いつの間にか五条の手にあったキーをかざしてロックが解除されて部屋に入る。内装は煌びやかでいて下品な派手さは無く洗練されていて、どう足掻いても出張の時に泊まったどのホテルより圧倒的に高額であることは間違いない。

 やたらラグジュアリーなこの空間にいるのが男二人であるというのは客観的に見てかなり違和感がある。現実逃避に近い方向で色々と考えてしまうものの頭が回らず、この状況の経緯も意図も分からないままだ。

 どうすればいいのか分からず部屋を目線だけで見回していると二人掛けのソファへ座るよう誘導され、ずっと五条に掴まれていた手が一瞬離れた。

「ごめん」

 あの日から換算するともう数えきれないほど聞いた気がする謝罪とともに、五条は俺を抱きしめた。二人分の体重を支えた革張りのソファが少し軋んだ。

 さっきより格段に密着した身体。跳ねる心臓は性懲りもなく期待を帯びていて、そのくせ俺の頭は冷静になろうとしている。平静を装って「もう謝らなくていい」と努めて優しく言ったつもりだったが、五条は一瞬だけ身体を強ばらせるのみで何も答えない。

「五条……?」

 今のこの一連の流れに性的な意味合いは見受けられないけれど、とはいえ五条がわざわざ俺に会いに来る理由はそれしか考えられない。どこか寂しい夜を紛らわせたいのか、それともあの黒が恋しいのか。

 仕事以外ではもう、会うつもりはなかった。それでもこうして触れられたら強く拒めない。それどころか無理やり事を進められたって受け入れてしまいそうな、自分の浅ましさを呪うことしかできない。特に今日は、五条が一番弱くなっている日かもしれないから。

 沈黙が耳を焦らす中、心臓の音がようやく落ち着いてきた。とはいえ、息をすれば五条の香りを吸い込んでしまうから深呼吸すらままならないので離れるべき状況であることは変わらない。どういう言葉でこの静寂に石を投げるかと考えていると、思ってもない言葉が部屋に響いた。
 
「好き」

 五条の掠れた声が耳に触れた。水面に石が投げられたように沈黙が波紋になって、いっそ耳鳴りにすら感じるほどだった。

「……あ、っちが、いや、違わない、けど」
「……?」
「ごめん、あー、だから……」

 五条は抱きしめる力を強めた。というより、俺の頭をぎゅっと押さえている感じだ。顔を見せまいとしているのかもしれないけど、痛くはないけど少し苦しい。とりあえず離れてもらわないと不整脈がそろそろ限界だし、五条の匂いがして落ち着かない。あれだけ酷く犯されたのに体は快感の方を強く覚えているらしい。

 それにしても、『好き』か。

 最中、夏油への言葉を代わりにもらったことは何度かあったけど、その言葉は初めて聞いたかもしれない。今の反応を見るに、そもそも言うつもりが無かった一言だったのかもしれないけど。

「……知ってるよ」

 じくじくと滲む胸の痛みには気付かないフリをして、何でもない声で言う。心なしか五条の腕の力が緩んだ。

 いつもなら何も言わずに受け流せたのに、耐性が落ちたのだろうか。今はもう会えない夏油に対する言葉を聞いてやるだけでいいんだって、言葉の先にいる人間になるだけでいい、代わりになれなくても五条が少しでも落ち着くならそれでいいって、東京にいた時にそう思ってたはずなのに。
 強欲になったのだろうか。自分はまだ、五条からの特別な感情を欲しがっているのか。物理的な距離を取っても他の男で上書きしようとしても、会ってしまえば結局こうしてふりだしに戻ることが分かってしまった。
 いや、最初からなんとなく理解していた。ただ、尽力すれば忘れられると意地になっていただけだ。

「全部、分かってるから」

 背中に回っていた五条の腕が離れる。W分かっているWは自分にも言い聞かせたことだ。今後、出来る限り接触を避けて離れた生活を続けられたとしても、どうせ五条を一目見れば思い出すのだ。たった一夜交わるだけなら構わないだろう。
 自分も最近ご無沙汰だったし、気持ちよくなれるかもしれない。痛くされるのは嫌だけど今日は本当の意味で夏油の代わりなのだから、それなりに優しい行為になるのかもしれない。
 考え方を変えれば、役得だと言えるのだ。例えばこの世で五条に焦がれる人は数多く居るとしても、触れられる人間はそう多くはいないから。

「先にシャワー浴びていい?」
「……は?」
「え?」

 がばりと体を離して俺の顔を覗き込んだ五条は俺の言葉に目を丸くして酷く驚いていた。セックスをする流れとしては普通の提案だったと思うが、何かおかしな事を言っただろうか。気持ちが逸っているとしても今はそこまで遅い時間でもないし、シャワーを浴びるだけなら15分もかからない。

「……待って。さっきの、分かってるって……」
「? するんじゃないのか?」
「……あー、そっちか……」

 五条の言うWそっちWの意味がいまいち分からずにいると、その右手がふいに俺の頬に触れた。少し上向かせるようにほんの少しだけ力が込められて目が合う。体温が1度ほど上昇していそうな熱がその眼に浮かんでいて視線を逸らせない。なんとなく五条の顔が赤い気もするが、控えめな照明では少し分かりにくい。

「今日は、そういうのじゃ、なくて」
「うん……?」
「今更、遅いかもしれないけどさ」

 こんな距離にずっといたことがなくてどぎまぎしてしまうのに、吸い込まれるような青を見続けてしまう。言葉を一つ一つ咀嚼しようとしてはいるが、五条が何をしたいのかが根本的に分からなかったのでそのまま受け入れていると、五条が一瞬、下唇を噛むような仕草を見せた。

「みょうじが、好き」

 さっき聞いた言葉がもう一度降って来る。これらは全て夏油への言葉であって俺との間に他意はないのだと、僅かばかりの冷静さを残した理性が欲を堰き止めようとしているのに、何故か五条は俺の名前を呼んでいて、その眼は間違いなく俺を見ていて。

「みょうじのことが好きだから、絶対に今日、会いたかった」
「……は、」
「自分勝手で、ごめん」

 こんな空間でこんなにも近くで、こんな風に真っ直ぐに目を見て言われたら、誰だって勘違いするだろう。呼吸さえ忘れたように思考も何もかもが固まった俺をよそに、五条の顔が近付いてやがてゆっくりと傾けられた。
 それらの視覚からの情報を脳で処理し終えた時にはもう、唇に柔らかい感触が触れていた。