでるけど大丈夫?」
「……?」

 ふいに隣から話しかけられて、そちらに顔を向ける。黒い髪、黒い瞳。五条とは似ても似つかないけど、声や話し方がほんの少しだけ昔の似ているような気がしないでもない。……こんな時ですら五条のことを考える自分は、相当に気持ち悪いだろうな。

「……大丈夫です」
「そう? でも眠そうだよね。ゆっくり寝れるとこ、連れてってあげようか」

 眠れるところ、と言われたせいかなんとなく睡魔が込み上げてきて、無意識にこくんと頷いていた。

「……ね、名前、なんて言うの?」

 五条に少しだけ似た声、似た口調。
 ──違う、五条じゃない、見ず知らずの人間だ。明日も休みをもらっているとはいえ、いや休みだからこそ弁えなければ。
だけど「別にいいか」という気持ちも湧いてきて、否定の言葉が出てこない。五条はどうせ、俺の名前を呼んではくれないから。

「……なまえ」
「なまえさん?」
「ん……」

 名前を伝えてそのまま呼ばれてみて、呼び方もさることながらやはり別人だからか、想像していた響きとは少し違ったけれど。実際に呼ばれたことがないからどこがどう違うのか分からなくて、虚しくて滑稽だ。
 男の腕が自分の身体に回って腰を支えるのを他人事のように感じながら、なんとなく抗うのも億劫になって身を委ねた、その時。


「ねえ」


 空間に響いた声。隣にいるこの男よりもそちらの方がより五条の声に似ている気がしたから、つい体を預けるのをやめた。

「何してるの」
「な、んだよ、あんた……」
「そいつに触るな」

 ぐん、と腕を引かれて、誰かの腕の中に引き入れられた感覚のままに硬い胸板にぼすんと倒れ込む。五条の声がする。五条の匂いがする。なんで五条が? 今は会いたくなかったのに。

 ──ああ、夢かな。だって俺は今日は歌姫先輩と飲んでいてそこに五条はいなかったし、いやそもそも五条は海外に行っていて暫く戻って来ないはずなんだから。

「ごじょう……?」

 それでももしかしたらなんて思って名前を呼べば、抱き寄せる力が強くなった。だめだ、頭がくらくらする。瞼が重くて目を開けていられない。
だけどもう、なんでもいいか。意識が遠くなっていく感覚に少しの心もとなさを感じて、俺を抱き寄せるその背中に腕を回してその服を掴んだ。

 そうして眠りに落ちた感覚からどれぐらい経った頃だろうか。

「…………なまえ」

 五条の声で自分の名前が呼ばれた気がした。だけどそんな訳ないからこれもまだ夢だろうな。五条が俺の名前を呼ぶわけがない。
 ああでも、たとえ夢だったとしても。

「ゆめでも、うれしい」

 相変わらず瞼は重い。けれど俺の頬に優しく添えられた手の体温を確かめたくて、それが本物の五条の手だったらいいなと思って、その手に自分の掌を重ねて擦り寄った。

「ごじょうに、なまえ、ずっと、よばれたかった」

 だって俺がいくら悟って呼んでも五条にとっては夏油を思い出すだけだけど。五条が俺の名前を呼ぶってことは、その間だけは五条の眼に俺が映ってるってことだから。

 なんてそんなこと、あるわけないけど。