もともと3日程度の予定だったが急遽一週間に延びた出張を終え、久しぶりに高専へ出勤する。土産に買った当たり障りのない個包装のお菓子を職員室の各先生のデスクに配り、箱と紙袋を畳んだところで、ガラリと扉が開いた。反射的にぱっと振り返れば、見慣れた全身黒の服を着た五条が立っていた。

「っ、あ、五条。出張中の対応ありがとう」
「……うん。お疲れ」
「……え、あぁ、五条も、お疲れ」

 お疲れ、なんてそんな労りの言葉を五条にかけられたことがなくて、同じ言葉を返すだけなのにずいぶんぎこちなくなってしまった。今日はたまたま機嫌が良いのかもしれない。何にせよ、社交辞令であっても好いた相手に友好的な挨拶をされたのは嬉しくて、つい頬が緩みそうになったのを慌てて堪えながら、誤魔化すためにスマホをチェックした。

「──それ」

 五条が俺の手元にある空の箱と紙袋を見て言う。目隠しをしていても分かる視線の指すものに、いつかの冷たい表情がフラッシュバックして、俺は慌てて自分のデスクのゴミ箱に捨てた。五条のストレスにならないように、余計なことをしないようにと散々思っていたところだったのに、何をやっているんだろうか。

「ご、めん。今回、出張長引いて先生たちに迷惑かけたから、お礼がしたくてつい買ってきちゃって」
「……いや、」
「毒とかは本当に入ってないから安心して。あと、五条のデスクには置いてないからさ」

 初めて出張土産を買って帰った時、五条に「きみからの土産なんか受け取ると思う? 何入ってるか分かんないし」と凄まれ、渡そうとした土産は術式で潰されたので、それ以来買わないようにしていた。けれど今回は出張が予定より長くなり、その間の雑務は他の先生の負担になっていたはずだからと、お詫びとお礼を兼ねて土産屋に立ち寄った。
 五条は多忙な上、高専に自室があるから職員室にいることは滅多にないので、五条にさえ差し入れなければ大丈夫だろうと思って買ってきてしまったのだった。鉢合わせてしまうのは想定外で、早口で先回りして弁明することしかできない。

「………その」
「えっと、とにかくごめん。気に入らなかったら他の人の机に配っちゃった分とか、捨てていいから。じゃあ、また」
「っ、待って、みょうじ……っ」

 五条が入ってきた方と反対側の扉から出て行こうとしたところを呼び止められる。随分と切羽詰まったようなそれに少し驚いて足を止めた。そもそも名前を呼ばれることなんて滅多になくて、それだけのことにも思考が止まってしまう。
 目が隠されていても分かるほどに何かを言いたげなその表情は初めて見るもので、言葉を待つものの沈黙が続き、呼び止めた意図を図りかねるばかりだった。

 そこに、スマホのバイブレーションの音が低く響いた。反射的にズボンのポケットから俺のスマホを取り出すと冥さんからの着信で、五条に断りを入れて電話に出る。

「もしもし、みょうじです」
『お疲れ様。この間はすまなかったね。怪我の具合はどうかな』
「あれぐらい大丈夫ですよ。すぐ治りました」

 まただ。電話をしていると、五条から視線を感じる。冥さんは高専所属ではないし、あの通り金が全てな人だから、たとえば俺と共謀するなんてこともあり得ないし逆に俺が冥さんをどうこうすることもないから、何も心配することはないと思うけど。

『遅くなってしまったけれど、お礼として来月か再来月あたり、ホテルのディナーに行かないかい? ご馳走するよ』
「いや、えーと……。冥さんとディナーは流石に俺にはハードルが高いといいますか……」
『私が借りを作りたくないタイプだということはキミも知っているだろう? ああそうだ、せっかくだから以前プレゼントしたオーダーメイドのスーツを着ておいで。大丈夫、キミは素材がいいからね』
「えっ、ちょっ、あんな高そうなスーツいただけませんし、汚すの怖くて着れませんって……!」
『服は着るためにあるんだから、気にしたら負けだよ。じゃあ、少し先になるけど日時は追って連絡するから』
「……分かりました」

 電話を切って顔を上げるとさっきまで少し距離があった五条がすぐそばにいて、無意識に少し後ずさった俺の腕を、その手が掴んだ。アイマスクに遮られていて表情は分からない。行為中はぎしぎしと痛いくらい力が込められる手が加減されていることには少し驚いた。

「えっと……?」
「……冥さんと何の話してたの」
「何の話っていうか……仕事の話……?」

 直接的な仕事の話ではないが、しかし冥さんと俺は仕事以外で会う間柄ではないので、さっきの約束はその延長のようなものだ。実際、冥さんにとっては借りを返すだけの時間。多忙なあの人が時間を割くのは、今後の金の行く末に多少なりとも俺が関わっているというだけ。
 しかし五条は納得がいかないようで、目元が隠されていて分かりにくいものの、不服そうな表情が見て取れた。

「冥さんとご飯食べに行くことが仕事?」
「……前の任務で冥さんをちょっと庇ったから、そのお礼ってだけだよ。もう治ってるけど、借りを作りたくないって」
「……庇った……?」

 お疲れという言葉のときは少し柔らかく幾分か明るい声色だったのに、だんだんと低くなる声。俺の言葉や行動の、その何かが悪い意味で琴線に触れたらしいということしか分からず、背中に嫌な汗をかく。
 逆鱗に触れて乱暴に暴かれた記憶が蘇る。別に五条が怖いわけじゃない。ただもちろん怒らせたくはなくて穏便に済ませようと頭を巡らせるけれど、そもそも何が駄目だったのか。

「……、スーツっていうのは? 冥さんからプレゼントされたの?」
「え? あぁ、それはまた別件で……。でも本当に冥さんのただの気まぐれだし、間違っても五条や五条の生徒の不利益には絶対ならないから安心して」

 五条がどこを気にしているかは正直わからない。ただ、これだけは伝えなければと思って言った言葉で、五条はぴくりと肩を揺らした気がした。それから、どこか遣る瀬無い表情見えて。

「……そうだね。ごめん」
「えっ、あ、五条───……」

 俺の手を離したその腕を逆に掴んで引き止めようとしたところで、見えない壁に阻まれる。それが無下限だと理解するのに数拍を要した。
 術式を使ってまで拒みたかったという事実。分かっていたことだ。俺から触れるなんて許されていない。

 苛立つとはいかないまでも、明らかに機嫌が斜めに傾いていた五条が、いや機嫌がどんなものだったとしてもあの五条が、俺に謝ったことが信じられずつい手が伸びた。それがいけなかった。この手が届く筈なんかないって最初から分かっていたのに、それでも無駄に心臓が痛くて、一丁前にショックを受けてしまっているらしい。

 俺が固まっているその間に、当の本人は職員室を出ていった。明日は槍でも降るのかと思うほどの衝撃だったけれど、まあお疲れの言葉だって含めて、ただ気分だっただけだろう。五条はどこか、気まぐれな猫のような雰囲気を持っているから。

 その証拠にその次の日の夜、「任務終わったら家に来て」と行為の誘いの連絡があった。いつも通りだ。

 そう結論づけてみるものの、五条の声や表情が頭の片隅に引っかかって、しばらく離れてはくれなかった。
 ついでに、無限に阻まれたこの手の感触も。