玄関で靴を履く五条を見ていると、五条は一瞬ちらりと俺に視線を寄越した。何かを言いたいような、そうでないような。
 俺はどうだろう。ここで何か、断ち切る言葉を口にするべきだろうか? 喉は空気を潜らせるものの言葉は纏まらず、緩やかな沈黙が部屋に満ちた。

「……怪我は」
「え?」
「もう大丈夫なの」
「えー、と。誰の……?」

 先に沈黙を破ったのは意外にも五条だった。文脈的には俺だと思うけどここ最近の任務でこれといった怪我をした覚えもないし、したとして五条に知らせることも勿論ない。そもそも五条が俺を心配するなんてそれ自体が信じ難くて、思わず要領を得ない間抜けな切り返しになった。

 五条の眉間にほんの少し皺が寄る。珍しいと思った。俺が五条の不機嫌を感じ取る時は大抵、表情は変わらずにただその呪力だけが重たくなることが多かったから。

「……みょうじの。ちょっと前の遠征で怪我したって、硝子に聞いたから」
「あぁ……、現場で処置もしてくれてたし、高専で家入さんに治してもらったし、大丈夫」

 五条の視線の先に自分の肩がある気がして、分かりにくい筈の五条の意図が伝わってきた気がして少し右腕に熱を集めてしまいそうな気がする。家入さんも気にしていたし、五条に伝えたんだろうか? 夏油には無かったこの腕が憎らしいのかと思っていたけど、夏油が失くしたから俺もそうならないかが心配なのだろうか。

 例えば今は抱いている時以外でも、俺を夏油と重ねていたりするのだろうか。

「右腕も、なんともない」
「……、」
「大丈夫だ」

 俺の言葉に、サングラスの奥の五条の瞳が見開かれた気がした。なんで知ってるんだという顔をするのでそれがまた珍しくて、また意味のない「大丈夫」で取り繕った。とりあえず納得したらしい五条は「おやすみ」と夜の挨拶を寄越してドアの向こうへ消えた。

 どうしてか今までの五条よりも鋭さや冷たさを感じなくて、離れて適切な距離でただの同僚として弁えていたらこんな風に接してくれるのかと思うと、少し切なかった。



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 五条が家にやってきたあの日から今まで、心臓はずっと落ち着き払っている。呪術師として嫌なことやしんどいことは山ほど経験してきたからか、そもそも何を目にしても動じることはあまりない。
 それなのに時々どこか落ち着かない気持ちになるこの胸の真ん中は何を意味しているのだろうか。気になるような気もしたが、失恋の残像のようなものだと結論付けて考える意味はないと判断した。

 街に赤と緑の装飾が増え、12月という暦を改めて肌で感じると急に年の瀬を意識するものの、正月休みなんか特に必要のない自分にとってはあまり変わらない。
 昔、俺のことをワーカホリックだと言ったのは歌姫先輩だっただろうか。まあ友達も多くないので仕事の割合が多くなっている自覚はある。セの付く友達は数人いたが今は一人だけだ、というのは流石に誰にも言えやしないブラックジョークだが。

 そういえば百鬼夜行は去年のクリスマスの出来事だったと考えると、一年しか経っていないのが不思議なほどに目まぐるしい日々だったと今更思う。長年一方的に想っていた相手の側で仕事が出来て、まあ色々と勘繰られ乱暴ではあったとはいえ、好きだったその男に抱かれた。そしてこの間はわざわざ時間を作って会いに来てくれたのだから、多少なりとも俺に情を感じてはくれたのだと思う。

 今の五条の様子はさすがに知らないが、俺が東京にいた期間には少しずつ張り詰めたような表情ではなくなっていたような気がする。任務や生徒への同行を少し肩代わりした程度の力添えではあったけど、そして後は性欲処理に付き合うぐらいしか出来なかったけど、結果として何か気を紛らわせる要因になれたならそれだけで十分だった。



 今になって思えば、俺の行動は傷心の片思い相手につけ込むような品のない真似だったなと感じる。負担を減らしたかったとかそういうのは本心だったけど無意識の下心が背中を押したのだと言えなくはない。五条からの警戒も嫌悪も、向けられて当然のものだった。

 今年の終わりを予感させる12月のカレンダーを見て、年の瀬の前にやってくる24日を思い浮かべる。学生時代に交流会で会っただけのあの黒髪が、瞼の裏を満たして離れなかった。