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投稿日:2025年12月31日






 つん、と染みるような消毒液の匂いで、トワリスは目を覚ました。
すぐ近くで、忙しない足音と人の声が聞こえる。
トワリスは、それらの喧騒を聞きながら、しばらくぼんやりとしていたが、不意に、見慣れた鉄仮面がこちらをのぞき込んできたことに気づくと、はっと目を見開いた。

「……ハインツ?」

 名前を呼んで身を起こすと、突然、鈍い痛みが後頭部に走った。
思わず呻けば、ハインツが、慌てたように手を上げて、トワリスの肩を押さえてくる。
まだ横になっていたほうが良いと促されて、視線を巡らせると、トワリスは、床に敷かれた布の上に寝かされていたようであった。

 心配そうなハインツを制し、立ち上がると、トワリスは、目の前に広がっている光景に、言葉を失った。
見渡す限り一面、二、三百人近い血にまみれた人々が、トワリスと同じように、床に寝かされていたのだ。

 改めて周囲を見回すと、ここは、中央区の大病院の中のようであった。
しかし、揃っていたはずの設備や寝台は跡形もなく、怪我人の手当てに駆けずり回っているのも、医術師ではなく、たった十数人の自警団員たちだ。
四方の分厚い壁はひび割れ、支柱を失った天井が、大きく傾いている。
倒壊した瓦礫に塞がれ、暖炉も使えなくなったのだろう。
真冬だと言うのに、この大勢の怪我人たちを暖めるのは、大広間の中心に石を積んで作られただけの、即席の炉一つだけであった。

 血の滲んだ布を巻かれ、虚ろな目で横たわっている人々は、大半が、もう手遅れの状態であった。
呻く余力がある者は少ない方で、ほとんどが、失血で青白い顔になり、かろうじて呼吸だけを繰り返している。
中には、建物の下敷きになったのか、下半身がほとんど潰れて、生きているのか、死んでいるのかすら分からない者もいた。

 生死の境を彷徨う彼らの顔を見ながら、呆然と立ち尽くしていると、ふと、トワリスは、足元に薄く光る曲線が走っていることに気づいた。
最初は、床の模様か何かだと思ったが、そうではない。
微かに魔力を放つそれは、どうやら、建物の床からはみ出るほどの、巨大な魔法陣のようであった。

(この魔法陣、使われているのが古語じゃない。まさか……)

 シルヴィアの顔が脳裏によぎって、ぞくりと悪寒が走る。
しゃがみこんで、魔法陣に触れようとしたところで、不意に、近づいてきた自警団員に、声をかけられた。

「トワリスちゃん、目が覚めたんだな」

「ロンダートさん……」

 この寒さの中で、汗だくになったロンダートが、疲弊した様子で言う。
トワリスは、ロンダートを見てから、寄ってきたハインツのほうにも視線をやった。

「あの、一体何が……。私、どれくらい眠っていたんでしょうか」

 ずきずきと痛む頭を押さえて、トワリスが尋ねる。
思い出せる記憶は、シルヴィアに抱き締められた、あの一瞬で最後だ。

 ロンダートは、安堵したように息を吐いた。

「トワリスちゃんが寝てたのは、一刻(二時間ほど)くらいだよ。物見塔の近くで倒れてたって、ハインツが連れてきたんだ。でも、大事ないようで、本当に良かった。ぱっと見、怪我はないようだったけど、打ち所が悪くて目を覚まさなかったら、どうしようかと思って不安で泣きそうだったんだ……。……ハインツが」

 トワリスの傍らで、ぴくりとハインツが肩を震わせる。
力なく苦笑してから、真剣な顔つきになると、ロンダートは続けた。

「何が起こったのかは、俺たちもさっぱりだよ。ただ、急に地面が揺れて……おかげで、外はひどい有り様だ。とりあえず、この大病院はかろうじて無事だったから、動ける自警団員で手分けして、怪我人を集めてるんだ。城館もほとんど原型を留めてないし、もう、街はめちゃくちゃだよ。とてもじゃないが、自然に起こった地震とは思えない……」

 いつものおちゃらけた雰囲気からは想像もつかない、苦々しい口調で言って、ロンダートは俯く。
彼も、足元の魔法陣の存在には、気づいているのだろう。
魔法陣を一瞥して、ロンダートは更に言い募った。

「なあ、トワリスちゃん、この魔法陣、一体なんなんだ? 俺たちは魔術のことは分からないから、目が覚めたら、トワリスちゃんに聞こうと思ってたんだ。地震が起こったあとに、気づいたら地面に浮かんでいたんだが、どうもアーベリト全体を覆うくらい大きいみたいでさ」

 トワリスは、目に驚愕の色を滲ませた。

「アーベリト全体!? そんな、街を丸ごと覆うほど巨大な魔法陣なんて……」

「……やっぱり、異常なんだな」

「はい。そんな大きな魔法陣、見たことも聞いたこともありません」

 改めて魔法陣を見つめて、トワリスは、悔しげに唇を噛んだ。

「でも……ごめんなさい。はっきりと、この魔法陣がどんなものなのかは、私には分かりません。今朝はこんなものありませんでしたから、地震が起きたことに関係しているのは確かだと思います。でも、術を発動し終わってるなら、もう魔法陣は消えるはずなんです。なのに消えてないってことは、地震を起こす以外にも、別の効力を持っている可能性が高いです。それに……」

 言葉を続けようとして、トワリスは、一度口を閉じた。
巨大すぎて、一面見るだけでは判断しづらいが、この魔法陣に使われている文字は、おそらく古語ではなく魔語である。
つまり、地震とやらが本当にこの魔法陣によって人為的に起こされたものなら、おそらく、犯人はシルヴィアだろう。
トワリスと一緒にいた時の言動からしても、そうとしか考えられなかった。

 ただ一つ、不可解なのは、シルヴィアに召喚術が使えるのか、という点であった。
魔語を使っているということは、この魔法陣は、召喚術発動のためのものである。
しかし、シルヴィアはあくまで先代であり、魔語の解読はできても、召喚術の才はもう持っていないはずなのだ。
かといって、シュベルテにいるルーフェンが、アーベリトに魔法陣を敷いたとも考えづらいし、その辺りの疑問点を含めると、ロンダートたちに、確信めいた答えを言うのは躊躇われた。

 トワリスが返事に迷っていると、別の自警団員たち数人が、ロンダートの名を呼びながら駆け寄ってきた。

「ロンダートさん、消毒液、ある分だけ運んできたんですけど、ほとんどの薬瓶割れちゃってて……」

 振り返ると、ロンダートは、てきぱきと指示を出した。

「あー……じゃあ、あれだ! 強めの酒を持ってきて、代用するんだ。外の救助に行ってる奴らにも伝えよう。人の捜索ついでに何ヵ所か回って、割れてない瓶があったらとりあえず持ってくるように。それから布も、なくなる前に西区の施療院からもらってくるんだ」

「は、はい!」

 声を揃えて返事をすると、自警団員たちは、各々散っていく。
ロンダートは、トワリスのほうに向き直ると、口早に告げた。

「とにかく、この魔法陣は、よく分からんけど危険かもしれないってことだよな。一応言っておくと、動けない怪我人は、この大病院に運んできてるんだけど、自力で動けそうな人は、全員東区の孤児院のほうに誘導してるんだ。ほらあそこ、少し街から外れたところにあるだろう。だからあの孤児院は、魔法陣の上に位置してなかったんだ。なんとなく、このまんま魔法陣の上にいるのはまずい気がしてたからさ」

 ロンダートの英断に、トワリスは頷きを返した。
東区の孤児院は、トワリスが出たところでもあるので、場所はよく知っている。

 それから、と言葉を次いで、ロンダートは言った。

「召喚師様に気づいてもらえるように、移動陣があるリラの森のほうにも行ってみたんだけど、あの辺り一帯、土砂崩れで完全に塞がってて使えなかった。それと、出払っちゃってるかもしれないけど、馬を使うなら、病院の裏手に繋いであるから。念のため伝えておく! それじゃあ、俺はこれで」
 
 それだけ捲し立てると、ロンダートも、急ぎ足で去っていく。
その後ろ姿を見送ると、トワリスも、すぐさま自分が寝ていた場所に戻り、その脇に並べられていた、双剣と外套をとった。
しっかりと状況把握ができたわけではないが、今は、ぼうっとしている場合ではないのだ。

 外套を羽織ると、トワリスはハインツを見た。

「私のこと、運んでくれてありがとう。もう大丈夫だから、私たちも外に救助に行こう」

 ついでに、シルヴィアを探し出して、この魔法陣のことを聞き出さねばならない。
トワリスの言葉に、ハインツが頷き、二人は、早速大病院の外へと向かったのであった。


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