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投稿日:2021年02月24日




 かたり、となたを手にとる音がした。
夜の帳に響いたその無情な音に、子供は死を予感する。

 農作業中、冷たい土の上に転んで、ついに動かなくなった母。
一人一人、日を追うごとに骨と肉塊だけになっていく兄弟たち。

 空腹で正気を失った父が、まず初めに喰い殺すのは、きっとこの家族で唯一血の繋がりを持たない自分だろう。
子供は、冷静にそう思っていた。

 ひたりひたりと忍び寄る、死の足音。
子供は、硬い藁の上に身を横たえながら、ただその足音を聞いていた。

 死を、怖いと思ったことはなかった。
むしろ、望んでいたはずだった。

 それなのに、振り下ろされた鉈を避けてしまったのは、なぜだったのだろう。
熱い衝撃が走って腹を割かれたとき、涙が出たのは、なぜだったのだろう。

 のろのろと血の噴き出る腹を押さえながら、子供は泣いた。

(死にたく……ない……!)

 涙が、堰を切ったようにぼろぼろと溢れて——。
子供は、ただ生きたいと渇望した。

(死にたくない……!)

 背後で、とどめを刺そうと、父が鉈を振り上げる。
必死に這って逃げようとするが、もう体は動かなかった。

(死にたくない、死にたくない、死にたくない——!)

 強く強く、魂が絶叫した刹那。
暗い闇の奥から、声が聞こえた。

『……生きたいか?』

 瞬間、時が止まったように、周囲が静かになる。

(……誰……?)

『お前が呼んだ、主よ。我は、汝の強い欲望に惹かれたもの』

 子供は、緩慢な動きで顔をあげた。
しかし、目の前に広がるのは、やはり暗闇しかない。

『……生きたいか?』

(…………)

『生きたいのだろう? 汝がそう望むなら、我が叶えてみせよう』

 響いた言葉に、子供は心震わせた。

(生き、たい……!)

 広がる暗闇に、子供は手を伸ばす。

(生きたい——!)

——生きたい!


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