今までの人生で、浅い仲だったとは思うものの一応恋人紛いな関係性の女がいたこともあるし、誰かを好きになったこともある。つまり傑へ向ける感情の中には触れたい気持ちが確かにあって、友人なんてものとは無縁の人生だった自分でも分かる程度にはただの友愛と呼ぶには大きすぎた気がするから、それを恋や愛だと言うんだろうと思って生きてきた。

 実際に傑が離反して居なくなって暫くは、日常がつまらなくて仕方なくて全部ぶっ壊してやろうと思ったこともあったけど、道を外さずに生きていないと連れ戻す機会があっても連れ戻せないし、何より勝手に決めて勝手にいなくなったことを一発殴ってやらないと気が済まなかった。

 女から向けられる思慕や、自分が傑に向ける気持ち。それらがW愛Wだと思っていた自分にとって、みょうじと過ごすことはあまりにも苦しくて落ち着かないものだった。みょうじは最低なことをした俺を非難することもなく、恐怖も畏怖も露骨に表に出すことはなかった。立派な加害者である僕に対して心配する気持ちを確かに持って看病するために家に来る。その優しさも、僕の身を本当に案じているような表情も、そのくせ僕じゃない誰かを見ているような目も。全部が苦しかった。

 今まですべて受け入れてくれていたのに、連絡しても断られて避けられるのは人並み程度に落ち込んだ。酷いことをしたのだから当たり前だ。セックスのあの時間だけでもみょうじの特別になってみたくて名前で呼ばせて、過ぎた快楽を与えて欲求を満たして。

 意地の悪いことをしてしまった次の日の朝には流石に罪悪感があったから任務の時間より早めに起きてまともな朝食を作ってみたけれど、それは食べてくれてお礼を言ってくれたものの鍵はあっさりと返されたのであまり意味を成さなかったのかもしれない。食堂でよく和食を食べているのを見かけたから和食っぽいものにしただけで、みょうじの好みについて真偽の程はわからない。僕はみょうじのことを何も知らないのだと改めて思い知らされるだけ。

 そうして気まずさを抱えてしまってすぐに会いに行くこともできず、連絡をしてみてもまともなやり取りは実らなくて、馬鹿みたいに詰め込まれたスケジュールを僕には珍しく誰に押し付けることもしないで淡々と消化する日々だった。真面目に仕事をしすぎて恩師に心配された時は流石に少し笑えてほんのちょっと気が紛れたけど。

 もしかして会わなければそれはそれで忘れられていずれ会わなくても平気になるのかも、と勝手に思っていた部分も正直あった。ただ結果として僕は僕自身に裏切られ、恋人でもないのにみょうじが今頃何をしているかなんてことを考え始めた時には流石に限界だと思った。

 そんな中でみょうじから初めて電話がかかってきて、そしてすぐに切れた。一瞬都合のいい幻覚が見えたのかと思ったけどそんなことはなく、少し考えてから折り返すも応答はない。もし任務中なら着信の音や振動が邪魔になる場合もあるから、ただの誤操作、そして折り返しには気付いていないだけの可能性もある。

 ただ、なんとなく嫌な予感がしてみょうじの担当任務を伊地知に調べさせて補助監督に連絡を取る。『単独で任務に当たっているはずだが現状連絡が取れない』などという報告を聞くや否や現場まで飛んだ。今まで色んな任務を請け負ってきたけど、人生で3本の指に入る程度には急いだと思う。

 よく視えるこの目は目当ての人間をすぐに見つけたが、血を流して壁を背に座り込むみょうじを見つけた時には──本当にあり得ないことだけど──ほんの数秒、呼吸をすることさえ忘れていた。

 腕から血を流して壁に凭れるその姿が最期に会った傑に似ていて、あの時は感じなかった不安と焦燥を感じたから。息が苦しくて上手く酸素を得られなくて、我に返って術式を中和してあげられたのは数十秒経った後だったかもしれない。

 高専に戻って硝子の治療を受けて眠るみょうじを見て、無事と分かっていても僕の心拍はぎこちないまま。そして胸を占めるのはやっぱり苦しさばかりだった。

 みょうじがまだ目覚めていないのに海外任務を言い渡され、前倒しで業務を終えて夜に帰ってきた時にはみょうじはもう退院した後だった。硝子が全部見透かしたようにみょうじと歌姫との予定を語った。揶揄いも含まれているはずのそれに素直に礼だけ言えば、硝子は珍しく驚いていた。

 みょうじを探してそこそこの規模のバーで見つけた時には、久しぶりに非術師に対して殺意に近いものが湧いた。比喩じゃなく誰の命も一瞬で刈り取る力を持って生まれたからか、禪院家が産んだあの男のような天与呪縛でもない限り、力を持たない人間なんていつでも殺せるからこそ別にどうでもいい。どんな人間にだってそう思えていたのに。

 そもそも歌姫と二人で飲みに行っているということだけでも何故かものすごくイライラしたのに、探してたどり着いたバーにはその歌姫すら居らずみょうじ一人で、しかも相当飲んだのかその表情はいつも見ていた姿とは違っていた。一言で言うと隙だらけで、うまく誘えば今夜だけでも頷いてくれるのでは、と男に思わせるような雰囲気を纏っていた。

 男に支えられてようやく歩けるというその様子に、どれだけ酔っていてもいざとなれば呪力でどうにでもできると分かっていながらも苛立ちが抑えられない。あまつさえ名前で呼ばせて下心しかない手を拒むこともせず腰を抱かせて、僕よりもみょうじのことを知らない上に力も何もかも僕より数段劣るそんな男に、自身を委ねようとしている。

 紙の端に触れた火種が一気に燃えて広がるように、瞬く間に体を蝕んだのは胸を締め付けるような苦しさと、知らない男への憤り。

 僕の中にはいつだって、綺麗な感情はひとつも無かった。

 ただ一つ、前後不覚のみょうじが間違いなく僕の名前を呼んで、そして「ずっと名前で呼ばれたかった」なんて健気なことを言ったことで、全ての暗く黒い感情が浄化されたことを覚えている。

 家に連れ帰ったあとは欲を押し込めてみょうじに触れることなく同じベッドで眠り、そして迎えた朝は爽やかなものだった。ただ絞り出すようにして告げられた「嫌いだ」という言葉にまたも一瞬呼吸を止めてしまうはめになったことは言うまでもない。



 みょうじが京都に戻っても仕事は変わらない。劇的な日常の変化を感じるわけでもない。ただ、任務の数自体が少しだけ減って休みが少し取れるようになった気がする。その理由を知るのは随分と後の話だけど。

 とにかく僕もいい年した大人なわけで、だから誰か一人に会えないだけでどうこう思うなんて情けない。だけどなんとなく顔が見たくて声が聞きたくて、そのくせ連絡をする勇気はないままに時間だけが過ぎた。




 ある日、硝子にチョコ菓子を手渡された。「誕生日」と言われてから日にちを認識した。

「いつも通り、当日は実家だろ? 先に渡しとく」
「……あー、うん。ありがと」

 毎年恒例のチープな普通のお菓子をプレゼントとして受け取りながら、すっかり忘れていた自分のプライベートなスケジュールを頭の中で確認する。そう言えば明日は仕事が午前だけで終わりの日だった。誕生日の前日だから京都への移動も含めてスケジュールを押さえてくれているらしい。

 実家のことを考えてまず思い浮かんだのは、みょうじに会いに行けるかもしれないということだった。どのツラ下げてという話ではあるものの、会える距離にいるのならもう一度会って酷いことをしたことを謝りたいと思う。みょうじは僕の誕生日なんて知らないだろう。それでいい。祝ってもらおうなんて欲張るつもりはないから。

 そう思っていたけどまさか、電話しても切られて折り返しなんかない上に、深夜になっても帰ってこないなんて思わなかったけど。

「五条……?」

 久しぶりに聞いた声は寒さからか少し震えていた気がする。「みょうじを待ってた」と言えば見開かれる澄んだ目の色。

 簡単に僕を家に上げるのもわざわざお茶を出してくれるのも、深い意味はないんだろう。ただ優しくてお人好しってだけ。

「大丈夫。過ぎたことだし、もう忘れるから」

 ごめんと何度も謝れば返ってきたのは、僕を非難することもなく受け入れすぎるわけでもない言葉。意識的にか無意識にか、まるでみょうじ自身に言い聞かせているように感じた。それと同時に、家に入れてしまったこの状況でこれだけ力の差がある人間を相手に下手なことは言えないだろうと自分を戒める。誰のことでもそうだけど、どれだけ考えたってみょうじの全てはわからない。解らないから、これだけは聞きたくて。「誰と一緒にいたの?」と尋ねれば、ほんの一瞬だけ瞳が揺れた。

「友達だよ」

 みょうじの家という空間にいるからか、みょうじから他の男の匂いがするということに気付いてしまう。だけどそれを突き詰める権利は僕にはない。W同僚WとW友達Wなら、友達を優先するのは仕方がないことだ。

 匂いが移るほど近くにいたそのW友達Wとは、どんな話をしたのだろう。僕に酷くされたみょうじを慰めたのだろうか。恋人のように寄り添って、肩を抱いたりキスをしたりしたのだろうか? 一夜に何度繋がって、みょうじはどんな声でその男の名前を呼んだ? 好きだとか愛してるだとかそんな甘い言葉だって言われたかもしれないし、もしかしたらみょうじもそんな風に男を煽ったかもしれない。

 きっと僕と違って、そいつは優しく触れたんだろう。僕みたいな男といるより幸せになれるのかもしれない。ただ、それでも考えるのをやめられない。

 ──ねえ、もし僕がきみに優しい男になれたら、そいつじゃなくて僕を選んでくれる?