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投稿日:2026年01月06日
世は、魑魅魍魎が跋扈する時代。
過日、帝の在わす内裏が、突如として闇黒に包まれた。
天、暗雲を裂き現れ出るは、禍乱の大妖──牛鬼。
その形相は悪鬼。大牛の如き頑強な巨躯は、嶽と見紛うほどの威容を誇り、鋭き爪牙は、げに恐ろしき邪気を纏い妖しく光っている。
牛鬼の魔手は、後宮へとかかり、中宮 (天皇の妻)・鈴子を拐かした。
宮廷を護る勇猛な衛士らは、矢を番え、刀を抜いて立ち向かうが、いざ、その凶悪な眼に睥睨さるれば、ただ圧倒されて慄くばかり。
渦巻く混乱と絶望の中、牛鬼は大角をもたげ、猛き咆哮を地に轟かせた。
『人間どもよ。この女を取り戻したくば、我が仇敵・安倍影明に伝えよ。
──再戦の刻が来た。彼の登霊山にて待つ、と。
三十年前、彼奴は我に癒えぬ傷を負わせ、とどめも刺さずに落ち延びおった。その情け、侮辱、慢心、必ずや後悔させてくれようぞ! 来たる日、この牛鬼が彼奴の骨を砕き、血肉を喰らい、積年の恨みを晴らすことが叶えば、女は解放してやろう……!』
響き渡った怨嗟の声に、風がざわめき、庭園の草花は枯れ果てる。
腰を抜かして怯える衛士らを尻目に、牛鬼は身を翻し、暗雲の中へと姿を消したのであった。

「──と、いうわけで。牛鬼の討伐と中宮・鈴子様の救出の命じられたわけだが……なんやかんやで、勅令を受けてから、もう七日も経ってしもうた。出陣に良き日を占っている途中、という帝への言い訳も、そろそろ苦しくなってきた。……おぬしら、儂は一体どうすれば良いと思う?」
そう震え声で問いかけたのは、今年で齢六十となる稀代の大陰陽師・安倍影明。
向かい合って控えるは、彼の使役する三匹の式──異邦の地で蘇った血染めの鬼人・赤鬼、禁じられた蠱術によって生まれた怨霊・犬神、神通力に秀でた朧山の烏天狗・夜鴉だ。
今宵、一人と三匹は、安倍邸の寝殿に円座を並べ、評定を開いていた。
論題は、【牛鬼討伐なんて怖いから絶対行きたくないけど帝の命に背くわけにもいかなくて困っている件について】である。
影明は、今か今かと返事を待ち侘び、己が式たちを見遣った。
赤鬼は、至極どうでもよさそうに、ボリボリと赤い腹を掻いている。
犬神は、白犬の外見で愛らしく座り、なぜか嬉しげにブンブンと尾を振っている。
夜鴉は、何やら考え込んでいるのか、カチカチと黒い嘴を打ち鳴らしている。
長い沈黙の末、大口を開けて欠伸をした赤鬼が、かったるそうに言った。
「……つうかさぁ、影明よ」
「うむ、申してみよ赤鬼」
「七日も放置したんじゃ、鈴子様……もう喰われたんじゃねぇ?」
「…………」
影明は、頭を抱えた。
実は儂もそんな気がしておった──とは言えない。
そんなことを口にすれば、中宮・鈴子救出の任を、早々に果たせなかったと自ら認めることになってしまう。
バンッと床を叩き、影明は赤鬼を叱責した。
「めっ、滅多なことを言うでない! 鈴子様は牛鬼にとって、我らを誘き出すための餌じゃぞ! そう簡単に喰われはせぬ!」
「中宮を餌呼ばわりするとは、主の仰りようも、大概かと存じますが……」
冷静に突っ込みを入れてきたのは、呆れた視線を寄越す夜鴉だ。
言葉を詰まらせた影明に、犬神がヘッヘッと息をしながら擦り寄ってきた。
「ですがご主人様! ご主人様!」
「ちょっ、顔が近いぞ犬神よ。……なんじゃ?」
「ご主人様は以前に一度、牛鬼めを退けていらっしゃるのですよね?」
「……まあな……」
「では、それほど恐れずともよろしいのでは? 確かに三十年前に比べれば、ご主人様はお年を召されたでしょうが、その呪力は齢によらず、全く衰えておりませぬ! この犬神もお供します故、今一度、牛鬼めに安倍一門の強さを思い知らせてやりましょう!」
「ぅ、うぅ……しかしだなぁ……」
キラキラと輝く、宝玉の如き円な瞳で見つめられ、影明は返答を濁した。
ぶっと吹き出した赤鬼が、意地悪く牙を剥き出す。
「やめてやれ、やめてやれ、犬神。当時、お前はまだ式になっていなかったから知らんのだろうが、三十年前、影明が都を襲った牛鬼を追い詰め、登霊山にて傷を負わせることができたのは、一重に運が良かったからなのだ」
「運、でございますか?」
首を傾げた犬神に、赤鬼は頷いた。
「あの日は、類を見ないほどの大嵐でなぁ。不運な牛鬼は、稲妻に打たれ、戦いの最中に気絶したのだ。影明と俺と夜鴉は、これぞ好機と、気絶してひっくり返った牛鬼にとどめを刺そうとした。……が、あやつの外皮の、なんと硬いこと! 唯一刃が通ったのが、尻周りの薄い皮膚だけであったので、俺たちは、喰われた都人たちが、せめて早く地に還れるようにと祈り、寄ってたかって肛門周りをズッタズタにしてやった。で、その場を去った」
「あなや! 情けをかけてとどめを刺さなかったのではなく、ただ単純に刺せなかったのですね!」
「左様。ぶっちゃけ、尻への攻撃は悔し紛れにしただけだったから、まさかその時の傷が、三十年も癒えぬ"切れ痔"となって牛鬼を苦しめ、その憎しみと怒りを増幅させることになろうとは、思ってもみなかったが……。まあ、とにかく、そういうわけだ。帝や都人たちは、影明が得意の陰陽道で落雷を起こし、牛鬼を退けたと信じ込んでいるようだが、それは違う。俺たちが牛鬼と真っ向から実力勝負をしていたら、確実にこちらが負けていただろう」
「くっ……赤鬼よ、そのような身も蓋もない言い方をするでない。……う、運も実力の内、と言うじゃろうが……」
「あっ、ご、ご主人様! 泣かないで下さいませ! 犬神もそう思いまする! 運も実力、偶然も必然! ご主人様の人々を護りたいという想いに、雷神が応えてくれたのでございましょう!」
「お、おお、犬神や、おぬしは本に愛い奴じゃ……が、近い近い。涙をベロベロせんでよろしい。座れ」
「はい!」
影明にまとわりついていた犬神が、さっと円座に戻る。
ヨダレで湿った頰を拭う影明に、夜鴉が、わざとらしく嘆息して見せた。
「そうは申されましても、主よ。仮にまた運が味方したとて、今の牛鬼には敵いますまい」
「夜鴉よ、やはりそう思うか……」
「然り。牛鬼の奴、この三十年で、切れ痔の恨みのみならず、我々を屠るための膨大な妖力を募らせた様子」
「……というと?」
「昨晩、内裏から登霊山までの道程を少し辿ってみましたが、彼奴の通った山々が、無惨にも朽ち果てておりました。避難した山棲まいの妖たちによれば、牛鬼がハアッと吐いた一息で、周囲の草木がたちまち枯れ萎れたのだとか」
「な、なんじゃと⁉︎ 吐いた息でか!」
「たったの一息で、でございますか!」
「そういえばあいつ、すっげえ口臭えもんなぁ……」
影明と犬神が、ごくり、と息を呑み、赤鬼が口元を引き攣らせる。
ひらり、と山伏装束の裾を動かし、夜鴉は、忌々しげに鼻と嘴の辺りを覆った。
「吐息だけではありませぬ。道行く彼奴の脚の爪に近づいた獣たちは、次々に泡を吹き出し、白目を剥いて失神したとか。目撃した妖によれば、まるで牛鬼の八肢の爪からは、毒気が放たれているかのようであったそうです」
「そ、そうか……確かに、三十年前の牛鬼の吐息や爪は、そのような恐ろしい毒気を孕んではおらなんだな」
「ご主人様! 犬神は臭いのが苦手です!」
「蓄積した足の臭気、えぐすぎて毒気とか言われてんの草」
「否、草は生えませぬ。牛鬼の通った道は、向こう十年は草一本生えぬ荒地と化すらしいのです」
聞いている内、影明の顔から、みるみる血の気が失せていく。
近づいただけで失神するような大妖・牛鬼の元にいて、中宮・鈴子が未だ無事とは益々思えなくなったし、救いに馳せ参じたところで、己らも泡を吹く予感しかせぬ。
くしゃくしゃと長い緑髪をかき混ぜた赤鬼が、四肢を投げ出し、仰向けに寝転がった。
「……はぁ、愚かな影明よ。なぜ牛鬼討伐の任を申し渡された時、儂にお任せ下さい! などと意気揚々に答えてしまったんだ。最初から無理だと言っていれば、こうも悩まずに済んだものを……」
「ゆ、許せ赤鬼。その、人間には、読まねばならぬ空気とか、守らねばならぬ体裁というものがあってだな……」
「んなこと言ったって、空気や体裁のために死ぬつもりかぁ? こんなん、もう逃げるしかねぇじゃん。今から荷物まとめて、安倍一門で夜逃げすっか」
「お、怯える都人たちを放って、我々だけで逃げ出すというのは、流石に……」
「うーん、じゃあ……あれだ! 遷都しよう! なんか、この前もやってただろ? 今度は西に赴くが吉! とか適当に言ってさぁ。全員で逃げたら、人々を見捨てたことにはならんだろう」
「そんな軽いノリで言われてものぅ……。遷都には、とんでもない金と人手が必要になる。帝は勿論、貴族土豪らの説得もせねばならんし、そう易々とは無理じゃ。第一、遷都したところで、牛鬼は儂らを追ってくるじゃろうて」
「えーっ、ならどうするんだよ? 帝に直接、やっぱ牛鬼の討伐は無理です!って言いにいくか?」
「そ、それもできぬ。というか、体裁云々という問題以前に、この安倍影明といえども、勅令には逆らえぬのじゃ……。無理だなどと言ったら、それこそ首を落とされてしまう」
重苦しい静寂が、寝殿内を満たした。
赤鬼は悩ましげに唸り、犬神はそわそわと前脚を踏み踏みする。
夜鴉は腕を組み、しばらく黙り込んでいたが、やがて、カチッと嘴を鳴らすと、神妙に口火を切った。
「……仕方ありません、主よ」
「う、うむ」
「こうなったら、腹を括るしかありませぬ」
「そうじゃな……」
「殺ってやりましょう。……帝を」
「帝を⁉︎⁉︎」
そっち⁉︎と影明が、素っ頓狂な声を上げる。
それから、ハッと口をつぐみ、辺りに人がいないかを確かめた。
冗談でも、帝の暗殺など企てているところを誰かに聞かれたら、安倍一門の首は、獄舎の門前に並べられて晒されることとなるだろう。
慌てふためく影明に構わず、夜鴉は、淡々と続けた。
「牛鬼か帝かの二択ならば、断然、帝の方が討ち取りやすいでしょう。先手を打って帝を殺り、その混乱に乗じて、都から逃げ出すしかありますまい」
「い……いやいやいや何を血迷うたか夜鴉! 帝の身辺は、屈強な衛士らが護っておるのじゃぞ」
「牛鬼を前にして、震えることしかできなかった衛士どもです。それに我が主は、帝から信頼されております。討伐の出陣前にご挨拶を、とでもお伝えすれば、御簾越しなれど、帝に直接 御目通することが叶うでしょう」
「まさか、謁見の場で、儂に帝を弑せよと……?」
「否。大極殿 (内裏の正殿)にも、当然、警備は敷かれております。ですから主は、赤鬼殿、犬神殿と共に、祈祷でも舞でも披露して、随身 (護衛の武官)たちの気を引いてください。帝のことは、この夜鴉がその隙に……」
「そ、その隙に……?」
「……こう、横からシュッと」
「シュッと⁉︎ シュッと何をする気じゃシュッと!」
「シュッとでございますか! シュッとするのですかご主人様! この犬神もお手伝いしまする!」
「あっこら待て待て犬神よ! 座れ」
「はい!」
何やら興奮して寝殿から駆け出していった犬神が、そそくさと戻ってきて円座に座る。
ゴホン、と咳払いして、影明も居住まいを正した。
「……良いか、忠実なる我が式たちよ。この際だから、念のため確認しておくが、儂は帝に仕える陰陽師じゃ。ということは、儂に仕えるおぬしらにとっても、帝はお支えするべき主君となる。家臣は、命を懸けて主君をお護りするもの。つまり! 我々が帝を弑することなど全くありえぬ! ……分かるな?」
「……人間のそういうの、ちょっと押し付けがましいっつうか、だるいよなぁ」
「我々は、命を懸けようとまでは思っておりませぬ、主よ」
「──とにかくだ!」
赤鬼と夜鴉のぼやきを一蹴し、影明は言い放った。
「勅令を賜った以上は、今の牛鬼がいかな強敵であっても、逃げることはできぬ。いい加減、覚悟を決めねばなるまい……!」
「……主が怖くてどうすれば良いのか分からぬと言うから、再戦を避ける方法をご提案したというのに。先刻までの言動を、もうお忘れか?」
「言ってやるな、夜鴉。影明はもう年なんだ。人間は老いぼれて脳の皺が顔に移ると、都合の悪いことはすぐ忘れるようになるのだ」
「ご主人様! ご安心下さい! 犬神もよくお散歩の目的を忘れることがあります!」
式たちの思い思いの発言を無視して立ち上がると、影明は、簀子縁に出て、澄んだ星空を見上げた。
そして、戻ってきて円座に座ると、傍に置いていた天地盤を目前に移動させた。
天地盤とは、六壬神課という式占に用いる、円形の天盤と四角い地盤が組み合わさった占術道具である。
影明は、日頃からこの六壬神課で、物事の吉凶を占っているのだ。
天盤をくるりと回し、長らく盤上を見つめた後、影明は、不意にカッと目を見開いた。
「……出た! 四月後の白露の節に、三十年前と同じ規模の大嵐が来る。しからば、牛鬼に使者を出し、来たる再戦日は白露の節にするべし、と伝えるのだ!」
式たちが、ぱちくりと目を瞬かせて、互いの顔を見合わせる。
ややあって、赤鬼がポンッと手を打ち、得心がいったように首肯した。
「ははぁ、成程。あえて大嵐の日を指定することで、牛鬼に三十年前の敗北を思い出させよう、という魂胆だな? なんとも影明らしい、陰湿な作戦だが、確かに効果はありそうだ。牛鬼といえども、嫌なことを思い出せば、再戦に対し及び腰になるだろうからな」
「その通りじゃ! 結果、二度も大嵐に見舞われるなど不吉だと、逃げ帰ってくれれば上々。あるいは、再び運が味方して、落雷が牛鬼に直撃するという奇跡もあるやもしれぬ」
「それはつまり、我々にも直撃する恐れがある、ということになりますが……。まあ、雷は高所に落ちると言いますからな。我々か牛鬼かでいえば、体躯の大きい牛鬼のほうに落ちやすいと考えられましょう」
「ご主人様! 流石でございます! 妙案であると思いまする!」
概ね肯定的な反応を得られたので、影明は愁眉を開いた。
しかし、すぐに表情を引き締め、新たに生じた問題を見据えた。
再戦日の目処はついた──が、評定はここで終わりではない。
次なる論題は、【誰が牛鬼の元へ行き再戦日指定の交渉をするのか】である。
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