目が覚めてまず感じたのは、ズキズキと鈍い頭の痛み、身体の怠さ。少し落ち着いて呼吸をすればいくらかマシになって、そこで視界に映る天井が自分の部屋のものではないことにようやく意識が及んで、そして。

「……おはよう」
「ッ! ぁ、え、五条……?」

 気付いたら目の前にいた──正しくは同じベッドで眠っていたらしい──五条が、アイマスクやサングラスをせずに俺を見上げていた。五条は起き上がり、頭を掻いて髪を整えるような仕草をした。

 ──五条の家だ。
 瞬間的に意識が覚醒し、嫌な汗をかく心地とともに昨日の記憶を手繰り寄せる。俺は歌姫先輩と飲んでいた。五条はもちろん誘っていないから居なかったし、知らなかった筈なのに。先輩と別れてそのあと俺はバーに行って、そこからが碌に思い出せない。
 そもそも五条は海外に行っていると聞いていた。だけど実際はここにいる訳で。

「あー、僕、海外任務だったんだけど。早めに終わったから昨日の夜の便で戻ってきて、それで」
「ごめん」
「は?」
「迷惑かけて本当にごめん。すぐ、帰るから」

 経緯も何も分からないがとにかく五条の部屋に自分がいることは確かで、跳ねるようにベッドから降りた。頭の痛みなんか忘れて、そこにあった鞄を引っ掴んで歩き出す。今は何も思い出せないけど、きっと何か迷惑をかけたことは間違いない。

 早くここから出て行かなければ。もう行為に及ぶことはない。あの時のあの夜が最後だと決めた。

「っ、待って!」

 その声に足を止める。いや、自分の意識の外側だったのに反射的に足が止まった。
 過去にも同じように待ってと言われたことがあった気がする。その時と同じだ。結局俺は何も変わっていないらしい。拘束されていないのに、捕まえられていないのに、縫い付けられたように足が動かない。どこまでも馬鹿だ。

「なんで、そんなに急いで帰るの。今日はオフだよね?」
「ごめん」
「……別に迷惑とか思ってないから」
「……ごめん」
「…………京都に帰るって、本当なの」

 五条がまるで俺を引き止めるような声で言う。俺に興味なんかないくせに、むしろ出て行けと思っていたくせに何故だろうか。理由なんか分からないが、そもそももう勘違いも自惚れも必要ない。何をしたって、俺の望むような結果にはならないから。

「みょうじ」
「………」
「僕の、こと、心配してくれるんでしょ。……ちゃんとこっち、見てよ」

 五条のどこか寂しそうに聞こえるその呟きが、鼓膜に影を残すような心地だった。

 心配。ただそれだけだと本当に思っているのだろうか。何故俺が、年に数回しか会うことがなかった五条を気にかけて異動してきたのか。体調を崩した五条を見舞いに行っておせっかいなことをしたのか。
 何故俺が黙って抱かれ続けていたのか、考えたことがあるのだろうか。

 今この瞬間だって、昨夜迷惑をかけたとはいえ俺が今まで受け入れてきた負担に比べればなんてことはないのに、こうして五条のその言葉一つにきちんと従って俺が足を止めたのは何故か。そんな、五条にとって至極些細なことなんてきっと気にも止めていないだろうから、だからこんなにも残酷な言葉を吐くんだろう。

 ちゃんと見て、なんて笑えない冗談だ。この絶対に叶わない気持ちを捨て切れずずっと五条を見てきたのに、まだ足りないのか。もう見ていられないんだと、五条といるのが苦しいと、どうして分からない。

 どれだけ五条のことを考えていても重なることのない思いを声とともに殺して、どれだけ酷く抱かれても身を委ね続けた俺を横目に、知らない女が婚約者なんていう確固たる居場所と権利を持って五条の隣に立つ。
 分かっていた。最初から未来なんて無いしいつかこうなると分かっていた筈なのに、勝手に好きになって勝手に近付いた俺が悪いと分かっているのに。それでもなお受け入れられない自分自身が、一番。


「嫌いだ」


 ぽつりと呟いた言葉に、五条が息を呑んだ気がしたけれど、視界に入ってもいないので確かめる術はない。

「……勝手なことばっかりでごめん。もう、五条の前に現れないから」

 重い足がようやく動き、五条から遠のいていく。家のドアを開けて、閉めて、ついその場でしゃがみ込んでしまいたくなるのを堪えて、エントランスを抜けてマンションの外の空気を吸い込んですっかり慣れた駅までの道を歩く。

 好きになってしまったこと、愛してしまったこと、愛されたいと思ってしまったこと。その全ての謝罪を込めて、ドアが閉まる前にもう一度「ごめん」と小さく告げてはみたけれど、きっと聞こえていない。それでいい。謝ることすら迷惑だろうから。もう既に今日は謝ってばかりだった気はするけど。

 道中、何気なく俯いた時にぱたりと水滴が落ちて、そこでようやく自分が泣いていることに気付いた。いい大人が泣くなんて情けない。もし五条の前でも見せてしまっていたなら、きっと呆れられているだろうな。

「……好きじゃない」

 ぜんぶ勘違いだったのだ。夢だったとでも思って潔くすべてを忘れろ。だって意味のないことだ。この感情も関係も。世界がひっくり返っても結ばれることはないのに、一匙でも望んだ自分が招いたこと。

 ただ、憧れていただけだ。誰よりも強く気高く、それでいてどこか脆くも見えるほど綺麗だったから。今まで出会ったことがないようなその眼に、髪に、術式を発動する時の美しい横顔や指先に見惚れてしまっただけだ。
 あれだけの強者であればきっとどんな風にも生きられるのに、五条が選んだのは当たり前のように強い呪霊を祓って当たり前に弱者を守ること。五条はもしかしたらそこまで意識していないのかもしれないが、その生き方すべてが鮮烈だった。だからこれは、手の届かない術師への憧憬と羨望だ。

「愛してなんかない」

 少なくとも、こんなものは愛じゃない。ただの呪いだ。そうでなければおかしいだろう。

 何をされても、どんな言葉で抉られても、五条と身体を繋げられたあの日々を、眩しく恋しく思うだなんて。