「みょうじ」

 その声で呼ばれることには慣れたと思っていたのに、相変わらず心臓がひどく煩くなるものだから嫌になる。微かに深呼吸をして振り返る。「何?」と当たり障りない返事をして、黒い布に目元が覆われていて表情が読み取りにくいその顔を見た。病み上がりに任務に行ったと聞いた日から2日ほど経っていたので、もう体調は本当に問題ないのだろう。

「……今、ちょっといい?」

 五条からこんな風に、こちらの都合を窺うような声をかけられるのは初めてで、また鼓動が煩くなった。別に何を期待しているわけでも予感しているわけでもないのに。年甲斐もない話だけど恋焦がれるとこんな何気ない会話にすら緊張してしまうものなのかと、過去にいた何人かの彼女を思い浮かべて心の中で謝罪した。
 当時その子たちのことはちゃんと好きだったし、ちゃんと恋愛をしていたと思っていた。だけど思い返せば楽しかった思い出ばかりが先行して、この胸が痛むことはなかった。

 五条だけだ。好きになる度に感じる息苦しさや切なさを突きつけてくるのは。







「なんでそんなに緊張してるの? ……それとも、僕が怖い?」

 五条は俺にソファに座るよう促がし、お茶を淹れてくれた。見るからに高そうな急須を使って高級そうな茶葉を慣れた手つきで注がれ、部屋に上品な香りが漂う。ああそういえば由緒正しい家柄の嫡男だったなあと改めて思った。

 なぜ緊張するか。別に怖がっているわけじゃない。殺気立たれれば生命の危機からそれなりに恐怖を感じるかもしれないけれど、それ以外で五条を怖いと思ったことはない。
 ただ五条と二人きりでいるから緊張してる。そんな馬鹿なこと言えるわけがなくて、曖昧に笑って誤魔化した。

「……お見舞い、ありがとう」

 五条にお礼を言われるなんてあまりに驚いて、少し固まってしまった。それがどう捉えられたのか、五条は「僕をなんだと思ってるの」と少し口を尖らせて言って、自身の淹れたお茶を啜った。俺もそれに倣って、品の良いお茶の香りを鼻腔で感じながら湯呑みに口をつけた。

「……ごめん。覚えてたんだなって、驚いただけ」
「どういう意味?」
「いや、熱で結構しんどそうだったから」
「酔っ払ったりするのとは違うんだし、普通に覚えてるよ」

 五条の声からその心情がうまく読み取れず、あの日の自分がしでかしたことを順番に思い起こす。着替えさせたのと身体を拭いたのと、あとはゼリーを食べさせたこと。たぶんそれぐらいだ。とはいえ、世話を焼きすぎたかもしれない。五条の記憶が錯綜していることを祈ったけれど覚えているらしいので期待は薄そうだ。
 片想いをしている人間の看病なんてきっともう二度とそんな機会は訪れないから、俺が覚えていることも許してほしいところだけれど。

 「俺は特に何もしてないよ。薬が効いてよかった、さすが家入さんだね」と言ってお茶を飲み干した。どうにかこの場から離れたくて、任務か何かの理由をつけて出て行こうとしたのを、五条の静かな声が制するように響いた。

「なんで帰ったの」
「……え」
「起きるまで居てって、言ったのに」

 その問いかけの意味を理解するのに、本当に時間がかかった。あの日それを言われた時の一瞬の心の高揚と、五条の寝言を聞いた時の現実を思い出して、胸にじくじくとした痛みが広がる感覚だった。

「ねえ。なんで?」
「……ごめん。俺に言ってると、思わなくて」
「キミしかいなかったのに?」
「……、そうだね、ごめん」

 夏油に言ったのかと思って。

 その言葉は喉でつっかえて、声にならなかった。