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投稿日:2026年01月09日
倉持辰巳は、とかく聡明で人望に厚い、求心力のある青年であった。
父は、先の大戦で多大な功績を残し、現内閣において絶大な権力を持つ陸軍大臣、倉持龍彦。
母は、軍艦製造で財を成した大企業、霧本造船の御令嬢、霧本珠子。
云わずと知れた名家の嫡男であり、将来を嘱望されていた彼は、いつ何処で見かけても、大勢の輪の中心に立っていた。
一方、僕は下賤な上に無作法であると忌み嫌われ、輪の外側にいることが常であるような人間であった。
我々の間には、身分にも気質にも、霄壤ほどの大差があった。
倉持が行く道と、僕が行く道は、決して交差せぬ、高さの異なった平行線である。
期せずして、そこに交点が生まれたのも、彼の驕らぬ公平な性格が発端であったと云えよう。
──忘れもしない。あれは、入学してまだ半年も経っていない、一年次の晩夏の暮れのこと。
大学敷地内の書籍館で、暴力沙汰を起こした僕が、学部長から懲罰を科された際。
唐突に教員室に乗り込んできた倉持が、千野君だけが咎められるのはお門違いです、と訴えて出たことが始まりであった。
ところで、我々の通う帝都維新大学──通称『帝都大』は、凡ゆる差別意識が蔓延る、実に理不尽で不愉快な場所であった。
といっても、此の学校に限ることではないのだが、大学に在籍するような皇族・華族の坊々共は、往々にして、一族の功績を自分の手柄であるかのように勘違いしていた。
努力して得た学績や日頃の振舞よりも、生まれながらの家柄で他人を判断し、自分よりも下位の者を蔑むことで愉悦に浸る、権柄尽くな阿呆が多かったのである。
そう云う訳だから、「先に殴ってきたのは彼方だ」と互いに云い張る、僕と赤松とでは、当然、赤松の方が信じられた。
いや、実際のところ、本心から信じられていたのかは分からぬ。
だが赤松は、帝都でも幅を利かせている伯爵家の嫡男で、対する僕は、男爵家の庶子であった。
そして僕は、格上相手に信頼を勝ち取れるほど、殊勝な態度を取ってもいなかったので、最終的には、やはり赤松の主張が通った。
学部長としても、大学の施設拡充に資金援助を行っている赤松伯爵に、これを機に睨まれては敵わん、という心持があったのであろう。
僕は、書籍館にて勉学に励む、善良な赤松君に突然殴りかかった、素行不良な学生として、罰せられることになったのである。
けれども、そこで登場したのが、倉持辰巳であった。
黒羅紗の外套を靡かせ、颯爽と教員室に現れた倉持は、顔面がボコボコに腫れ上がった僕を見てフッと笑い、学部長にこう云った。
「先生、千野君だけが咎められるのはお門違いです。僕は、書籍館で騒ぎの一部始終を見ておりましたが、先に殴りかかったのは、赤松君の方でした。
そもそもの原因も、赤松君が、館内で他の利用者に繰り返し話しかけていたことでした。静かにするように、と注意した千野君に対し、赫となった赤松君が殴りかかり、反撃に出た千野君も殴り返し、結果、あのような騒動になりました。
先に喧嘩を吹っかけたことを咎めるならば、責められるべきは赤松君ですし、殴り合いに発展をしたことを咎めるならば、二人ともに懲罰を科すべきです。千野君だけが咎められるというのは、不当かと存じます」
僕と学部長は驚愕して、堂々たる倉持の顔を凝視めた。
赤松は、耳まで赤くして憤ったが、「僕の言葉だけでは足りないのなら、他にも証人を呼んでこよう」と倉持に返され、震えながらも押し黙った。
再度云うが、この頃の帝都大では、何よりも家柄が重視されていた。
倉持辰巳は、いずれ首相として内閣を組織する可能性もある現陸相・倉持龍彦を父に持つ、上流階級に属する学生達の中でも、別格の存在である。
その彼に云われては、学部長も、赤松も、ぐぬぬと沈黙し、大人しく引き下がるしかなかったのであった。

無罪放免となり、帰り支度をして学外に出た頃には、空は一面、燃るような夕焼色に染まっていた。
他の学生共は、疾っくの疾うに帰宅したのであろう。
校舎は寂然としていて、辺りは静けさに満ちている。
「……おい、倉持。一体何のつもりだ?」
校門を過ぎ、賑やかな街路に出たところで、僕は、前を歩く倉持に向かって尋ねた。
後になって思えば、まず先に礼を云うべきであったのだが、この時の僕は、何故倉持のような特権階級の人間が庇ってくれたのだろう、という疑念で、頭が一杯であった。
感謝や安堵よりも、不信感の方が心を強く支配していたのである。
歩調を緩めた倉持が、歩きながら振り返った。
「何のつもりって? 僕が君の弁護をした理由を聞きたい、ということかい?」
「他に何がある? 赤松も、学部長も、倉持家に楯突くほど無謀ではなかろうが、それでも、今回の件で、お前が悪目立ちしたことは事実だ。赤松家と大学が癒着関係にあることは、お前も知っているだろう。彼らに悪印象を植えつけてまで、何故僕なんぞを助けた? 云っておくが、僕が君に差し出せる見返りなど、一切何もないぞ」
倉持は、意外そうに目を丸くしてから、肩をすくめて苦笑を漏らした。
「僕は別に、見返りが欲しくて君を弁護したわけじゃあない。真実を述べただけで、先生や赤松君に悪印象を植えつけたつもりもないさ。態々尖った物言いをして、悪目立ちしていたのは、君の方だろう。千野君、君はいつもそうだ」
知ったような口を利かれて、僕は、不快感を隠さずに顕した。
我々は、同じ医学部の同級生であるが、顔を見知っているだけで、挨拶すらまともにしたことがないような間柄だ。
確かに僕は、売られた喧嘩は買う主義であったので、度々このような騒動を起こしては、悪目立ちをしている自覚はあった。
しかし、だからといって、此方の事情など碌に分からぬ赤の他人に、いつもそうだ、などと呆れられる謂れはない。
苛立った勢いのまま、反論してやろうとすると、その前に、倉持が付け加えた。
「それはそうと、あの二人の女学生は、無事に帰って行ったよ。外で待っていた車に乗り込むところを確認したから、間違いないはずだ。今頃は、もう家に着いているだろう」
喉元まで出かかった悪態を、僕は、咄嗟に飲み下した。
苦笑を深めた倉持が、滔々と続ける。
「いやはや、赤松君は、どうにも[#ruby=執拗_しつよう]で良くないな。粘り強いと考えれば、まあ、長所とも云えるんだが……。
兎に角、あのお嬢さん達は、君に感謝していたよ。ただの鬱陶しい軟派男ならいざ知らず、赤松だと名乗られては、無下にすることもできなかっただろうからね。かといって、嫁入り前の女学生たちが、是も否も云えずに、いつまでも男に絡まれている場面なんて見られたら、どんな噂が立ってしまうか分からない。君が赤松君を怒らせ、注目を集める役を買って出てくれて、本当に助かったと、涙ながらに礼を云っていた。で、僕は、そんな彼女らの感謝と詫びの気持を、君に伝える役を引き受けたというわけだ」
ふと立ち止まって、倉持は、此方に向き直った。
「僕としては、千野君は咎められるどころか、称賛されるべき行動を取ったのだ、と、教員室で云い降らしてやりたかったんだがね。渦中の君は、学部長に、肝心なことは何も説明していないときた。そこで、思い直したんだ。こっそりと僕に伝言役を頼んできたお嬢さん達の内心や、真実を有耶無耶した方が彼女らの立場が守られる、と考えたのであろう君の配慮を汲むならば、ここは多くを語らぬが吉か、と。
誤解されたままで惜しい気持はあるが、一番悔しいはずの君が沈黙を貫いたのだから、その度量に敬意を表し、僕も耐えるとしよう。それから、学部長に代わって称賛するよ。千野君、君は良い奴なんだなぁ」
倉持は、無遠慮に僕の肩に手を回し、ハハハと快活に笑った。
僕は、爆発四散した反論の欠片を拾い切れず、目を白黒させて黙り込んでいた。
つい先刻まで、此方の事情など分からぬくせに、と苛立っていたはずなのだが、実は全て理解されていたとなると、それはそれで妙な気恥ずかしさがある。
倉持の腕を払い除け、僕は、ようやく 云い返した。
「……ついでだった。赤松は、日頃から僕の出自を揶揄してくる、いけ好かん男だったからな。いつか憂さ晴らしに、一発ぶん殴ってやろうと思っていた。つまり、あの女学生らの存在を、赤松を殴りつける大義名分として利用してやったのだ」
倉持は、ひょいと眉を上げ、意味ありげに頷いた。
「成程な。だが君は、今まで誰に何を云われようとも、逆捩を食わすだけで、暴力を返すような真似はしてこなかっただろう。だから今日、赤松に拳で反撃した君を見て、僕は驚いたんだ。同時に、これは只事ではない、何か理由があるに違いない、と考えた。そのお陰で、机の下で縮こまっていた、あのお嬢さん達の存在に気づくことができた。単に君と赤松君が云い争っていただけなら、日常茶飯事であるし、口出しは余計なお節介かと、いつも通り受け流して終わっていただろう」
再び肩に手を置き、倉持は云い募った。
「千野君、そう悪ぶった云い方をせずとも、僕は君を侮ったりなどしないさ。君は、口で云っているほど皮肉屋ではない。罵詈雑言を捲し立てているようにも見えるが、その実、愚かな感情論者でもない。そうしようと決めたことは、必ず守って立ち回っている、理性的で克己心の強い男だ。
僕が思うに、君はきっと、どんなに激怒していたとしても、殴ってやりたいと思っていたとしても、憂さ晴らししてやるという利己的な理由だけでは、自分から暴力沙汰に発展させはしなかっただろうさ」
「…………」
僕は、どう反論すれば良いのか分からず、むずむずと唇を動かした。
僕の人生において、こんな風に手放しに褒めちぎられたことが、かつてあっただろうか。
何か思惑があるに違いない、と睨み返すが、その表情に打算的な気色は見当たらない。
フンと鼻を鳴らして、僕は再び、倉持の手を払った。
「どうだかな。倉持、お前は何故か、僕を善人だと思い込みたいようだが、あまり買い被るな。確かに僕は、暴力は好きではない。だが今日は、心底腹が立っていたから、あるいは、僕から殴りかかっていた可能性も十分にあった。
……あの二人、どこの家の令嬢かは知らんが、折角楽しそうに書籍館に通っていたのに……。こんなことがあっては、もう二度と来ようとは思わないだろう」
倉持は、それを聞くと、ハッと何かを察したように、僕の目を覗き込んだ。
瞳の奥をまじまじと凝視め、それから、顔を近づけてきて、こそっと小声で囁く。
「千野君……君、もしかして、彼女らのどちらかに惚れていたのか? 僕は、連絡先を聞いてから、二人を帰すべきだっただろうか?」
「──っほ、は⁉︎ ちっ、違う! 何故そうなる⁉︎ そんな低俗な理由ではない‼︎」
僕は、頬を紅潮させて否定した。
「ぼ、僕はただ……! 学外の者が、書籍館を気軽に利用できるようになったことが、喜ばしいと感じていただけだ! 折角設立されたというのに、帝都大の男共が占拠して、入りづらい雰囲気を醸しているのでは、公共施設の意味が無いだろう。だが、あのように通う女学生がいれば、それを見た彼女らの友人や、親、兄弟姉妹も通ってみようかという気になるやもしれん。そうなれば、いずれは老若男女、利用したいと思っている全員が、踏み込みやすい空気になっていくはずだ。……下劣な思惑から、彼女らの快い時間に水を差し、その流れを妨げた赤松の罪は、僕は非常に重いと考えている」
倉持は、僕の顔を眺めたまま、つかの間沈黙していた。
しかし、ややあって僕から離れ、再び歩き出すと、ほうっと息を吐いた。
「そうか。君は、そんなことを考えていたんだな……」
カア、カアと鳴きながら、三羽の烏が飛んでいく。
ぼんやりと茜空を見上げ、倉持は呟いた。
「……全くその通りだと、僕も思うよ。確か、葉山にある市立の書籍館には、女性や子供しか出入りができない、婦人閲覧室なるものがあるそうだ。だが、収容人数に限りがある都合上、予約が必要で、利用料も通常より高額らしい。安心して通えるならば、それも良いのかもしれないが、それは妥協であり、理想ではない。目指すべきは、万人が平等な条件で利用できる状態だ」
云い終えると、倉持はそれきり、何も云わなくなった。
僕は、何度か返答しようと、口を開いては閉じた。
しかし倉持は、何やら一人で思案している様子であったので、云い出す機会を見失ってしまった。
道脇の瓦斯灯が、淡い光をチラチラと放ち、薄闇に包まれ始めた街中を照らしている。
舗装された地面には、長く伸びた人々の影がいくつも落ち、それぞれ帰路を急いでいる。
僕達は、それらの影を踏みしだくように、黙々と歩き続けた。
やがて、曲がり角に差し掛かった。
帝都大の附属寮住まいであった僕は、此処で右折することになる。
さて、なんと云って別れを告げるべきか、と迷っていると、不意に立ち止まった倉持が、先に切り出した。
「そういえば、千野君。君は附属寮住まいか?」
「……ああ、そうだが」
「門限は、確か二十二時だったか」
「ああ」
倉持は、外套の内側に手を差し入れると、銀製の懐中時計を取り出した。
針は、十八時を指している。
まだ四時間あるな、と呟いてから、倉持は此方に視線を移した。
「千野君、もし良かったら、夕食を一緒にどうだろうか? 毎週土曜日の夜は、僕はいつも、同じ下宿住まいの友人たちと食卓を囲むんだ。君と僕の友人たちは、話が合うような気がするから、きっと盛り上がると思うんだがね。……都合、悪いかい?」
僕は面食らい、戸惑って、しばし返答に窮した。
同級生から食事に誘われる、などという経験は、今まで一度としてなかったからだ。
附属寮に住んでいる帝大生は、人に拠るが、概して懐に余裕のない者が多いので、食事は寮の食堂で済ませる場合が殆どであった。
いや、もしかしたら、友人同士で外食したり、同室の学生同士で食事会を開いたりする者もいるのかもしれないが、少なくとも僕は、そんな集まりに誘われたことはなかった。
授業が終われば、書籍館に籠って勉強し、夕食時になったら、帰って食堂で適当に腹を満たし、そして、やたらと規律に厳しい帝都大の先輩がいる部屋に戻って、眠りにつく。
日々、その繰り返しであった。
逡巡の末に、僕は、おずおずと声を出した。
「……え、遠慮しておく。赤松と殴り合い、学部長に叱責され、今日は散々だった。疲れたから、寮に戻って、さっさと眠りたい。顔の傷も痛むしな」
罅の入った丸眼鏡を外し、赤黒く腫れた頬骨の辺りを指差す。
本音を云うと、倉持のような坊々の友人は、恐らく同じ坊々で、そんな連中と食卓を囲んでも、己が惨めな思いをするだけなので行きたくない、という気持であった。
しかし、それを口に出してやるのも、なんだか癪である。
倉持は、大変残念そうに眉を下げた。
「そうか……。確かに、その腫れ具合は、早く冷やさないと明日が怖いな。では、来週はどうだろうか? 来週には、その打撲も凡そ治っているだろう」
僕は、ぴくりと口端を引き攣らせ、断り文句の後陣を放った。
「来週末は、一度帰省する。盆御供の時期だからな」
「じゃあ、再来週は?」
「再来週は……病理学の試験が近いから、勉強に集中せねばならん」
「では、再々来週は? 君、いくらなんでも、試験直後まで机に齧り付いているわけではないだろう」
「…………」
僕は、じっとりとした目で倉持を睨んだ。
この男、僕が行くと返事をするまで、予定を聞き続けるつもりなのだろう。
僕の嫌悪を察したらしく、しかし、引き下がらずに、倉持は提案した。
「まあ、そんなに嫌がらないでくれよ。こう考えたらどうだい? 夕食への同席は、僕が君を弁護したお礼、ということで。君、他人に借りを作っておくのは、嫌いな質じゃないかい?」
「……先程、見返り目当てで弁護したわけではない、と云っていただろう」
「確かに云ったが、気が変わったんだ。勿論、本当に嫌がっているところを無理矢理に付き合わせたいわけではないから、少し話して、やはり退屈だと思ったなら、途中で帰ってくれて構わないよ。僕の下宿先は、ここから歩いて十分ほどのところだ。行って、少し話して帰れば、大した時間の浪費にはならないはずだ」
「…………」
僕は、億劫さを露骨に顔に出したまま、閉口していた。
正直なところ、それほど頑なに拒む理由はなかった。
本当は、埴猪口の赤松に殴られた痛みはほぼ引いていたし、盆御供の時期だからと、居心地の悪い実家に帰省する気もない。
病理学の試験は、定期試験ほど重要なものではなく、単に前回の授業内容を確認するだけのものだ。
一夜分の食費が浮くのも助かるし、何より、『あの倉持辰巳』とその友人たちと語らう好機ができるなんて、普通の感覚ならば、喜んで[#ruby=瑣末_さまつ]な用事などを捨てているところだろう。
ただ、僕の場合には、この機会を有難いことだと素直に認めたくない、意固地な自尊心が、心に絡みついているだけで──。
長い沈黙の後、深く嘆息すると、僕は頷いた。
「……分かった。ならば、今夜伺おう」
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