※夏油傑not離反if





 ある日突然、バケモノが見えるようになった。

 これはファンタジーな漫画や小説の導入ではなく、俺の見える世界の話だ。どうやら他の人には見えないらしいということにはすぐに気付いた。数少ない友達と一緒にいる時にそのバケモノに遭遇しても何も言わないし、テレビやネットでもニュースになってない。でも、確かに見えるのだ。頭がおかしくなったのかと思ったけどドラッグなんてものに手を出した覚えはないし、調べてみたけどそんな症状の病気なんか見つけられなかった。

 そのバケモノは少なくとも俺の目には存在こそしているけれど、何か実害があるわけじゃなかった。だから見つけたら接触しないように遠回りして帰ったりして回避して、あとは風邪をひいた時に病院に行く時なんかはWイヤな感じWがするところは避けるようにして過ごしていた。

 だけど最近になって夢にまで出てくるようになって、夜中に目が覚めてはじっとりと汗をかいている自分にため息を吐く。特にここ数日は悪夢を見る頻度が上がってきて正直寝不足で、睡眠促進の軽めの薬でも飲もうかと思ったほどだ。だけどこれがもし何かしらの疾患から来る体調異常だったら下手に薬を飲むと余計に悪化しそうだと思ってしまって飲めなかった。

 そんな中でも仕事をこなした帰り、眩暈がして思わずしゃがみ込んだ。寝不足のせいだろうなと冷静に思うものの、視界がぐるぐる回って平衡感覚が馬鹿になったまま立ち上がれない。背中にずしりと何かの気配を感じて、恐怖でひやりとする。

「大丈夫ですか?」

 落ち着いた声が鼓膜を揺らした。ふと、立ち上がれないほどの眩暈が少し楽になり、ゆっくりと顔を上げて声の方を見た。その人を見た時の最初の印象は「黒」だった。髪も目も、そして服もすべて黒だったから。
 親切な人の手を煩わせているのが申し訳なくて、何よりこの人までこのバケモノに襲われるかもしれないと思うと怖くて。だから大丈夫ですと言いたいのに口が動かなくて結局そのまま瞼が重くなって目を閉じる寸前、その人が空中に手をかざすと、小さなバケモノが消えた気がした。

:

 目を覚ますと、知らない天井だった。
 これは一般的には病院に運ばれた人が言う台詞だと思っていたけど、違う場合もあるらしい。

「気分はどう?」

 起き上がってウッド系の香りがする部屋を少し見回していると声がして、そちらを見た。俺を心配してくれた人だった。部屋着も黒で、シンプルな部屋に馴染んでその人自身もなんだかおしゃれだ。

「大丈夫です、あの……」
「私は夏油傑。ここは私の部屋で、昨日あのまま気を失ったので一旦寝かせて、そしたら顔色も良くなったので救急車を呼ばなくても大丈夫かなと思って」
「あ、ミョウジ、です。ご迷惑をおかけしてすみません……」

 俺はあのまま倒れたらしい。救急車を呼ばれていたらうっかりバケモノが見えるなんてことを言ってしまっていたかもしれないので助かった。お礼を言えば「気にしないでください」と言って笑うその人は切長の目を細めていて、涼しげで整った顔立ちの人だなと場違いなことを思った。

「……夜、眠れてないの?」
「え?」
「クマができてるよ」
「あ、……ちょっと寝つきが、悪くて」

 そう言った俺の目元の下に指が触れ、するりと肌を滑った。それだけでなんだか身体が軽くなった気がして、肩の力が抜ける。

「でも今日は、久しぶりにぐっすり眠った気がします。ありがとうございます」

 これだけ頭がすっきりしているのも、さっきまで眠っていたけどその間は悪夢を見なかったからだろう。程度の差はあれど悪夢を見ない日はなかったからきちんと眠れることの幸せを改めて感じていると、目の前の人は心配そうに眉を下げた。

「暫くここに住むのはどうかな」
「え?」
「……貴方は、色んなモノに好かれているようなので」

 そう言ったその人は困ったように笑っていた。その言葉の意味は、その時はよく分からなかった。

:

 知り合ったばかりの人の家に住むなんてもちろん断ったけれど夏油さんは気を悪くした様子もなく、むしろこちらを気遣ってくれた。夏油さんはこれも何かの縁だからとスマホを取り出して、その流れでメッセージを交換した。「いつでも連絡してください」と爽やかに笑うその人は初対面の時から変わらず紳士的でなんとなく頼り甲斐があって、地元から一人で上京して同僚以外の知り合いが近くにいない自分には心強く思えた。長く付き合っていた彼女と別れて少し人恋しかった部分もあるかもしれない。

 自分の家に帰っていつも通り過ごして夜10時頃にはベッドに潜ったけれど、眠るとやはり身体が重い感覚と何かにじりじりと迫られる感覚、そして悪夢に悩まされる。体調に波があるまま良くならなくて、外に出るとまたバケモノに遭遇して頭が痛くなる。

 会社に相談したら快くリモート勤務に切り替えてもらえたけど、WEB会議では画面上でも顔色が良くないと心配された。昼休憩にも食欲が出なくてベッドに横になって仮眠を取るけれど、眠ったらまた悪夢を見ると思ったら怖くて眠れなくて、そうしている間に休憩時間が終わることが多かった。

 色々と限界だった。誰でもいいから助けてほしくて、ふと以前深く眠れた日のことが浮かんで夏油さんを思い出した。そして気付いたら、以前交換した連絡先を開いて通話のマークを押していた。

:

「ナマエ、おいで」
「……うん」
「寒くない?」
「うん、大丈夫」

 夏油さんに誘われて同じベッドに入る。限界を感じて回らない頭で電話をかけてしまい、眠れないのだということを話すと呪いのことや呪術師のことを少しだけ教えてくれた夏油傑さんは、一緒に住むことを提案してくれた。そして夏油さんも日々の仕事で疲れているはずなのに、眠るのが恐ろしくなってきた俺に同じベッドで眠るよう促してくれる。

 夏油さんに背中を撫でてもらいながら眠ると朝までぐっすりと眠れるのだ。それがあまりにも幸福で心地よくて、つい甘えてしまう。気を遣わなくていいし敬語も要らないと言われてそれでもどう考えても気を遣うべきなのに、数年前に家族が事故で死んでから親も兄弟も恋人だっていなくて甘えられる人なんかいなかったから、余計に居心地良く感じてしまうのかもしれない。

「……夏油さん」
「うん?」
「迷惑かけて、ごめんなさい」
「迷惑なんかじゃないよ」

 ふわりと微笑む夏油さんはどんな時でも優しくて体の力が抜ける。悪夢の要因である呪いはこの家や夏油さんのような人の側に居れば現れないからと言われて、実際その通りなので今は外に出る時も夏油さんと一緒にいる。迷惑をかけている自覚はあるのに、出張などで会えない日が続くと不安になってしまう。

 もし夏油さんに恋人が出来たらどうしよう。いや俺が知らないだけで、もしかしたら既に良い人だって居るのかもしれない。だって格好良くて背も高くて優しくて、モテない訳がないし。

「……夏油さん。彼女とかできて、もし俺のこと邪魔になったら、言ってくださいね」
「……ナマエは、私と一緒に居るのは嫌かい?」
「ちが、います。……夏油さん絶対モテると思うし、俺のせいで好きな人と居られないのは、だめだから」

 心地良い眠気に押し流されながらそう答えれば、抱きしめられた腕に少しだけ力が込められた気がした。

「……じゃあ、もし私に恋人ができなかったら、寂しいからナマエが側にいてくれるかい?」
「……ふふ。わかりました」

 その気になればすぐに彼女の一人や二人できるだろう人が寂しいなんて少し可愛くて、つい笑ってしまった。「もう寝よう。おやすみ」という穏やかな声で眠気に誘われて目を閉じた。

「……大丈夫。ずっと一緒だよ」

 ──漸く私のものになったんだから。

 意識が途切れる直前、優しいはずのにどこか仄暗い声でそう言われた気がしたけど、瞼を持ち上げることはできなくてそのまま眠った。


▽▲▽▲▽


 夏油傑に恋人ができたらしい。
 ネガティブな話ならいざ知らず、面白みのある明るい話題なんてほとんどないこの界隈において、有名な特級術師のそんな噂は瞬く間に高専に広まった。さすがに生徒たちにそんな噂を吹き込む人間はいないが、教師や職員、そして高専に出入りする呪術師はその噂を知り、そして真偽を知りたがった。

 夏油傑といえば、五条家嫡男の五条悟に匹敵する実力を持ち体格もルックスも整っており、紳士的で優しいという印象を持っている人間が多い。しかし高校時代から付き合いのある者は大抵その本質を知っており、彼の同期の紅一点でもあった家入硝子は「クズ」と揶揄する。もともとの女性関係のだらしなさは、彼女に同じくクズだと称される五条悟を上回る。とてつもなくモテるからこその所業。

 ところが、それこそ近しい人間は、夏油傑がこのところ真っ直ぐ家に帰っているのを知っている。いやそうなる前から、時々飲みに行くことはあっても女と遊ぶことは無くなっていた。仕事終わりの時間を何かに充てがっているという予想はついたが、一人の人間に入れ込む夏油傑など想像がつかない。猫や犬でも飼ったのだろうかと、当時はそう思われていた。

「……で? 僕にくらいそろそろ教えてくれてもいいんじゃないの?」

 五条は高専の応接室で上の人間を嫌々ながら接待した後、夏油に投げかけた。同じく同席していた伊地知も気になる話題だったのかちらちらと視線を寄越す中、夏油は「大したことじゃないんだけどな」と笑う。

「少し視え始めてる感じの、ちょっと呪いに好かれやすい人に会ってね」
「あー、たまにいるよね」
「一度は祓ってそのまま別れたんだけど、何日かしたらまた呪霊のせいで夢見が悪くなったみたいで連絡があって、それから家に住まわせてあげているんだよ。私の家なら呪霊は現れないしね」
「……初対面で? てか、やっぱり女じゃん」
「いや、会うのは2回目。たぶん向こうは、一回目を覚えてはいないだろうけどね」

 あと男だよ、とさらりと告げて夏油は立ち上がる。午後に生徒の課外授業があるというスケジュールは五条も把握している。付き添いは此処にいる伊地知ではなく別の補助監督だ。「じゃあね」夏油が出て行ったドアを見つめていた五条は指先でこめかみを掻き、「あーあ、かわいそ」と呟いた。

「確かに可哀想、ですね。対抗する術式の無い人が呪いに好かれやすいとは」
「いや、そっちじゃなくてさ」
「……え?」
「あーまあ、厄介なのに好かれたって点では同じか」

 五条はやれやれと言った様子でソファにもたれかかるが、伊地知には未だ五条の反応の意味が分からない。

「僕とか傑が術式を使ったりした場所、あとその時近くにいた人には、少なからず残穢が残るでしょ」
「それは勿論……。普通の術師でも基本的には残るものですから」
「そこにさ、不眠とかの影響はあるにしてもでかい実害を及ぼさない雑魚呪霊が近付けると思う? しかもあの感じだと、傑が払うまでの間も同じく眠れない状況だったっぽいし」

 伊地知はぱちりと瞬きをした。

「それは、つまり、……」

 伊地知も違和感に気付いた。しかし確信は持てず、深く覗いてはいけないような気がしてしまって、ただこくりと唾を飲み込んだ。

 夏油は曰くそのW可哀想な男Wに憑いて悪さをしていた呪霊を、わざわざ祓ってやったという。つまり、術式を使うほどではなかったにしても呪力を多少なりとも使ったはずであり、そこには大なり小なり夏油傑という特級術師の残穢は残るはずなのだ。
 病院など圧倒的な負の感情が集まる場所ならともかく、普通の場所や人にならば特級術師の残穢があるところへなど、低級呪霊はしばらくは寄り付けない。

 伊地知の脳内にはつらつらと可能性の話が浮かんでいた。残穢の程度にもよるが、低級の呪霊を寄せ付けないという観点からすると少なくとも「数日」なんて言葉で表現できる日数では消えないことは確かだ。にも関わらず、WまたW男は眠れなくなったという。まさに、以前も不眠に悩まされていてそれが再発したかのような口ぶりだった。

 夏油さんが本当に祓ったのなら、全く同じ呪霊にまた狙われるものだろうか? もしかしてその呪霊というのは最初から、夏油さんの──………。

「……ま、傑が楽しそうにしてるからいっか」
「……報告は……」
「しなくていいよ。お前はこの話も忘れな」
「………」
「同情はするけどさ。でもぶっちゃけ、その非術師ひとりで傑が今まで通り非術師を守れるなら、やむを得ない犠牲だと思うんだよね」

 五条は数年前を思い出す。夏油が非術師に対して本当に守るべき存在なのかどうか、呪術師が命を賭してまで呪霊を祓い、その力もない弱い生き物を庇護してやる義理があるのかどうかと悩んでいた時のことだ。もちろんそのような道に堕ちることはなかったが、もしも呪詛師にでもなろうものならそれこそ命懸けで呪い合い殺し合わなければならないと本気で思っていた。

 それが落ち着いている要因の一つがその男ならば、誇張抜きでこの世界の平和のために、そのまま傑の側にいてもらわなければ。
 硝子が自分達のことをWクズWと評するのはここら辺だろうなと思うも、最善がそれ以外に思いつかないので仕方ない。

「とはいえ会ってはみたいけど、まあ無理だろうな」

 その男に随分と溺愛──そんな表現で片付けられるかは疑問だが──しているらしい親友を思い浮かべ、会ったこともないその男に多大な憐れみとこの上ない感謝を心の中で呟いた。


1ミリグラムの毒で咲く




 何もかもが嫌になったことがある。
 何もかもに疲れて、駄目になりそうだったことがある。
 
 日差しが強い夏の日だった。同期も後輩も恩師もいて忙しなく日々が進んでいくのに何処か置いていかれるような感覚があった。
 早朝に胸糞悪い呪霊を祓って報告を簡易に済ませて帰路に着く途中、『非術師がいるから呪霊が生まれる』という理論が頭をよぎる。先日は後輩の灰原が危うく命を落としかけたのだと聞いて、これらが全て呪霊を見ることすらできない人間のせいなら、何のために呪術師をやっているのか。
 そんな意味のないことを考えてしまうほど何もかもどうでも良くなって、昼間だというのに子どもの一人すらいない寂れた公園のベンチにうなだれるように座って目を閉じた。

「あの、大丈夫ですか?」

 トン、と軽く肩を叩かれて意識が浮上する。ゆっくりと顔を上げると年下だろう男性が私の顔を覗き込んでいて、「もし良かったら」とスポーツドリンクを差し出した。「飲みかけとかじゃないので安心してください」と遠慮がちに笑うその顔がなんだか眩しくて心臓が痛い。男性はすぐに去ってしまって、お礼を言うこともままならなかった。

 呪力なんか感じない、ただの『非術師』。弱くて脆くて取るに足らない存在のはずなのに、こんな昼間から公園にいる全身黒ずくめの男に無警戒に話しかけ、飲み物を手渡すお人好し。
 「大丈夫?」なんて言葉、私にかける人間はそういない。それこそ同期たちや歴の近い後輩、それから恩師は気にかけてはくれるものの、強くなればなるほど独りになってしまう気がする。かと言って悟に並べるほどの力は得られない。もちろん誰よりも気を許せる友人だけど、それでもどこかで感じる孤独。

 それを、あの人なら埋めてくれるんじゃないかって。ただ心配して声をかけてくれただけだと分かっているのに、一度そう思ったら、純粋で眩しいあの人が欲しくて欲しくてたまらなくなったのだ。

: 

 意識が浮上して見慣れた天井が映る。懐かしい夢を見た。腕の中で眠るナマエは穏やかな顔で眠っていて、二度目に出会った時にうっすらと出来ていた隈はほとんどなくなっている。

「ごめんね」

 これが狸寝入りなどではなく深く眠っていることぐらい、寝息や心拍で分かる。だから絶対に届かないと分かっていて、そしてそんな時にしか伝えられない謝罪の言葉を呟く。

「外は危険だから、ずっと此処にいるんだよ」

 言葉に宿る呪いを唇に乗せて囁くとナマエは少し身を捩るものの、またすぐに穏やかな呼吸とともにまた深い眠りへと落ちていった。

 手に入れるために少し怖い思いをさせてしまったけれど、でもこれでこれからずっと守れるのだ。少し視えるようにはなってしまったとはいえ雑魚を祓う力もないか弱い生き物であることに変わりはない。

 私の側にいることが、何より安全なのだから。



2024.05.19





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