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投稿日:2026年01月06日





 牛鬼が待っている登霊山は、元より多くの魑魅魍魎ちみもうりょうが棲みつく魔の山である。
腕っ節が強いだけのつわものは言わずもがな、その道に精通した陰陽師であっても、並の呪力と式神しか操れぬ者では、牛鬼の元に辿り着く前に、道半ばで妖に殺されてしまうだろう。
となると、やはり影明の意向を伝えられるのは、その強力な三匹の式の内の誰か、ということになる。

 影明は、目前に控える式たちを、改めて見遣った。
赤鬼と夜鴉が、何かを察したように、スッと目を逸らす。
おそらくこの二匹は、使者になるよう頼んでも、首を縦には振らないだろう。
先刻も、仕える主に命を懸けるのはだるいだの、そこまで思ってないなどとのたまっていた。

 続いて影明は、犬神を見つめた。
目が合った瞬間、パッと瞳を輝かせた犬神が、尾をブンブンさせながら飛びついてきた。
犬神のまあるい頭に手を置き、影明は口を開いた。

「……犬神よ。おぬしに頼みがある」
「はい! なんでございましょう? なんなりとお申し付けを!」
「牛鬼の元へ向かい、再戦日を伝える役目……おぬしに任せても良いか?」
「はい! 勿論でございます! ご主人様から頂いた大事なお役目、立派に果たせるよう、一生懸命頑張ります!」

 すぐさま返ってきた応えに、影明は、内心で拳を高く突き上げた。
犬神であれば、きっと快諾してくれると信じていた。予想通りであった。
だが影明は決して、言うことを聞いてくれるからという理由で、犬神に使者の役目を任せたわけではない。
この中で一番の適役は犬神だ、と考えていたから、こうして頼んだのであった。

 使者の役割は、大変に危険なものである。
白露の節に大嵐が来る、とは明かさないにしても、再戦日を四月後まで先延ばしにしてくれ、と交渉するわけだから、牛鬼はまず了承しないであろうし、場合によっては、怒り狂って襲いかかってくる可能性がある。
そんな時、何より重要になってくるのは、申し入れる側の"愛嬌"である。

 赤鬼は、異邦に渡っていたこともある、悠久の時を生きてきた鬼人で、よく物を知り、人の心をも知る多才多弁な式であるが、何しろ見た目が赤肌の巨漢なので、あまり可愛くない。
夜鴉は、朧山の烏天狗からすてんぐたちの前長まえおさなど勤めていた過去もあってか、いかなる時も冷静沈着で、頭の切れる式であるが、配慮というものを知らないので、物言いが可愛くない。
対して犬神は、とても可愛い。前後左右上下、どの角度から見ても可愛い。
モフモフの白い毛並みも、分かりやすく輝く瞳も、ぴんと立った耳も、クルッと巻いた尾も、少し臭い足の裏の肉球も、素直で一途な性格も、その存在全てが、ただひたすらに可愛い。
影明も、赤鬼や夜鴉に好物の団子を寄越せ、と言われたら断るが、犬神に乞われたなら、あげてしまう気がする。
そんな感じで、犬神からの交渉であれば、牛鬼も無下にはできないのではないか。
仮に牛鬼が、その愛らしさに魅力を感じず、交渉が失敗に終わったとしても、このいたいけな式を、腹が立つからと問答無用で食い殺すまではしないだろう。
そういう算段であった。

 犬神の頰をわしゃわしゃと撫でながら、影明は笑顔で礼を言った。

「そうかそうか、引き受けてくれるか。おぬしは本に良い子じゃな、有難う犬神や」
「良い子ですか! 犬神は良い子ですか!」
「おお、良い子じゃ良い子じゃ。再戦日についての申状もうしじょうは、明日、書いて渡すからな。無くさないように包んで、必ず牛鬼に届けるのじゃぞ」
「はい! 承知しました、ご主人様!」
「帰ってきたら、沢山褒美をやるからな。なんでも用意するから、欲しい物を考えておくが良いぞ」
「嬉しいです! ありがとうございます、ご主人様!」
「無事に行って来られるよう、あとで出立に良き日を占おう。出立後も、儂は呪力を尽くして祈り、おぬしの帰りをこのやしきで待っておるからな」
「えっ?」
「ん?」

 突然、ブンブンと振られていた犬神の尾が、しゅんと力無く垂れた。
大きく開かれた目が、まじまじと影明を見上げてくる。

「ご、ご主人様も……一緒に来るのでは、ないのですか?」
「うむ……そりゃあ、そうじゃろう。使者というのは、そう大勢立てるものではない」
「え……でも、それなら……犬神は行けませぬ。犬神は、ご主人様のお側を離れないと決めております故……」
「い、いや、だが、儂が牛鬼の元に行っては、その場で再戦ということになってしまうからのう。できれば、一匹で行ってきてほしいのだが……」
「…………」

 黙り込んだ犬神から、不意に、禍々しい妖気が立ち昇り出した。
白い毛が逆立ち、額や頰に刻まれた赤い模様が蠢き、その身体が、徐々に巨大化し始める。
無垢に色めいていたはずの瞳に、燃え滾る怨念の炎を宿すと、犬神は、地獄の底を這うような、低い唸り声を出した。

「す、捨てるのですか……? 主人の側を離れよということは、い、犬神は、捨てられるのですか……? この犬神を式とした折、命尽きる時までずっと一緒だと、ご主人様がそう仰ったのに……?」
「い、犬神……⁉︎」

 息苦しいほどに満ちた妖気が震え、カタカタとやしき全体が揺れ始める。
口調こそ普段と変わらないものの、牙を剥き出し、血走った眼でこちらを睨んでくる巨大な犬神の姿には、もう可愛らしさの欠片もない。
慌てて立ち上がると、影明は、犬神の太い首にしがみついた。

「お、落ち着け犬神よ! 違う違う、そんなつもりで言うたのではない。儂はただ、使いに行ってきてほしかっただけじゃ。そんなに一匹で行くのが嫌なら行かずとも良いから、どうか鎮まっておくれ」
「そうだぞ犬神。影明は、帰ってきたら褒美をやる、と言っていただろう。帰ってくるな、離れろだなんて命令はしていない」
「主は日頃から、犬神殿を可愛がっておられる。契りを交わした大切な式を、捨てようなどとは考えないでしょう」

 床下に、ぼそぼそと囁く怨霊たちの気配が集まってくるのを感じて、流石にまずいと思ったのだろう。
愉快そうに傍観を決め込んでいた赤鬼と夜鴉も、犬神鎮めに参戦する。

 そうして、一人と二匹で犬神をなだめすかしていると、しばらくして、ようやくやしきの揺れが収まってきた。
怨霊たちの気配が遠ざかり、潮が引いていくように、濃密な妖気が薄まっていく。
やがて、身体の大きさが元に戻ると、犬神は、ふうふうと荒く呼吸をしながら、影明に尋ねた。

「……ご主人様は、犬神のことが好きですか?」
「おお、好きじゃ好きじゃ。当たり前ではないか!」

 額の汗を拭きつつ、影明が答える。
すると、鋭く 剣呑けんのんな光を孕んでいた犬神の目が、パッと嬉しげに輝いた。

「ご主人様は、犬神のことが大好きですか!」
「おお、大好きじゃ大好きじゃ。ずっと一緒にいような。……ほれ、儂の膝に座れ」
「はい!」

 円座に腰を下ろした影明の膝上に、犬神が乗り上がる。
ブンブンと千切れんばかりに振れている白い尾を見て、影明たちは、ほっと胸を撫で下ろした。

「……主よ、お気をつけ下さい。犬神殿は、式としては若いですが、そこらの妖や神などよりもずっと強い力を持っております」
「そんななりをしているが、元は飢えた犬の怨霊だからなぁ。呪詛によって生まれた憑き物は、遺恨や執着の念が恐ろしく強いものだ。接し方を誤ると、己の首に食いつかれることになるぞ」

 影明は、苦々しい顔で赤鬼と夜鴉を見た。
 
「それくらい分かっておるが……では、赤鬼と夜鴉。おぬしらのどちらか、使者として牛鬼の元へ行ってくれるか?」
「嫌だな」
「嫌です」
「…………」

 肩をすくめて、影明は、赤鬼の方へ向き直った。

「……のう、赤鬼。おぬし、顔が広いじゃろう。誰か、牛鬼の元へ行ってくれそうな知り合いはおらんか。なんなら、そのまま牛鬼を討伐してくれそうな大妖が望ましい」
「えぇ? 急にそんなこと言われてもなぁ……。牛鬼と並ぶ、あるいはそれ以上の妖など、そうそうおらんぞ」
「それはそうじゃろうが、少しくらい思い当たらんか。異邦の妖でも構わぬぞ。とう国の青龍とか」
「青龍かぁ。あいつは人間が嫌いで、人前には断固として出たがらないから、無理だな。もう二百年は会っておらんし」

 影明の膝上で、犬神が言った。

「でしたら、九尾の妖狐、玉藻前たまものまえ様はいかがでしょう? 犬神はお会いしたことがございませぬが、憑き物仲間の間では、人好きな大妖として有名だと聞き及びました! 事情を話せば、協力して下さるやもしれません!」
「あれは、人が好きというより、人を騙して弄ぶのが好きなのだ。それに、あの御仁ごじん変化へんげは実に見事なもので、人や物に化けている時は、妖気すら隠して成りきる。今どこで、何に変化へんげし、誰をたぶらかしているのか全く分からないから、俺たちでは探しようがない」

 自身の黒翼こくよくの羽を抜きながら、夜鴉が提案した。

「ならば、酒呑童子しゅてんどうじ殿はいかがか。気難しい方だと聞くが、赤鬼殿が訪ねていけば、同じ鬼人のよしみで、お会いすることができるのではないか」
「いやぁ、難しいだろう。奴は牛鬼と同じ、喜んで人を殺すたぐいの妖だからな。あと、無類の酒好きで、基本的に酔っているから、まともに話が通じる時の方が少ない」
「そうか……では、やはり我々の中から、使者を選ばねばなるまい……」

 言いながら、抜いた二本の羽の羽柄うへいの部分を握り込み、影明の前に突き出す。
これはなんだ、と片眉を持ち上げた影明に、夜鴉は平然と告げた。

「ここは公平に、くじ引きで使者を決めるといたしましょう。羽柄の折れた羽を引いたら赤鬼殿が、折れていない羽を引いたら主と犬神殿が、牛鬼に再戦日の交渉をするということで。──さあ、主よ。お引き下さい」
「おい待てコラァ! 夜鴉、お前なにしれっと自分の分のくじを間引いてんだよ! どのくちばしが公平とか言ってんだぁ⁉︎」
わたくしは羽を提供しましたので、お役目免除ということで。赤鬼殿、知っておりますか? 神通力の宿る烏天狗の羽は、人間たちの間では、大変な高値で取引されるのだとか」
「いや知らねぇし! 自分で勝手に抜いたんだろうが! お前、昔っからそういうとこあるよな!」

 今度は赤鬼と夜鴉の妖気が膨れ始めたので、影明は、困った困ったと眉間を揉んだ。
この調子では、いつまで経っても使者が決まらない。
どうするべきかと悩んでいる内に、膝に乗っていた犬神が唐突に駆け出し、睨み合って言い争っている赤鬼と夜鴉の周りを、楽しげに跳ね回り始めた。
影明は、やれやれと頬杖をつき、しばし騒がしい三匹を眺めていた。

 たっぷりと時間を置いてから、影明は、胡座あぐらをかいた両膝をパンッと叩き、再度問うた。

「赤鬼、夜鴉。おぬしらはこの安倍影明が誇る、この国一の式じゃ! 登霊山に登って、牛鬼を説得してくるくらい、訳ないじゃろう。儂はそう信じているのだが……どうしても、使者になるのは嫌か?」
「嫌だな」
「嫌です」
「……絶対絶対、ぜぇーったい、嫌か?」
「嫌だな」
「嫌です」
「…………」

 長い長い、沈黙が流れた。
几帳きちょうを揺らし、爽やかな夜風が室内に流れ込む。
高燈台たかとうだいの炎が、ちろちろと踊る。
すぅっと息を吸うと、影明は、ついに覚悟を決め、ダンッと床を踏んで立ち上がった。

「分かった! おぬしらの気持ちはよぉく分かった! もう、皆で行こう! 皆で行ったら怖くない! 行って、牛鬼の姿を見るや申状を投げつけ、再戦になる前にすぐ下山する。その場で牛鬼に捕まり、おっぱじまってしまったら、その時はその時じゃ。これなら公平であろう。良いな?」

 赤鬼と夜鴉は、同時に眉を寄せた。
しかし、争い続けたところで結果は出ない、ということは、共通認識だったのだろう。
二匹は、諦めたように吐息をつくと、その場で片膝をつき、影明に従う姿勢を見せた。

「……承知した。まあ、影明のおりをするのは、昔から俺の役目だからな」
「良いでしょう。この夜鴉、朧山を護って頂いた、かつての恩義には報いるつもりです」
「犬神は、どこまでもご主人様にお供しまする!」

 一人と三匹、互いに視線を合わせ、深く頷き合う。
影明は、円座に座り直すと、天地盤の天盤をくるりと回した。
そして、占術の結果を見るや、カッと瞠目し、宣言した。

「よし! では、再戦日に関する申状は、我々全員で届けるものとする! 出立の日は明日……はちょっと運勢が悪いから、そうじゃな……三日後くらいに‼︎」



──三日後。
ちょっと頭痛がして今日は外出できない気がする影明たちの元に、一人の女が訪ねてきた。
女はなんと、牛鬼に拐かされたはずの、中宮・鈴子であった。
帝の寵愛ちょうあいを欲しいままにする、その美しきかんばせには、汚れ一つついていない。
だが、姿全体を見ると、いくつか不自然な点があった。
まず、地は鮮やかな萌黄色であったはずの小袿こうちぎが、まるで血の雨でも浴びたかのように赤く染まり、所々擦り切れ破れている。
外歩きなど滅多にしないであろう中宮が、一体どのようにして登霊山から帰ってきたのか、地面を踏む白い足は、驚くことに素足のままだ。
そして、何より驚くべきは、その細腕に、牛鬼のものと思しき、根本を砕かれた大角が抱えられていたことであった。

 唖然とする影明の前に立ち、鈴子は、妖艶ようえんに目を細めた。

「陰陽師・安倍影明とは貴様かえ? いくら待っても助けに来ぬと思うたら、よもや、未だ邸を発ってすらいなかったとは……。雑魚一匹狩れぬ、腰抜けジジイめ。帝共々、わらわがきつぅい仕置きをしてやろう……」

 真っ赤な唇が、にんまりと弧を描く。
その瞬間、鈴子の背後に現れた九本の狐の尾を見て、影明は、泡を吹いて失神した。



【完】


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