久しぶりに視界をまたぐ銀髪が暗闇でも酷く鮮明に見えるのは、俺の欲目だろうか。

「五条……?」

 膝を抱えて丸まるようにしゃがみ込んでいる五条らしき男に声をかけると、ゆっくりと顔を上げた。やっぱりそれは五条に間違いはなく、顔を見る前から分かっていたはずなのにいざ目の前にすると戸惑う。感情が読み取れない表情で俺を見上げて、「みょうじ」と俺の名前を呟いた。五条の声を聞くことすら随分と久しぶりだ。



 混乱する俺に五条はさも当たり前のように「みょうじを待ってた」なんて言う。もう12月で、六眼があろうが無下限があろうが風の冷たさを感じる夜だっただろうに、一体いつからここにいるのか。関東に比べたら幾分マシだろうとは思うが、それでも寒いものは寒いはずだ。

 そういえば何時間か前に五条から電話がかかってきていた。変な時間の電話だったにも関わらず余裕が無くてつい切ってしまってそのまま折り返すのを忘れていたことを今になって思い出す。もしかしてその時から待ってたのか? 何時間もずっと?

 色々聞きたかったがとりあえず家の鍵を開け、入るように促した。五条はただでさえ目立つのに家の前で押し問答をするのは憚られたからだ。お邪魔します、と呟く五条にはどうしても違和感を感じる。いい大人なら当たり前のことなのに、そもそも五条が自分の家に居ること自体が違和感しかないから仕方ない。

 あの日以来会っていなかったから、次に会った時には──これは極端な話だが──ぶん殴られたり手酷く犯されたりする可能性だって無くはないと思っていた。だからどうなることかと思っていたけど五条の雰囲気は穏やかで、俺の緊張だのなんだのは少しマシだ。とはいえ、どう接するべきかは分からないが。



 とりあえずもてなしの形式だけでもとお茶を出すと、五条は普通にそれを飲んだ。普通のことなんだろうと思うが、他人の用意した飲み物をそんなにあっさり飲んでいいものなのだろうか。少しは信用してくれているのだと思うが、それでも。
 そして何をしていてもどこか品のある五条にはこの家も何の変哲もない湯呑みも、何もかもが不釣り合いではあるなと改めて思った。

「えっと、なんで俺の家に……?」
「……電話、出なかったから」
「え?」
「京都地区の補助監督にシフト聞いたらオフって言ってたから、出かけてるだけならいつかは帰って来ると思って、だから会いに来た」
「………」
「ここの場所は、歌姫に頼み込んで聞いた。僕がしつこかったから根負けして仕方なくだけど」

 俺の質問の意図とは違う方向性の答えが返ってきて、次の質問に詰まる。あまりにもきっぱりと言うものだから追撃するのも憚られた。もっと根本的なところを疑問に思ってるんだと、そう伝える術が分からない。

「ごめん」

 五条が一瞬だけおれの目を見て、そして俯いて言った。心臓が熱い気がするのは、肺の中の冷たい空気が室内の温かい空気と入れ替わったから。そうに違いない。

「酷いことしてごめん」

「勝手に家聞いて、連絡せずに来たことも、ごめん」

「本当はもっと早く言いたかったけど、ちょっと忙しくて……なかなか来れなかった」

「……今更、ごめん」

 五条はそこまで言って、縋るような目でおれを見た。今更、というのは確かにそうなんだろう。おれのこの気持ちが同じようにW今更W五条を許せないって、そう思えるなら良かったのに。

 ため息に聞こえないように、細く息を吐く形で深呼吸をする。会いに来てくれただけで十分だというこの気持ちを、もっと他人行儀に言うにはどうすればいいんだろうか。考えても分からなくて「大丈夫」と答える。どっちつかずの便利な言葉だ。

「過ぎたことだし、もう忘れるから」

 自分に言い聞かせるようにしてそう言った後、五条の顔を見ることはできなかった。きっとこのW過ぎたことW全部を俺だけが覚えていて、あの時の感情全てを俺だけが持て余すんだろう。忘れた方が楽なのに、これから先誰を抱いても誰に抱かれても、きっと五条を忘れられないに決まってる。

「みょうじ、今日……」
「……?」
「…………、いや、……ごめん」

 言いかけたことを引っ込めた五条が視線を彷徨わせる。言葉を濁している、いやどこか迷子になっているような様子で、最後には今日何度目かの「ごめん」が鼓膜をひっかいた。

「あのさ」
「ん?」
「さっきまで、誰と一緒にいたの?」

 遠慮がちな前置きから随分と真っ直ぐな問いかけだと苦笑いしそうになる。いわゆる朝帰りに近い時間なのだから、聞かずとも大体分かっているだろうに。

 そして、どう答えても既に気付かれているのに、他の男に抱かれていたと自分から言えないのが馬鹿だと思う。今後関わることなんかそう無いのに五条にこれ以上嫌われたくなくて、少しでも自分をよく思われたくて。

「友達だよ」
「……、そう」

 五条は沈黙の中にその一言だけを置いて立ち上がった。何も聞かないでいてほしいのに、どこかで追求されたいと思う自分がいる。早く離れたいのに、このまま一緒にいないかと溢してしまいそうな自分がいる。

 五条が立ってみると顕著に分かる。俺の家は一般的な造りだろうと思うが、上背のある五条が生活をするには狭く見える部屋。もちろんそんな規格とか規模とかそういう物理的なことだけじゃなくて、庶民的な暮らしもあまりに似合わない。あの圧倒的な──国をひっくり返せるほどの力だけじゃない。生まれも育ちも何もかも、住む世界が違う人間。

「……みょうじ?」
「──っあ、悪い」

 名前を呼ばれてようやく、自分の手がその服の裾を掴んでいることに気付いた。自分とは格が違う生き物であるはずなのに、誰かを一途に思うような人間臭さがある。そんなアンバランスな五条がどうしてか今日は特に儚く不安定に見えて、ここから出て元の居場所に戻るのだと理解した瞬間に身体が勝手に動いていた。

 もう二度とこの家に五条が入ることはないだろう。それどころか、会う機会すら年に1回有るか無いかだ。五条は基本的に学校間の会議なんかにあまり顔を出さない。上への進言は個別で直接話せば通るからだ。

 五条が振り返って俺を見下ろす。意識の外で動いてしまった指を慌てて離す。いくら謝罪されたとはいえあれだけ酷いことをされたのに、こんな時間にこんな空間に引き止めるなんて、それこそ馬鹿のすることだ。

「えっと、タクシー呼ぶか? 始発がまだ、」
「大丈夫。飛べばすぐだし、今日は実家に顔出すことになってるから」

 電車がないことに気付き提案すれば遮るように返ってきた返答。五条なら交通手段がなくとも問題ないことと寝泊まりの場所も必要ないことを認識して自分の無知と視野の狭さを痛感したのち、まかり間違っても『泊まり』の選択肢を提示しなくてよかったと息を吐いた。

 それにしても実家への帰省なんて東京にいた頃は聞いたことがなかった。御三家の次期当主としての業務や普段の帰省の頻度なんかは知らないけど、ただでさえ多忙な五条がわざわざ出向くということは余程重要ことなんだろう。

 もしかしたら婚約者に会うためだったりするのかもしれない。俺への精算はそのついでだと考えるのが妥当だ。だとしても寒空の下で何時間も待っていたらしいということは俺とはまた同期兼同僚としてそれなりの関係を築きたいということかもしれないけれど、それを気まぐれだと流せるほどには俺と五条は希薄な関係だと自覚しなければいけない。

 自分も既に他の男と寝たくせに、今更そんな憶測をして勝手に戒めようとする思考の醜さが嫌になる。今後関わらなければこんな仄暗い感情も消えてなくなるのだとすれば、今すぐにでもそうすべきだ。