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投稿日:2026年01月09日
千野 条太郎は、とかく身の程を弁えぬ、無作法な青年であった。
父は、元軍医にして、 対異形防衛部隊の発足にも携わった貴族院男爵議員、 千野 勇太郎。
しかし亡母は、邸勤めの女中、ツネ。
所謂華族の出生であり、世間的には上流階級の人間であったが、条太郎は非嫡出子であるが故に、爵位を継ぐ身上にはなかった。
爵位を持たぬ者は、彼の通う帝都維新大学──通称『帝都大』においては、劣位の立場に在った。
帝都大の学生は、その殆どが、皇族・華族の嫡男だからである。
けれども条太郎は、格上の学友らを敬わず、媚びることさえしなかった。
むしろ詰り返し、罵り返し、鼻で笑い返した。
彼の同窓生は、皆口を揃えて云う。
曰く、千野条太郎という男は、実に高慢で偏屈な天邪鬼である、と。
家族仲も悪かった。
殆ど邸に戻らぬ父、勇太郎とは、会話らしい会話をした覚えがない。
継母の春江と、嫡男である弟の孝太郎は、下賤の子である条太郎を疎んでいる。
婚約者もいない。
春江が強引に進めた縁談は、破談になった。
条太郎が、相手の子爵家令嬢に「貴様のような傲った女は嫌いだ」と暴言を吐き、「どの口が云うのか」と激怒されたためである。
このように、位卑言高な質であるが、そんな条太郎にも、親しき友がいた。
名を、弓持龍之介という。
元侯爵議員の令息にして、帝国革命を目指す無政府主義者として時に非難される、学生運動家たちの中心人物であった。
龍之介は、帝都大に通う学生の中でも、とりわけ上位の特権階級の人間であった。
しかし、気取らず鷹揚で、万人に分け隔てなく接する稀有な青年であった。
条太郎とは、不思議と話が合い、知り合ってすぐに昵懇の間柄となった。
二人は、時に助け合い、励まし合い、互いの夢と信念を語り合っては、真の自由とは、平等とは何たるかを論じた。
「条太郎、君は立派だ。爵位こそないものの──いや、だからこそと云うべきか。才能と積み重ねてきた研鑽、己が努力だけで、実に目覚ましい学績を得ている。
僕は、君のことを尊敬している。君のような優秀な男と肩を並べ、こうして革命の御旗を掲げられていることを、心から誇りに思っている。
共に、この不条理な階級制度を打ち壊そう。排他的で閉塞し切った社会に、変革をもたらすのだ。この熱き想いを抱くのに、身分や立場は関係ない。生まれは違えど、我らは朋友」
時折、条太郎が自らの立場を憂う発言をすると、龍之介はいつも、このように話して笑った。
そして手を取り、口癖のように云うのであった。
「正義は此処に在り、だ!」
* * *
暮れに迫る晩夏の暑さは、脳を溶かすような厭らしさがある。
玄関先にて、引き戸に手をかけると、爪先に何かがこつんと当たった。
目を落とすと、足元に胡瓜と茄子の兵が倒れていた。
彼らは、云わば盆御供の番人である。
常世から還ってきた先祖の霊魂は家の中へと迎え入れ、乗じて寄ってきた邪な異形は追い返す。
恐らくは、几帳面な女中のタヱあたりが、作って並べたのであろう。
家人とは、そろそろ盆御供の時期だね、などという世間話一つしておらぬ。
継母、春江のこちらを蔑むような眼差しを思い出し、嘆息すると、条太郎は踵を返して、邸に隣接する林の方へと歩いていった。
物悲しい蜩の声を聞きながら、黄昏の林道を進むと、薄青い夕闇の先に、一軒の古臭い平屋が現れた。
今は亡き父、 千野 勇太郎が、『松野』という偽名を使って、晩年一時のみ開業していた家畜病院である。
閉業して早数年、朽ち始めた外観は、なんとも不気味な様相を呈していた。
色が褪め、地の木肌が剥き出しになっている外壁には、雑多に伸びた蔓草がへばりついている。
──もう二人、いや三人。外壁にへばりついている小さな人影が在る。
宛ら敵を警戒する兵士のような仕草で、壁に背をつけ、こそこそと話しながら、くすんだ曇り硝子を覗いている。
条太郎は、すうっと怒気を鼻の穴から吸い込んだ。
そして、大股で近づいていくと、どんっと壁を叩き、大声で怒鳴った。
「──散れ! 悪童どもが!」
「ぎゃぁあっ‼︎」
途端に跳び上がった子供らが、足をもつれさせながら、一目散に林道を駆けていく。
条太郎は、町の方へ消えていった三人を見送ってから、外壁に"勇気の証"が彫られていないかを確かめた。
近所に住む子供らが、この家畜病院を幽霊屋敷だの、異形病院だのと噂していることは知っている。
夜間も瓦斯灯が灯るようになり、常に明るくなった市街地出身の彼らの目には、光源一つない[#ruby=林中_りんちゅう]に建つこの廃病院が、さぞかし恐ろしく、しかし興味深く映るのであろう。
時折ああして肝試しに訪れては、辿り着いた"勇気の証"を外壁に石で彫り込み、満足げに帰っていくのだ。
全くもって、許し難い行為である。
閉じていた戸を開くと、埃っぽい空気が鼻をついた。
幽霊屋敷、異形病院、もとい松野家畜病院の中は、ひどく物静かである。
寂然とした室内には、診察台と棚台車、診察録記入用の文机、そして水道の通らぬ簡素な流し台、水甕があるだけだ。
条太郎は、吊り下げられた石油洋燈を点灯させると、黒羅紗の外套を脱いで椅子の背にかけた。
そして、文机に着き、脇に積み重ねている持ち込んだ教本や雑誌、新聞の山々に視線をやった。
ここ数月ほど、条太郎は、この廃病院で日がな一日、勉学に耽る毎日を送っていた。
最低限の飲食物や日用品が尽きた時は、継母のいる麓の邸に補充に戻ったが、それ以外の時間は、こうして廃病院で文机に向かっている。
我ながら陰気な生活であるとは思うが、人と交わらぬ穏やかな暮らしは、苦ではなかった。
ただ閑静すぎて、幽霊屋敷だの、異形病院だのと騒ぐ子供らの気持ちが分かる時もあった。
自らの吐息さえ目立つ静けさの中に身を置いていると、もう顔も浮かばぬ父が、傍に佇んでいるような気配を感じるのである。
教本を取ろうとして、条太郎は、その上に重ねていた新聞記事を手に取った。
目についた見出しには、こう書かれている。
──非業の死 鶴田公園にて怪奇殺人!
陸軍大臣 倉持龍彦氏 殺さる ──
胸の底を掻き混ぜるような文面、唾棄すべき新聞記事である。
続きを読まずして、記事を机の端に寄せると、条太郎は抽斗から帳面と鉛筆を出し、手にした"獸頚大全"を広げたのであった。
独りきりの静寂が破られたのは、夜も更けた頃であった。
戸の方から、不意に「御免ください」と声がした。
鈴を転がすような、高い女の声である。
「こちら、千野勇太郎さんの家畜病院で合っていますか? 夜分に申し訳ありません。診て頂きたい子がおりまして……」
条太郎は、びくりと顔を上げ、訝しげに戸を睨んだ。
いかにも、こちらは千野勇太郎の家畜病院である。
しかし、父は『松野』の偽名で開業しており、患者患畜らには、自身の本姓が『千野』であるとは周知していなかったはずだ。
はてさて、家畜医として転身した父には、身内以外にも素性を知らせる相手がいたのであろうか。
因みに、条太郎が此処に居着いてから、未だ嘗て訪人が在ったことはない。
条太郎は、恐る恐る席を立つと、戸を拳一つ分ほど開き、じろりと女を見た。
頬被りを深く被っていて、顔はよく見えない。
藍鼠色の古臭い着物を着た、若い娘のようだった。
「……勇太郎は、僕の亡き父だ。この家畜病院は、既に閉業している。他所へ行け」
云うや、戸を閉めようとすると、閉じかけた隙間に、娘はすかさず草履を差し込んできた。
「お、お待ち下さい! あの、勇太郎さんのご子息で、この病院にいらっしゃるということは、貴方も家畜のお医者様なのではありませんか?」
「違う。僕は単なる帝都大の医学生だ。人相手なら兎も角、畜生のことは詳しくない」
「学生さんでも構いません! 医術のお知恵を貸して下さるだけでも、どうか! 他所では診て頂けないのです……!」
娘が強引に身体まで入れ込んできたので、条太郎は、思わず戸を開けてしまった。
勢いよくつんのめった娘が、室内に転がり込む。
その細腕に抱かれた手拭の中で、何かがもぞもぞと蠢き、ひょこりと顔を出した。
仔犬とも仔熊ともつかぬ、その焦茶色の毛玉を見て、条太郎は瞠目した。
──異形だ。
形態的には大鼠か、土竜に似ているが、頭部にぎょろと動く目が三つある。
四肢は短いが、足と爪は大きく鋭く発達し、耳元まで裂けた大口には、尖った牙がずらりと並んでいる。
道理で、他所では診られないわけだ。
条太郎は、僅かに声を潜めた。
「……何処で拾ったのかは知らんが、一般人による異形の捕獲や保有は、異形防対法違反だ。しかもそいつ、異国の異形だろう。外来移入異形法にも違反している。つまり貴様は、二重の違反者ということだ。余計に関われん。さっさと失せろ」
早く出て行け、と戸の外を指差すが、娘はぶんぶんと首を振った。
「お願いします! 貴方が関わったことは、絶対に云いませんから」
「駄目だ。僕は異形の治療法など全く分からんし、違法行為の片棒を担ぐつもりもない」
「お願いします!」
「人の話を聞かん女だな! だから駄目だと──」
「──私の大切なお友達なのです……!」
「…………」
繰り返される、押し問答。
条太郎は、腕組をしてやれやれと唸った。
力づくで真夜中の[#ruby=林中_りんちゅう]に放り出したら、今度は当方が、婦女暴行の犯罪者になるのであろうか。
張り詰めていた気を弛緩したように、条太郎は肩をすくめた。
「……この病院は、先も云った通り閉業している。片付けてしまったから、ろくな治療器具は残っていないし、薬類の用意もない。……治せるか分からんぞ」
娘は、ぱっと声色を明るくした。
「ありがとうございます! よろしくお願い致します!」
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