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投稿日:2025年12月31日
大病院の出口扉を開けると、真っ先に吹き込んできたのは、冷たい雨の匂いであった。
朝方に降り始めた霧雨が、今も尚降り続いているのだろう。
雨に烟るアーベリトの街は、白い靄の中にひっそりと沈んでいた。
雨避けに頭巾を被り、外に踏み出すと、薄い影のようだった街の様相が、徐々に靄から浮かび上がってきた。
それは、今朝まで眺めていたアーベリトの街並みとは、まるで違う。
白亜の家々が建ち並んでいた通りには、崩れた建物の残骸が小山のように連なり、その下で、無惨にも押し潰された死体の血臭が、あちらこちらから漂っていた。
雨が降っていたことが、不幸中の幸いだったのだろう。
空気の乾燥した冬、暖炉に火を灯している家も多い中で、このような家屋の倒壊が起これば、きっと火事になっていたはずだ。
遠目に何ヵ所か、煙が上がっているところも見えたが、人々が焼け出されるまでに至らなかったのは、石造りの家が多いことと、雨が降っていたお陰であった。
喉の奥にせり上がってきたものを堪えると、代わりに、目頭が熱くなった。
何故こんなことになってしまったのか、嘆いている暇などない。
口ぶりからして、どの道シルヴィアは、アーベリトを落とそうと決めていたのだろう。
それでも、自分が会いに行った時、彼女を止められていれば、こうはならなかったかもしれないという後悔が、トワリスの頭に過っていた。
「そうだ、リリアナ……」
不意に、居候先の友人の顔が脳裏にひらめいて、トワリスは顔をあげた。
リリアナとカイル、そしてロクベルの三人は、無事だろうか。
ざっと見た限り、大病院の中にはいなさそうだったから、孤児院の方に避難しているか、まだ救助を待っているかもしれない。
──最悪の想定は、したくなかった。
トワリスは、ハインツを連れ立って、歯を食い縛りながら、瓦礫の山中を抜けていった。
進み始めた時は、濃い土煙の臭いと死臭で息ができず、不気味な空気が耳元で唸っていたが、時間が経つ内に、感覚が狂ってきたらしい。
いつの間にか、鼻も耳も麻痺して、いつも聞いていた市場通りの賑やかな声が、遠くから響いてきているような気がした。
リリアナたちの店が建っていたあたりに近づくと、誰かが、激しく泣きじゃくる声が聞こえてきた。
馴染みのあるその声に、心音が速くなる。
耳を頼りに駆けていくと、半壊して道まで崩れた屋根の近くに、リリアナとカイルがいた。
幸いにも彼女たちは、庭の方に出ていたのだろう。
店の倒壊に、運良く巻き込まれずに済んだようであった。
先に救助に向かっていた自警団員の男が、地面に踞うずくまって泣くリリアナに、しきりに声をかけている。
カイルは、リリアナの横に座り込んで、呆然と瓦礫の山を見つめていた。
「リリアナ! 良かった、無事だったんだね……!」
声をかけて、リリアナのそばにしゃがみこむ。
するとリリアナは、涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、トワリスの足にすがりついてきた。
「トワリス! トワリス、お願い! おばさんを助けて……!」
リリアナが指差した方を見て、トワリスは息を詰めた。
瓦礫の隙間から、見覚えのある指輪を嵌めた、腕が一本生えている。
崩落してきた屋根の、下敷きになったのだろう。
潰された頭部から、雨に溶けて流れ出る血の赤が、やけに鮮やかに見えた。
リリアナの叔母、ロクベルの遺体に間違いなかった。
ハインツが、屋根を持ち上げようと伸ばした手を、自警団員の男が止めた。
男は、暗い顔で首を振って、今は遺体を見せるべきではないだろうと訴えてくる。
リリアナは、トワリスに抱きつくと、その腹に顔を擦り付けた。
「もう嫌だよぉ……っ、どうしておばさんまで。なんで皆、私の前からいなくなっちゃうの……っ」
嗚咽を漏らしながら、リリアナが呟く。
彼女は過去に、火事で両親を亡くし、アーベリトの孤児院までやってきたところを、叔母のロクベルに引き取られている。
この壮絶な状況下で、昔のことが記憶に蘇っているようであった。
リリアナから離れると、トワリスは、近くに倒れていた車椅子を起こした。
車輪が歪んではいるが、まだ使えそうだ。
トワリスは、半ば強引にリリアナを担ぎ、車椅子に座らせながら言った。
「まだカイルがいるよ。とにかく今は、東区の孤児院に避難して。動ける人は、皆そこにいるから」
がたつく車椅子を通りに押し出せば、自警団員の男が、「自分が連れていきます」と名乗り出る。
トワリスは頷いて、今度は、へたりこんでいるカイルの肩を掴んだ。
「カイル、立って。リリアナのこと、お願いね」
言いながら、脇に手を差し入れて立たせると、カイルは、ぼんやりとトワリスを見つめた。
泣いてはいなかったが、カイルの目にいつもの勝ち気さは見られず、憔悴しきったような、くすんだ色をしている。
唇を噛みしめ、カイルは黙っていたが、やがて、こくりと頷くと、車椅子を押す自警団員に着いていったのだった。
移動を促された避難民たちが、疎らに孤児院がある丘の方に登っていくのを見ながら、トワリスとハインツも、街中を巡って生存者を探した。
身内の死を受け入れられず、混乱して怯えきった人々を家から引き剥がすのは、容易な作業ではなかった。
疲れも忘れ、霧雨で模糊とする中を駆けずり回っている内に、気付けば、日が暮れ始める時刻になっていた。
怪我人を大病院へと運んでいる内に、トワリスは、ふと奇妙なことに気づいた。
見つけた生存者の内、そのほとんどが、声も出せぬほどの瀕死状態か、リリアナたちのように、運良く難を免れた軽傷者のどちらかだったのである。
逆に言えば、重傷者がおらず、一見命に関わるような怪我を負っていない者でも、まるで生命力を吸いとられてしまったかのように、衰弱しきっていたのだ。
一人、また一人と怪我人を床に並べていくと、その違和感は、やがて底知れぬ不安へと変わっていった。
そもそも、地震が起こったのは昼前で、大半の人々が外出する時間帯だったにも拘わらず、怪我人が多すぎるのだ。
建物の倒壊に巻き込まれたというのは結果的なことであって、人々を襲ったのは、もっと別の“何か”ではないかという疑問が、トワリスの中で湧いていた。
もっと早くに、気づくべきだったかもしれない。
きっと全てが、偶然などではないのだ。
何度目かの往復をして、再び大病院から出たところで、トワリスは、不意に足を止めた。
「……ハインツ。ごめん、私、やっぱりシルヴィア様を探しに行ってもいいかな。怪我人の救助が最優先なのは勿論なんだけど、なんだか嫌な予感がするんだ」
同じく立ち止まったハインツが、トワリスの方を見る。
足元の魔法陣に視線を落とすと、トワリスは言った。
「この魔法陣……多分、シルヴィア様が敷いたものだと思うんだ。実は私、倒れる直前まで、シルヴィア様と会ってたんだけど、その時に、『アーベリトの人たちを殺す』みたいなことを言われて……。だから、その……確証があるわけじゃないんだけど……」
「……地震、シルヴィア様、が、起こしたって、こと?」
トワリスが濁した言葉を、ハインツが形にする。
トワリスは、一拍置いてから、神妙な面持ちで頷いた。
「……そう。だって、色々考えてたんだけど、おかしな点がありすぎるだろう。実質被害は家屋の倒壊と土砂崩れだけなのに、いくらなんでも怪我人が多すぎる。それも、負傷具合はそれぞれなのに、無理矢理意識を混濁させられているような……妙な怪我人が。どうも、これで終わると思えないんだ。早くこの魔法陣の上から、全員避難しないといけない気がする」
「それは、そう、だけど……でも、あの人数、どうやって」
「……うん、無理なのは分かってる。だから、まずはシルヴィア様を見つけて──」
トワリスが続けようとした、その時だった。
不意に、大病院の入り口にある呼び鈴が鳴り始めたかと思うと、突然、地面がぐんっと浮き上がった。
先の地震で割れていた石畳の破片が、一斉に踊り出し、足元がぐらぐらと波打ち始める。
とても立っていられなくなって、トワリスとハインツは、思わず地面に這いつくばった。
石同士がぶつかり合うような音を立てて、大病院の壁にひびが走った。
周囲に並ぶ瓦礫の山が、横揺れに均されて、がらがらと崩れていく。
ようやく地の震えが収まった頃、トワリスとハインツは顔をあげたが、視界が土煙に覆われて何も見えず、二人はしばらく、そのまま動けなかった。
鈍く光る魔法陣を目前に、地面に手をついていたトワリスは、ふと、肌が粟立つような殺気を感じて、即座に立ち上がった。
風に流される砂埃に混じって、冷気のような魔力を感じる。
それは、大病院のほうから溢れ、一定方向に向かって、吸い出されるように流れていった。
土煙の向こうで、何かが光った。
──と思うや否や、トワリスは、反射的に横に跳んでいた。
直後、トワリスのいた場所に、身長ほどもある巨大な鎌が振り下ろされて、地面に突き刺さる。
周囲を見れば、その鎌は複数あり、ハインツの足元の地面を削り、傾げた大病院の壁をも切り裂いていた。
「お、おい、一体なんだっていうんだ……」
大病院の扉を蹴破って、ロンダートを先頭に、自警団員たちが外へと出てきた。
舞い上がる砂埃を手で払いながら、彼らは前を見て、凍りついた。
収まり始めた土煙の先に、鎌の如き爪を六本持った、蠍のような生物が現れていたからだ。
蠍といっても、鋏のような触肢や、毒針を仕込んだ尾節はない。
固い外骨格に覆われているのは、胸部から生えた脚のみで、短い胴体は、何かの幼虫のような、柔らかい体表をしている。
それは、まるで不完全な脱皮を遂げたかのような、奇怪な生物であった。
唖然とする一同を前に、化物は、空振った爪を地面から抜いた。
ばらばらと土くれが飛んで、一度引っ込んだ脚が持ち上がり、そして、再び振り下ろされる。
トワリスたちは避けたが、迎え撃とうとした数名の自警団員たちは、そろって抜刀した。
しかし、爪は剣を物ともせずに叩き折り、彼らごと切り裂いていく。
地面に食い込んだ爪が、持ち上がった後には、左右に真っ二つになった自警団員たちの死体が、血を噴き出しながら転がっていた。
竦み上がった残りの自警団員たちが、腰を抜かしてへたり込む。
耐えられぬほどの恐怖に、トワリスも、自身の手先が強張っていくのを感じていた。
目の前で、何が起こっているのか分からない。
脳が、理解することを拒否しているようだった。
「……俺達で、化物の気を引いて……病院から引き離そう」
ふと、トワリスの隣に並んだロンダートが、剣を構えながら言った。
柄を握る左手が、小さく震えている。
彼は右腕を骨折しているので、左手でしか剣が握れないのだ。
──そう思った途端、水で打たれたように、頭の中が冷静になった。
自警団員たちは、戦いの訓練を積んだ者達だが、魔術も使えない、普通の人間である。
背後には、怪我人たちを集めた大病院が建っていて、今はルーフェンもいない。
自分が、彼らを守らねばと思った。
すっと息を吸うと、トワリスは、双剣を構えた。
「……引き付け役、私がやります。ロンダートさんたちは、病院の方を守ってください」
言うや、ロンダートが止める間もなく、トワリスは、脚に魔力を込めて、化物目掛けて突進した。
鋭利な爪が次々と迫ってくるが、目を凝らして動きをとらえれば、そう速くはない。
無数の爪が、轟音を立てて地面に振り下ろされたが、それらは全て、風のように抜けていったトワリスの残像を刺し貫いただけであった。
脚の間を縫って、化物の腹の下に滑り込んだトワリスは、その胸部に双剣を突き刺すと、そのまま思い切り地を蹴った。
肉を貫いた双剣が、化物の胸から腹にかけて進み、一直線にその身体を裂いていく。
尾部を切り捨て、トワリスが腹の下から抜け出すと、化物は背をのけ反らせて棹立ちになり、傷口からどす黒い体液をぶちまけた。
(胴体なら剣が通る……!)
身を翻して踵を地につけると、トワリスは足を地面の上で滑らせて、駆け抜けた勢いを殺した。
先程、自警団員たちの剣を叩き切ったことから察するに、外骨格で覆われた脚と爪は硬いが、胴体は見た目通り柔らかいようだ。
間髪入れずに体勢を整えると、トワリスは、双剣を構え直した。
予想外だったのは、化物が、攻撃されたにも拘わらず、トワリスに関心を示さなかったことであった。
棹立ちになった化物は、トワリスには見向きもせずに、またしても大病院のほうを狙って脚を振り上げる。
トワリスは、すぐさま駆け戻ったが、爪の動きを止める方法は、何も思い付いていなかった。
胴体を裂かれたとは思えぬ化物の動きに、自警団員たちは、死を覚悟した。
だが、その爪が、彼らに届くことはなかった。
突然、地面が盛り上がり、そこから槍の如く突き出した岩が、化物の身体を持ち上げたからだ。
ハインツによる、地の魔術であった。
大病院の前に立ちはだかったハインツは、宙に突き上げられた化物の脚を二本、引っ掴んで両脇に抱えると、爪部分を地に突き刺し、のし掛かるように体重をかけた。
次いで、足を踏み鳴らせば、更に岩の槍が出現して、化物の胴体を上へ、上へと押し上げる。
上への力に反し、凄まじい圧力で脚を下に引かれて、化物の脚の関節から、ぶちぶちと筋の切れる音が鳴り響いた。
ハインツは、このまま化物の脚をもぎ取るつもりなのだ。
鳥肌が立つような咆哮を上がったかと思うと、不意に、化物の背中をガパッと裂けて、その奥から、円状に並ぶ歯が露になった。
何事かと一同が目を見張った瞬間、背中に現れた口から、無数の触手が飛び出してきた。
触手は、鞭のようにしなって、一斉にハインツに襲いかかる。
咄嗟に避けようとしたハインツは、しかし、化物の上空に舞い上がった影を見つけると、その場に踏み止まった。
「──ハインツ! そのままでいて!」
天高く、双剣が閃き、トワリスの声が落ちてくる。
化物の頭上へ跳び上がったトワリスは、落下する勢いを生かし、触手めがけて、目にも止まらぬ速さで剣を振るった。
微塵になった触手が、体液の雨と共に、ぼたぼたと飛散する。
同時に、化物の身体が、岩の槍によって大きく撥ね飛ばされ、ついに、前肢二本が、付け根から千切れた。
地が震えるような叫びを上げ、残った脚をばたつかせながら、化物が後転する。
周囲の瓦礫を巻き込みながら、轟音を立ててひっくり返ると、やがて、化物は動かなくなった。
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