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投稿日:2026年01月06日
常に濃い靄が漂う森中には、外界の光はほとんど届かない。
季節の移ろいも、陽の昇降も感じられない、薄暗い霧の森。
肌に絡みつく湿った空気も、低い囁き声のような木鳴りの音も、リーヴィアスやガロウには不気味に思えたが、エイリーンには懐かしく感じられた。
また一月ほどかけて霧の森に戻ってきた一行が、ついに湖畔に辿り着くと、白霧の向こうに小さな人影が見えた。
エイリーンによく似た背格好で、長い黒髪を垂らして草地に座り込み、湖面に足先を浸けて休んでいる。
それを認めるや否や、レクエスから転がり落ちるようにして下り、エイリーンは駆け出した。
「セルーシャ……!」
切迫したエイリーンの呼び声に気づいて、小さな影がはっと顔を上げる。
腰を上げ、こちらに振り向いたその姿は、間違いなくセルーシャ本人であった。
「エイリーン! よかった、やっと帰ってきた……!」
朝露に濡れた草地を蹴って、エイリーンはセルーシャの懐に飛び込んだ。
跳ねた水滴が弧を描いて散り、黒髪がふわりと浮き上がる。
飛び込んできたエイリーンを受け止めると、セルーシャは、安堵した様子でその身体を抱きしめた。
「エイリーン、どこに行っていたの? 木の根元で眠っていたはずなのに、いつの間にかいなくなってるんだもの。全然帰ってこないから、心配したよ」
エイリーンの肩に頬をすり寄せながら、セルーシャが呟く。
しばらく抱き合った後に、身体を離すと、エイリーンは険しい口調で聞き返した。
「それはこちらの台詞だ……! お前こそ、一体どこに行っていた? 我はお前が急にいなくなったから、巨人族や沼畔族まで訪ねて、大陸中を巡る勢いで探し回っていたのだぞ!」
「えっ……⁉︎」
見たことがないほど憔悴した顔のエイリーンに言われて、セルーシャが瞠目する。
同時に、追いついてきたリーヴィアスやゴーティ、レクエス、ガロウら大勢の人狼族たちの存在にも気づいたのだろう。
セルーシャは、混乱した様子で、エイリーンとリーヴィアスたちを交互に見やった。
ゴーティから下り、前に歩み出ると、リーヴィアスが眉を下げて尋ねた。
「セルーシャ、お久しぶりですね。私たち、エイリーンと一緒に貴方を探していたんですよ。三月もの間、本当にどこに行ってたんです?」
セルーシャは、こてんと首を傾げた。
「どこに、って……だから、いなくなっちゃったのはエイリーンの方で、我はずっとこの湖畔にいたよ?」
「そんなはずはない! 森を出る前に、この辺りも散々探したが、お前はいなかった! レクエスを作った翌日のことだぞ。朝目覚めた時には、お前の姿は既になかった!」
矢継ぎ早に否定したエイリーンが、セルーシャの両肩をガシッと掴む。
しかしセルーシャは、目を瞬かせるばかりで、心当たりがないようだ。
──が、不意に何かを思い出したらしく、あっと声を上げると、エイリーンの手を外して、先程までの自分が座っていた水辺まで歩いていった。
そして、湖の浅瀬から突き出している、巨大な獣の頭骨のようなものを水中から引き上げると、それをずるずると引きずって持ってきた。
「そういえば、これを取りに、湖の底に潜ってたんだ。ほら、あの夜、レクエスに角をつけたらいいんじゃないかって提案をしたでしょう? エイリーンは、そんなものつけたら頭に重さが偏って転倒する、って言ったけど、実際に大角をつけて走っている獣は沢山いるじゃない。それで、思いついたんだ。本物の獣の角なら、木や石よりも軽くて頑丈だろうから、レクエスにも使えるんじゃないかって。で、昔この湖に近づいた大鹿が、微精霊に引きずり込まれてたなぁって思い出して、試しに湖に潜ってみたの。そしたらほら! 湖底に沈んでたんだよ、これが」
「…………」
角の長さだけでも、セルーシャの身の丈近くある立派な大鹿の頭骨。
それをどこか誇らしげに見せつけながら、セルーシャが言う。
絶句しているエイリーンの代わりに、リーヴィアスが答えた。
「ええっと、つまり……エイリーンが目覚めた時、セルーシャは湖に潜っていて、それをエイリーンは、セルーシャが失踪したと判断した、ってことですかね? その後、セルーシャが岸に上がった時には、今度はエイリーンがセルーシャを探しに霧の森を出てしまっていたから、セルーシャもエイリーンが失踪したと思った、と……」
唖然とする一同の視線を受けながらも、セルーシャは、あっけらかんと答えた。
「どうやらそうみたいだね。この湖、想像以上に深かったんだ。しかも、微精霊たちが思いのほか抵抗してきて、そいつらを蹴散らしてたら、陸に戻るまでに半日くらいかかっちゃって」
「…………」
深く深く息を吐き出したエイリーンが、身体の支えを失ったかのように、脱力してその場にへたり込む。
今までの疲労が、一気に全身にのしかかってきたような感覚だ。
近くに木に寄りかかって傍観していたガロウが、ケッと息を吐いた。
「道理で、何の痕跡も見つからないわけだぜ。水中にいたんじゃ匂いは辿れねえし、そもそもセルーシャは、一切ここから移動していなかったときた。なんだよ、結局俺の言った通り、全部エイリーンの勘違いじゃねえか」
苦笑を浮かべたリーヴィアスも、やれやれと嘆息する。
「霧の森から出ていないんじゃ、当然古代樹の森の木々たちも気付きませんし、微精霊に囲まれていたとなると、魔力も探りづらくなりますしね……」
改めてこの場にいる顔ぶれを確認して、セルーシャは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「まさか、こんなに大事になってるなんて思わなかったよ。君たちは……人狼族? 君たちも我を探してくれていたの?」
セルーシャの問いに頷いてから、ガロウは、草地にうずくまっているエイリーンを顎で示した。
「ああ、そうだよ。そこのお騒がせ精霊に付き合わされてな。全て徒労だったみたいだが」
「…………」
セルーシャは目を瞬かせて、エイリーンを見下ろした。
リーヴィアスと行動を共にしていた、というだけでも意外なのに、あの排他的なエイリーンが、人狼族にまで頼っていたとは驚きだ。
それだけ必死に、手段を選ばず自分を探していたのだと思うと、胸の奥をぎゅっと握られたような、不思議な心地になった。
「エイリーンも、ごめんね。森の外まで探しに行ってくれてたなんて、大変だったでしょう」
言いながら屈み込んで、エイリーンの肩にそっと手を置く。
しかしエイリーンは、その手を勢いよく振り払うと、突然大声で怒鳴った。
「──ふざけるな! 何がごめんだ‼︎ そんな一言で許されるとでも⁉︎」
思わぬ拒絶を受け、セルーシャが後ずさる。
よろめいたセルーシャをそのまま突き飛ばすと、エイリーンは感情を露わにした。
「突然お前が消えて、我がどれだけ焦ったと思っている⁉︎ 二つに分かれようとも、我々は一本の葬樹! いついかなる時も、決して離れてはならんはずだ‼︎ なのにどうして、勝手に我のそばを離れた⁉︎」
セルーシャは、尻もちをついた状態で、唖然とエイリーンを見上げた。
リーヴィアスとガロウも、驚きのあまり絶句してしまった。
エイリーンは元より、精霊族にしては感情が出やすい質であると感じていたが、こんな風に取り乱して怒るとは予想外であった。
おろおろと視線をさまよわせながら、セルーシャは立ち上がった。
「わ、我は、エイリーンのそばを離れたつもりはなかったんだよ……。ただあの時、エイリーンは眠っていたし、そもそも君はレクエスに角をつけることに反対してたから、大鹿の骨が湖底に沈んでいるかどうか見に行くなんて言ったら、また怒ると思って……。一人で行って、エイリーンが目覚める前に、戻ってくる予定だったんだ」
エイリーンは、わなわなと肩を震わせて叫んだ。
「駄目だ! それは十分離れていることになる! 我はお前の一部で、お前も我の一部だろう⁉︎ 勝手に視界からいなくなるな! 手の届かない位置に行くな‼︎ 眠っている時だろうが、湖底に潜る時だろうが、我々は常に共にあるべきだ! そうだろう⁉︎」
(あ、愛が重い……)
一瞬視線を交わすと、リーヴィアスとガロウは、全く同時に同じことを思った。
エイリーンは、息継ぎの間もないくらいの勢いで捲し立てて、ハアハアと呼吸を乱している。
エイリーンの豹変ぶりは、長年連れ添ってきた半身であるセルーシャにとっても、少なからず衝撃的なものだったらしい。
つかの間かける言葉に迷った様子で、セルーシャは口ごもり、おずおずとエイリーンに向き直った。
「……あ、あの、エイリーン、どうか落ち着いて? 今のエイリーン、怒ってるのか喜んでるのかよく分からないし、何を言ってるのかもよく分からないよ。眠っている時は、お互い目を閉じてしまっているんだから、視界からいなくなるなって言われても不可能だし……」
(この状況でそんな正論を言ってやるなよ……)
リーヴィアスとガロウは、またしても同時に同じことを思った。
セルーシャは、手を伸ばして、震えているエイリーンの拳を握った。
「今回は、ちょっとしたすれ違いが起きてしまっただけだよ。我は思っていたより湖から上がるのが遅くなってしまって、エイリーンは我が失踪したと早とちりして、そういう不運と勘違いが重なり、少しの間 別行動になってしまった。それだけのこと。だから、そんなに不安がらなくたって大丈夫だよ。我々葬樹が離れ離れになるなんて絶対ありえない。ね?」
「…………」
エイリーンは、少し拗ねたような口調で返した。
「葬樹だった時代とは違い、今は物理的に離れられる人型になってしまったのだから、絶対とは言い切れないだろう。我は、お前がいなくなったと気づいて、最初は何者かに拐かされたのだろうと思った。あるいは、前夜にレクエスのことで言い合いになったから、腹いせに姿を消したのやもしれんと……」
セルーシャは、小さく笑って首を振った。
「我は攫われるほど弱くないし、ちょっと言い合いになったからって、エイリーンから離れようとも思わないよ。我々は、古代樹の一族に次ぐ葬樹の大精霊だよ? 人間にも獣人にも、手出しできる者なんていないだろう。お互いが共にあるべきだという想いが変わらない限り、我々が離れることはないよ。現に、こうして再会できたじゃないか」
「……ならば誓え。その想いは永劫変わらないと。我々は、この先もずっと一緒だろう?」
「誓えって、もう、エイリーン……大袈裟だなぁ」
ムスッとしているエイリーンに対し、セルーシャが困り笑みを向ける。
まるで結婚の約束でも交わしているかのような会話だが、これで二人は、互いを大事な身体の一部のようなものだと認識しているそうだから、やはり人間や獣人には理解し難い、なんとも特殊な関係性である。
ゴホン、と咳払いして、リーヴィアスは口を挟んだ。
「まあ、とにかく、無事にセルーシャが見つかって良かったですね。これにて一件落着、ということでしたら、私はそろそろ失礼してもいいですか? 随分と長いこと留守にしてしまったので、集落の様子を見に戻りたいですし、ガロウたちの新居探しもありますから……」
隣で退屈そうに欠伸をしていたガロウが、「俺たちも帰りたい」と無言で訴えている。
エイリーンと横並びになって、セルーシャはぺこりと頭を下げた。
「皆、エイリーンがあちこち連れ回してしまったみたいで、ごめんね。原因は我だったようだから、我が謝るよ。許してくれる?」
エイリーンと同じ見た目で素直に謝ってきたので、言い返そうにも、やりづらさが勝ったのだろう。
後頭部の毛をわしゃわしゃとかき混ぜて、ガロウが嘆息した。
「ここで許さねえって跳ねつけるほど狭量なつもりはねえが。……ま、俺とリーヴィアスにそれぞれ貸し一、ってところだな。連れ回された期間とそいつの態度の悪さを勘定に入れれば、貸し二くらいはある気がするが、そいつには沼畔族を追っ払ってもらった借りがある。だから、差し引いて貸し一だ」
「……何を言っている。匂いで追跡するとかほざいていたくせに、結局貴様らは何の役にも立たなかっただろうが」
「ぁあ⁉︎ なんだと⁉︎」
刺々しく指摘したエイリーンに、ガロウが牙を剥いて唸る。
もはや見慣れた二人のいがみ合いにくすくす笑いながら、リーヴィアスは言った。
「貸し借りとか、そういうのは気にしなくて良いですよ。確かに楽な道のりではなかったですが、まさか三種族で──いや、レクエスくんやゴーティ、狼くん達も入れて、五種族かな。とにかく、いろんな種族で集まって、こんな風に旅に出られるなんて思いもしませんでしたから……私は結構楽しかったです」
セルーシャは、リーヴィアスに視線を移した。
「そう? それなら良いんだけど……でも、エイリーン、きっと迷惑かけたでしょう? 気に入らないことがあると、すぐ暴れるから」
「おいセルーシャ、言っておくが、リーヴィアスは勝手についてきたのだぞ。我は一人でお前を探しに行くと言ったのに、こいつはそれを無視してついて来たのだ」
エイリーンが迷惑をかけた、という部分は否定せず、苦笑を深めて、リーヴィアスはうーんと唸った。
それから、何かを考え込むように顎をさすって、思いつきのように言った。
「じゃあ、この場ですっきり貸し借りを清算するために、一つお願いを聞いてもらってもいいですか?」
「お願い?」
リーヴィアスは、にこやかな表情のまま頷いた。
「ええ。エイリーンとセルーシャ、二人だけで北地に帰ろうとするのはやめてください」
瞬間、エイリーンとセルーシャが顔つきを変える。
穏やかな態度を崩さずに、リーヴィアスは、レクエスの方を一瞥した。
「……エイリーンから聞きました。レクエスくんは、二人だけで葬樹の森に帰るための、移動手段として作ったのだと。でも、私とグレアフォール王が計画している三種族の隔絶と大陸分断には、葬樹の力が必要なんです。だから、引き続き弔いの儀に──必要な魔力の蓄蔵に協力してくれませんか? 予定では、魔力の蓄蔵は二十年、新大陸へ渡る種の選別は五年ほどで終わります。あと二十五年、多く見積もっても三十年……エイリーンとセルーシャにとっては、大した年数ではないでしょう? 大陸分断が始まったら、北地にお送りしますから、どうかその二十五年は、私たちに付き合って頂けないでしょうか?」
「…………」
エイリーンとセルーシャは、リーヴィアスを見つめて黙り込んだ。
リーヴィアスも、表情を変えずに二人を見つめ、じっと返答を待っている。
吹いた微風に、ふわりと霧が移ろい、鏡のような湖面が揺れる。
小さな漣の音が止むと、エイリーンは、ふっと息を吐き出し、その橙黄色の目を細めた。
「……いいだろう。二十五年、確かに大した年数ではない。我々の独力で葬樹の森を復活させるには、おそらくまた千年近くかかるだろうからな。二十五年の煩事と引き換えに、貴様らが北地への移動と葬樹の森の復活を担ってくれるならば、条件としては悪くない」
セルーシャは、目を丸くしてエイリーンのほうに振り返った。
「エイリーン、いいの?」
「いい。一度した取引を継続するというだけだ」
エイリーンとセルーシャの結論を聞くと、リーヴィアスは口元の笑みを深めた。
そして、嬉しげに手を差し出してきた。
「よかった、安心しました。では、また明日から、弔いの儀への出席、よろしくお願いしますね」
半ば強引にエイリーンの手を取り、次にセルーシャの手を取り、握手を交わす。
リーヴィアスは、満足げに二人に礼を言うと、ガロウたち人狼族を引き連れて、ゴーティと共に霧の森から去っていったのであった。
リーヴィアスにはああ言ったが、何の効力もない人間との約束を、守らなければならない理由はない。
エイリーンは、弔いの儀への参加がまた億劫に思えてきたら、いつでもリーヴィアスとの約束を反故にするつもりでいた。
葬樹の森の跡地は、確かに遠い、遥か北にある。
だが、完璧に走れるようになったレクエスさえいれば、二人だけでの帰還も十分に望めるはずなのだ。
しかし、そんなエイリーンの目論見は、セルーシャと再会できた翌朝に、呆気なく崩れてしまった。
長旅の無理が祟った影響なのか、それとも別に原因があるのか──レクエスの木造の四肢が、バラバラに砕けてしまったのだ。
すぐに修復したが、リーヴィアスが木肌に施していた術式も粉々になっていたので、レクエスは、また拙いガタガタ走りしかできなくなった。
再び術式を施したくとも、エイリーンには人間の魔術は分からない。
二人だけで北地に帰らないと約束したリーヴィアスに、もう一度レクエスを移動手段として使えるようにしてくれ、とも頼めない。
結局エイリーンとセルーシャは、約束通りに弔いの儀に協力して、グレアフォールとリーヴィアスの力で北地への帰還を目指すしかなくなったのであった──。
To be continued....
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