五条の唇が触れている。何が起きているのか分からなくて、唇が離れるまで息をするのさえ忘れていた。
想像したことがない訳じゃない。五条のことを考えて自分を慰めるぐらいだ。だけど好きになってもらいたいなんてそんな幻想を抱くつもりはなかった。五条からそれを向けられるのは、生涯ただ一人だけだと知っていたから。
そうだ。婚約すら断るほどに好きな人がいるという話だったはずだ。今の流れが全部真実なら俺がそのW好きな人Wになってしまう。だけどそんな都合の良い話、ある訳がないから。
「……無理しなくていいよ」
「……僕は、」
「セフレが欲しいなら、……すぐは無理だけど、ちょっと落ち着いたら考える、から」
これ以上関わることは考えてはないけど、今この場を乗り切るために言葉を探した。誤魔化したり言葉を濁すことはあった五条にはっきりと嘘をついたのは初めてかもしれない。乾いた喉と声帯が貼りつくようで喋りにくかった。
五条はほんの一瞬だけ傷付いたような顔をした気がした。確証もないそれが心臓や肺を刺すような心地になって息が詰まったけれど、すぐに目が逸らされて真意のほどは分からない。
「……傑のことが、好きだった」
五条はぽつりとそう言った。その口から、ベッドの上以外でその名前を聞くことは殆どなかった。それだって俺を夏油に見立ててのものだから、W俺Wが聞いているわけじゃない。
夏油が好き。それこそ知っている。一応それらしい相槌をうったものの思いのほか小さな声になってしまったのは、この部屋の酸素が薄くなったと錯覚するほどに呼吸が疎かになっていたからかもしれない。
初めてできた友達だったから特別だった。同年代で、加減なしで喧嘩できるぐらい強い相手は他にいなかった。
自分がとどめを刺した時は、正直そこまで思い詰めなかった。だって他の誰かに殺されるよりマシだと思ってたし、傑もこうなることは分かってたような気がするから。
傑が死んでも、別に平気だと思ってた。傑とはあの時以来会ってなかったし、実際に僕の日常は何も変わらなかったから。
「だからみょうじが硝子と話してるの聞いた時、絶対に裏があるって思った。だって呪術界で僕のことを心配する人間なんていないし、いても硝子か夜蛾サンぐらいだったから」
「………」
「ただ同学年だっただけの人間を心配してわざわざ京都から東京に来るなんて、上層部のジジイ共の差し金だとしか思えなくてさ。憂太も含めた僕の生徒達を狙ってるんだろうなって思うと、適当に京都に返すことしか考えてなかった。……言い訳にも、ならない話だけど」
五条は少し言いにくそうに、だけど淡々と話した。言っていることは間違ってないし、やり方は褒められたものじゃないけど五条はただ守ろうとしただけ。上層部連中は俺もあまり好きではないから最低限従うだけを貫いているけど五条は俺を知っているわけじゃないし、五条クラスになれば俺なんかが感じる圧力や理不尽の比じゃないんだろう。疑うのも無理はない。
「何の相談もせずに異動を志願した俺が悪いから」
「……やっぱり、本当にみょうじが志願した話なの?」
「……、うん」
「それの、さ。本当の理由って、聞いてもいいの」
五条が目線だけをちらりと寄越したので目が合う。少し眉を寄せた表情だけど怒っていたりしている訳ではなさそうで、とはいえどういう感情なのかも、どういう意図で質問してきたのかも分からない。
「……家入さんに言った通りだよ。五条のことが心配だった」
「……僕、今までそんなに話したこともなかったよね。高専の時に交流会で会ったぐらいで他にまともな関わりなんてなかったのに、なんで心配してくれたの?」
「それは、………」
「酷いことしたのに看病してくれて、そのあと心配してくれてたのも知ってる」
「………」
「それに甘えたつもりはなかった。けどみょうじに好きな人がいるって聞いてなんでかイライラして酷いことしちゃったし、多分もういよいよ僕のことが嫌いになったんだろうなって。実際に『嫌い』って言ってたし」
「五条、」
「でも勝手だけど僕は、会いたくて仕方なかった」
随分とストレートな言葉選びに押されて口を噤む。俺に対しては常に言葉を削る印象があったから。必要最低限の会話や報告、あとはセックスの時の一方的な言葉も、行為を重ねるにつれ段々口数が少なくなっていったから胸の内は知らないまま時間だけが過ぎた。
二つほど前の質問の意味と回答を考える。なんで心配したか? そんなもの、言ってどうなる。知ってどうするんだろうか。
本当のことを隠して五条が納得のいくような答えを話せるとは思えないが、仮に本当のことを言ったところで不快な思いをさせるだけだ。五条にとっては腑に落ちない内容だったとしても、当たり障りのない言葉を探すべきだ。そう思うのに。
何が最善かちゃんと答えは出せているはずなのに、「会いたかった」なんて言葉が脳裏をよぎって邪魔をする。五条が少し緊張したような表情で言葉を待っているように見えて、俺なんかが振り回してしまっていることが申し訳なく思えた。もういっそ言ってしまおうかと言う気持ちと、何も告げずにここを切り抜ける方法を考えたい気持ちとで迷う。
「……もう二度と会いたくないぐらい嫌だったら、術式使ってでも突き飛ばして」
その言葉を最後にそっと抱きしめられる。ぎこちないその手が、心地よく感じてしまう体温が、五条のものとは思えないほど頼りない声が脳を揺らす。この期に及んでそれらがどうしても欲しくなるなんて、こんな馬鹿な感情が愛というものなのだろうか。もしそうだとしたら、浅はかで愚かで女々しくて、まるで本当に呪いのようだと思った。
「……嫌いに、なりたかった」
嫌いだ。好きじゃない。愛してなんかない。
あの日の自分の言葉通り、もう二度と顔も見たくないぐらい、心の底から嫌いになれたら良かったのに。