トップページへ
目次選択へ
投稿日:2021年02月23日






  *  *  *


 雨音を遮るような、凄まじい雷鳴が響いている。
その音で目を覚ますと、ファフリは泥を跳ねあげて、びくりと起きた。

 どれくらい、この大雨の中、自分は眠っていたのだろう。
まるで槍のように降る雨は、ファフリの体温をすっかり奪ってしまっている。

 ここはどこなのか。
時刻はいつなのか。
全く見たことのない景色に、ファフリは、氷のような手を擦り合わせながら、必死になって周囲を見回した。

 すると、周りを囲む森の奥──少し行った先に、石造りの大きな門が見えた。
その門の向こうには、どうやら大きな街が広がっているようだったが、ノーレントではない。
知らない街だった。

 暗雲に覆われた空を見上げるも、この空模様では、今がいつなのか測れない。

 目頭が熱くなって、視界がにじむ。
突然、どこか知らない世界に一人、置いてきぼりにされたような、そんな不安が胸一杯に広がった。

 その時、微かに、誰かが自分を呼ぶ声がした。
振り返ると、うつ伏せに手をついて倒れたトワリスが、確かにファフリの名を呼んでいた。

「トワリス!」

 涙声で叫んで駆け寄ると、トワリスは、か細い声で、途切れ途切れに言った。

「この、先に……煙突の、家が……」

 ファフリは、トワリスの口元に耳を近づけると、凄まじい雨音の中から、彼女の声を聞き分けた。

「この先に、煙突のある家があるの?」

 トワリスが、微かに頷く。
彼女が指していたのは、門がある方ではなく、森の奥だった。

「そこ、に……」

「そこに……? そこに、行けばいいの?」

 ファフリは、震える声で必死に問いかけたが、それっきり、トワリスは気を失ったようで、なにも言わなくなった。

 続いて、ファフリは木の下で倒れているユーリッドを見つけると、慌てて駆け寄った。

「ユーリッド! ユーリッド!」

 ユーリッドは、何度呼び掛けても、ぴくりとも動かない。
手を握っても氷のように冷たかったし、胸に手を当ててみても、自分の手が震えているせいか、呼吸しているのかどうか分からなかった。

 ユーリッドの側に手を突くと、微かに温かい何かが掌に付着して、ファフリは息を飲んだ。
雨水ではない、赤黒いそれは、ユーリッドの腹部の辺りから滲み出している。

 ファフリは、頭が真っ白になって、しゃくりあげながらユーリッドの手をきつく握りこんだ。

「ユーリッド……嫌だよ……。死んじゃ嫌だよ……お願い……」

 叩きつける鋭い雨粒が、ざあざあと唸って、三人の体を貫く。

 ファフリは、しばらくの間、握ったユーリッドの手を額に当てて、祈るように泣いていた。
しかし、やがてゆっくりと立ち上がると、先程のトワリスが指した方へ、嗚咽を漏らしながら走っていった。


  *  *  *


 ぐつぐつと、何かが小気味よく煮える音がする。
同時に、食欲をそそるなんとも良い匂いが鼻孔をくすぐって、ユーリッドは静かに目を開けた。

 視線だけ動かすと、目先にある暖炉に、鍋がかかっていた。
その蓋を持ち上げながら、車椅子に乗った女が、満足そうに頷く。
長い赤毛を二つに結った、見たことのない若い女だった。

「うーん、完璧! マルシェ家特製、トマトとクリームチーズリゾットの完成よ!」

 女は、早口でそう言い、器用に車椅子を操作して大皿を持ってくると、鍋の中身を皿によそった。

「すごい……とっても美味しそう……」

「でしょでしょ? 私、料理の腕だけは誰にも負けない自信あるんだから。ファフリちゃんも、遠慮しないで一杯食べてね」

 そう言って笑う女の横には、よく見ると、ファフリの姿があった。
ファフリは、女の手元を覗きこんで、小さく微笑んでいる。

 ユーリッドは、微かに身じろぎすると、掠れた声を出した。

「ファ、フリ……?」

 その瞬間、はっとして、ファフリが振り返る。
ファフリは、ぼんやりとした様子で目を開くユーリッドを見ると、みるみる目に涙を溜めて、寝台に駆け寄った。

「良かった、ユーリッド……! 目が覚めたのね! 私、私……もしユーリッドが死んじゃったら、どうしようって……!」

 ファフリの濡れた瞳の奥に、安心の色が浮かぶ。
それを見た途端、これまでの記憶がどっと押し寄せてくるのと共に、ユーリッドも、心の底からほっとした。
今、どういう状況で、ここがどこなのかは一切分からなかったが、それでも、自分達はあのリークス王から逃れ、生きているのだという実感がふつふつと湧いてきたのだ。

「ファフリこそ、本当に良かった……無事で……」

 安堵の息を吐き、そう言葉を漏らすと、ファフリはぽろぽろと泣きながら、ユーリッドに抱きついた。
ふわっとファフリの匂いに包まれると、身体の芯が温かくなって、思いがけず、目の前がにじんだ。

「せっ、先生ー! ダナ先生ー! カイルー!」

 ファフリの脇にいた車椅子の女が、唐突に大声を上げる。
すると、部屋の扉が開いて、二人の男が入ってきた。
一人は腰の曲がった老人、もう一人は、まだ十代半ばくらいの少年であった。

「そんなに叫ばなくても聞こえるよ、姉さん。一体何事?」

「ユーリッドくんがね! ユーリッドくんが起きたのよ! ダナ先生、早く診て!」

 興奮した様子で女が言うと、ダナと呼ばれた老人は、摺り足でユーリッドに近づいた。
そして、添え木と共に包帯が巻かれていたユーリッドの腕や腹部を確かめると、滝のように流れる眉毛を持ち上げて、目線を動かした。

「調子はどうだね。腹に違和感はあるかい?」

 そう問われて、ユーリッドは、試しに上体を起こそうとした。
しかし、全身の骨が軋むように痛んで、上体どころか頭さえあげられない。

 身を起こして、心配そうにこちらを見るファフリに一度苦笑してみせると、ユーリッドは、ダナの方に視線をやった。

「全身、痛くて仕方ない……。でも、腹はなんともないみたいです」

 ダナは、その返事を聞くと、ふむ、と頷いて、ユーリッドの腕を触りながら言った。

「折れた骨が内臓に突き刺さってるのではと懸念しておったが、その心配はないようだ。もうあとは、回復に向かうだけだろう。頑丈だのう、ユーリッドくんとやら」

 ユーリッドとファフリは顔を見合わせると、ほっと息をはいた。
その横で、女が盛大に鼻をすする。

「ぅうぅうう……よがっだわね、ファフリぢゃん……!」

「姉さん泣かないでよ、リゾットに鼻水が入るだろ」

 少年が、冷静に突っ込んで、女の手からリゾットの入った皿を取り上げる。
ユーリッドは、ダナを見たあと、今度は女と少年のほうに目をやった。

「あの、助けてくれてありがとうございます。えっと……」

「リリアナよ。リリアナ・マルシェ。こっちは弟のカイルっていうの。気にしないで、困ったときはお互い様よ!」

 赤毛の女──リリアナは、前掛けで涙をごしごしと拭うと、カイルと共にユーリッドの側に寄った。

「ファフリちゃんから、大体の事情は聞いたわ。大変だったのね……。トワリスのお友達だもの、なんだって協力するから、今は安心して、ゆっくり休んでね。追っ手だって、こんなところまでは来やしないわよ」

 追っ手が来ない、という言葉に、ユーリッドは少し目を見開いて、ファフリを見た。
ファフリは、真剣な表情でユーリッドを見つめ返すと、何から説明すべきか迷っている様子で、答えた。

「あのね、ユーリッド……ここは、サーフェリアなの……」

「サー、フェリア……?」

 思いがけない言葉に、ユーリッドは、目に驚愕の色をにじませる。
言われてみれば、確かにリリアナたちには、獣の耳も、鋭い爪も牙も、なにもかもがついていない。

「えっと、じゃあ……貴方たちは、人間……?」

 戸惑った様子のユーリッドに、リリアナは頷いた。

「そうよ、私達は人間。そしてここは、サーフェリアのヘンリ村っていう小さな村よ。一昨日、ユーリッドくんとトワリスが王都の東門近くに倒れているのを、ファフリちゃんがうちまで知らせに来てくれて、村の人たちに手伝ってもらって、ここまで運んできたの。あの日はすごい雨だったし、血の跡とか痕跡は全て流れたみたいだから、心配しないでね」

「…………」

 そこまで聞いてユーリッドは、全ての状況を理解した。
つまり、二日前にトワリスによってサーフェリアに移動した自分達は、リリアナたちに助けられ、今ここにいるというわけだ。

 リークス王に襲われたあのとき、トワリスは、自分は獣人の奇病について調べるために、サーフェリアから来たのだと言っていた。
そして、リークスからファフリを奪取し、トワリスの元に走っていったときに自分は気を失ってしまったから、きっと、あの瞬間に、トワリスの力でサーフェリアに渡ったのだろう。

 ユーリッドは、理解しつつも、未だに信じられないといったような思いで、ふと横の寝台を見た。
首がうまく動かないため、気づかなかったが、すぐ隣には、青白い顔をしたトワリスが横たわっている。

 ファフリは、再び心配そうな顔つきになって、ダナを見た。

「あの、ダナさん。トワリスは……どうなんでしょうか。まだ一度も目を覚ましてないし……」

 ダナは、長い顎髭を撫で付けながら、静かにトワリスの側に行くと、彼女の腹から肩口にかけて巻かれている包帯を見た。

「さてのう、傷は縫ったし、ひどい化膿は見られんから、そろそろ目覚めても良いとは思うんだが……。何分、出血が酷かったから、なんとも言えんなあ。ヘンリ村には、医療に長ける者は多くいるが、皆、現場からは引退した年寄りばっかりじゃ。本当は、設備の整ったシュベルテの診療所に送る方が、良いんだろうが……」

 そうして口ごもったダナの言葉を拾う形で、カイルが口を開いた。

「でもシュベルテになんか連れていったら、トワリスがミストリアから帰ってきたこと、教会にばれるだろ。容態が悪化してるわけじゃないんなら、ひとまずうちでかくまってたほうがいいと思うけど。それに、そこの二人がサーフェリアに来たことだって、トワリス以上に教会に知られたらまずいよな」

 カイルが、ファフリとユーリッドを示す。
リリアナは、会話についていけてないといった様子のユーリッドたちに、穏やかな声で説明した。

「……サーフェリアにはね、一年くらい前から、獣人が次々と渡ってきていて、人間を襲ってたのよ。このあたりの事情は、知ってる?」

 リリアナの問いに、ユーリッドとファフリは神妙な面持ちで頷く。
二人の頭には、トワリスがリークスに話していた内容が蘇っていた。

「そう……なら話は早いわね。それで、サーフェリアにはイシュカル教会っていう勢力があるんだけど。そいつらが、獣人との混血であるトワリスを、ミストリアと通じてサーフェリアを襲わせた売国奴だって騒ぎ立てて、この子を無理矢理ミストリアの調査に向かわせたのよ。サーフェリアに襲来してる、獣人について探れってね。単身他国に送り込むなんて、死ねって言ってるようなものなのに……」

 リリアナは、怒りと悲しみが混ざったような悲痛な表情を浮かべて、横たわるトワリスの髪を撫でた。

(そうか、だからトワリスは、ミストリアで奇病にかかった獣人について調べてたんだな)

 ユーリッドは、そう納得すると、目を伏せた。
その横で、同じように不安げに目を伏せると、ファフリが言った。

「……そんな状況なら、この国の人間たちは皆さん、獣人のことをひどく嫌ってますよね。じゃあ私達、尚更ここにいない方がいいんじゃ……」

 ぽつんと漏れた呟きに、しかし、リリアナはすぐに首を横に振った。

「そんなことないわ!」

 ファフリの手を、リリアナが力強く握る。

「だって二人とも、ミストリアに戻ったら、また命を狙われちゃうんでしょう? それなら、やっぱりここにいるべきよ。確かにサーフェリアだって、安全とは言えないけど……それでも、ミストリアよりはましだと思うわ。大丈夫、貴方たちはあの変な獣人じゃないんだから、そのことをちゃんと国王陛下に相談してみましょう? 教会に目をつけられる前に、上手く陛下にご相談できれば、サーフェリアに滞在するくらい、お許し頂けるんじゃないかしら」

「まあ、トワリス嬢も、表向きは宮廷魔導師の正式な任務として、ミストリアに向かったからのう。任務完了を陛下に報告して、その事実が公になりさえすれば、流石の教会も、トワリス嬢に露骨な手出しは出来なくなるだろうて」

 リリアナとダナの言葉に、ユーリッドが眉をしかめた。

「でも、そう簡単に国王陛下に謁見することなんて、できるんですか? トワリスはともかく、俺たちは完全に他国の獣人だし……。ミストリアの次期召喚師が来たなんていったら、敵視されるんじゃ……」

 ユーリッドと同意見だ、という風に頷くと、ファフリもリリアナに目を向ける。
すると、リリアナは表情を明るくして、返した。

「心配いらないわ。国王への取り次ぎは、任せられる人がいるの。彼なら教会と同等の権力を持ってるし、きっと二人のことも助けてくれるわ」

「……彼?」

「ええ。ルーフェン・シェイルハート様って言うの。サーフェリアの現召喚師様よ」

 それを聞いた途端、ファフリが驚いた様子で、目を見開いた。

「えっ、ちょっと待って。召喚師は、国王陛下のことではないんですか?」

 カイルが、淡々とした声で答える。

「サーフェリアでは、王家と召喚師一族は別だよ。国王がいて、その下に教会と召喚師がつくんだ。それに、サーフェリアの教会は、女神イシュカルを信仰していて、悪魔のことは邪悪と穢れの象徴として見ている。だから教会と召喚師一族は、水面下で対立関係にあるし、トワリスみたいな召喚師側の奴らは、教会に目をつけられやすいんだ。そういうわけだから、トワリスもあんたらも、教会に見つかる前に、なんとかルーフェンに会えればいいんだけど……。あいつ、放浪癖があるから、一体今どこにいるんだか……」

 そう言って、カイルははぁっとため息をつく。
ファフリは、そんな彼の言葉を聞きながら、心臓の鼓動が速まるのを感じていた。

(サーフェリアの、召喚師……)

 知らず知らずに、握った拳に力が入る。

 召喚師というと、なんとなく自分の一族以外には、存在しないものと思っていた。
しかし、召喚師は、国に必ず一人存在する絶対的な守護者である。
ミストリアにリークスという召喚師が存在するならば、当然、サーフェリアにも召喚師はいるはずなのだ。

 自分とも父とも違う、悪魔を使役しうるまた別の存在──。
召喚術に関しては、これまでリークスが全ての指標だったファフリにとって、自分と同じ力を持った者が他にもいるというのは、なんとも不思議な感覚だった。


- 56 -


🔖しおりを挟む

 👏拍手を送る

前ページへ  次ページへ

目次選択へ


(総ページ数100)