miel

エイプリルフール

    


 いきなり電話が掛かってきたかと思えば、「近くにいるから寄ってもいいか」などと言う。別に都合が悪いわけでもなかったし、会いたくない理由もないので「いいよ」なんて言ってしまったはいいが、今日は一日家で適当に過ごすつもりだったため、彼に会える格好をしていなかった。
 すっぴんを見られるのが嫌だなんて今更だろ、と、きっと彼は鼻で笑うのだけど、それでも私は出来る限り可愛くしていたいと思ってしまうのだ。そういうところばかりやけに女だと意識すればするほど、自分が複雑で嫌である。
 とりあえず慌てて着替えて、急いで化粧を始める。日焼け止め、下地、ファンデーションときて、眉毛を描いたあたりでインターホンが鳴ったので、モニターで相手を確認するなり応答せずに扉を押した。

「突然悪いな」

「いや、平気だよ。というか、化粧が途中なの」

「はは、それは悪かった。とりあえず上がるぞ」

 軽快な笑い声を上げ、涼介は靴を脱いだ。彼は運転を日常としている割に、いつもスニーカーではなくてローファーを履いていることが多い。今日も白いそれを履いている。庶民の私は真っ先に「汚れそうだな」と思ってしまうのをやめたい。
 涼介は持っていたビニール袋をおもむろに差し出し、「差し入れだぜ」と告げる。

「プリン?」

「そうだ、プリンだ」

「プリン買ったの? 涼介が?」

「……オレだってプリンくらい買うさ」

「スーパー行ったの?」

「いや、そこのコンビニで買ったけど」

 おぼっちゃん、と言うと彼は機嫌を損ねるけれど、実際高橋家は病院を経営しているし、事実なのだ。走り屋はファミレスで時間をつぶすのが基本だと言っているくらいだから、ファミレスへ行くことくらいは知っていた。……が、コンビニでプリンをふたつ買う涼介を想像したら面白くなってしまった。駐車場にあの白いFCを停めて? プリンを探して?

「おまえ、オレを世間知らずのおぼっちゃんだと思ってるだろ」

「ソンナコトアリマセン」

「嘘はよくないな」

 プリンを冷蔵庫へ入れて、肩を震わせて笑いながらもう一度鏡の前へ戻る。しかし、洗面所ではなくテーブルに鏡を置いて化粧をしていたのが悪かった。向かい側に涼介が座り、じろじろとこちらを見てくるせいで、化粧のしにくさが何百倍にも跳ね上がった。

「じろじろ見ないでよ」

「そんなつもりはない」

「嘘はよくない」

 楽しそうに微笑む恋人を見てどうでもよくなり、諦めてアイシャドウを塗ることにした。大して長くもない睫毛をビューラーで上げてマスカラをするのも、目の前の男の長い睫毛に対するささやかな抵抗だ。
 化粧が終わった私を見た涼介は満足そうに微笑むと、「今日の昼飯を買いに行こう」などと言い出す。

「食べに行くんじゃなく?」

「たまには家でゆっくり食べたいなと思ったんだ」

「……ここで?」

「そうだ」

「まー、いいけど」

 元々涼介が来るつもりではなかったから、今日のお昼はひとりでインスタントラーメンでも啜るつもりだったが、計画は変更だ。しかし一緒にお昼を食べれるならそれはそれで嬉しいので、ラーメンは次の休みの日まで我慢だ。

「車出してくれませんか」

 いつものことだからとお願いすると、途端に涼介の顔が曇った。

「……え、車じゃないの?」

「ああ、今日は違う。……実は、ちょっと色々あって……」

 そういえばさっき彼が来たとき、ロータリーサウンドが聞こえなかった。

「え? なに? 事故った?」

「オレはそんなヘマはしない」

「じゃあなに、なにしたの、ねぇ」

 気になるせいでしつこく追及すると、彼は溜息を吐いたのち、ようやく重い口を開いた。

「……この前買い物に行ったときに、駐車場でぶつけられたんだ」

「……は?」

 意外な返答に素っ頓狂な声が出た。思わず目を瞬くと、思い出しただけでショックなのか、涼介はさらに深い溜息を吐いた。

「フロントのリップとナビ側のドアが見事にへこんだから、さすがに板金に出したんだ。だから、今日は歩いてきた」

「そっか……そりゃ落ち込むよ……なんかごめん」

「名前が謝ることじゃないさ。とにかく、今は車が駄目だから、不便で仕方ないよ」

「涼介があのFC以外に乗るところも想像できないし……」

「万が一他の奴に見つかったら面倒だし、代車は借りなかったんだ」

 その理由は頷ける。なんてったって私の恋人は、赤城の白い彗星≠ニ噂されるほどの走り屋なのだから。


***


 運転のうまい人を助手席に乗せるのは緊張する。ブレーキが下手くそだとか、駐車が下手くそだとか、いちいち思われそうで嫌だなと思う。しかし彼は何も言わずに窓の外の景色を眺めたまま、しかもほとんど喋らない。エンジン音だけが聞こえる無言の車内も寂しいので、オーディオを触ったらちょうどユーロビートが流れ出した。ここ数年流行っているなあとは思っても、特別聴くこともなかったそれが、意外と心地よく耳に馴染むことに気付く。
 私の車は彼のそれとは違って排気量も小さいコンパクトカーだが、街乗りには十分だし、一応ターボなのでパワーはある。見た目の可愛さに惹かれてこの車を買ったが、彼のような長身の男性が乗るには少し狭そうで可笑しい。
 店内に入ると、涼介がカートとカゴを無言で手にしたのでおまかせする事にする。
 こうやって買い物をすると夫婦みたいでこそばゆい……などと考えていると、途中であることに気がついた。

「ねぇ」

「どうした?」

「ひとりでスーパー来たことある?」

「……まぁ、何回かはあるかな」

「声掛けられたりしない?」

「するよ」

 何食わぬ顔で言うので軽く睨みつけてやると、「ヤキモチか?」とくすくすと笑われてしまった。悔しいが、この笑顔には敵わない自分がいるので、大人しく野菜を手に取ることに専念する。
 なぜあんなことを彼に問うたかといえば、若い女性の視線を感じるからであった。仮に、彼が何者かを知っている人がいるかもしれないと思うと、やや怖さを感じないでもなかった。
 少し前に涼介のファン≠ニいう女性たちから夜の峠で嫌がらせを受けたとき、張本人である涼介が真っ先に私を庇ってくれたことを思い出す。そのときのあの女たちの顔は忘れられない。「涼介さまが……」なんて絶望する前に、彼が自分たちに興味が無いことに気がついて欲しい。
 今でも不思議なのは、彼が、同じ大学に通うというだけの共通点しかない私と恋仲になったことである。

 買い物を終えて帰宅したはいいが、まだお昼まで少し時間があったため、テレビをつけてふたりでゆっくりと過ごすことにした。
 いつも彼は忙しいのに、大丈夫なのかなと思う。目が合うと、引き寄せられてしまった。
 何度キスを交わしても慣れないのは、何でだろう。とてもドキドキする。

 時計の針が正午をさした。髪を撫でてくれていた手がふと止まって、涼介は何かを思い出したかのように突然笑い出す。私があからさまに不審がっていると、

「忘れるとこだったぜ」

 そう、楽しそうに言った。

「え、何を?」

「名前、今日は何の日かわかるか?」

「え? ……四月、一日……あっ」

 エイプリルフール!
 でも、彼は私になんの嘘をついた?

「どれが嘘だと思う?」

 さすが、嘘をつくのもうまかった。全然どれかわからない。考えあぐねていると、涼介はおもむろにひょいと私の脚を抱え、そのまま押し倒す。バランスを崩した上、問題の答えもわからない私はパニックだ。

「え? え? ぜんっぜんわかんない……」

「当てるまで昼飯はお預けってことで」

「えぇ? ほんとはお腹すいてないってこと?」

「そんな嘘はつかない」

「ひぇ……っ」

 余裕いっぱいの笑みを目の前で浮かべられると、目を合わせるのが照れくさくなる。 それもあり、余計に頭が働かない。

「でも……涼介が女の人に声掛けられたりするのは嘘じゃないから……」

「そしたらあとはひとつしか残らないな」

「まさか、FCぶつけられたのって、うそ?」

 彼のつけている香水がふわりと鼻腔を刺激する。独特な、甘い匂い。思わず酔いそうになった刹那、鼻先に見慣れた鍵が降りてきた。MAZDA≠フ文字は、紛れもなく……。

「あるんじゃん、大事なクルマ……」

「見事に引っかかったな」

「俳優でも目指すつもり?」

「嫌でも数年後には医者のたまごさ」

 どこまでも余裕ぶっていて、スカした態度をとる目の前の男にやや腹が立って、両脚をバタバタさせて反抗した。不意打ちを食らった涼介は珍しく微かに慌てた様子を見せ、何かを諦めたのか私の背中に腕を回して起き上がらせる。

「……ほんとにFCは無事なんでしょうね」

「……あぁ、無事、だけど」

「あとでドライブ連れてってくれるなら許す」

 お安い御用だぜ、と言ったくちびるはまた私のそれと重なった。午後になる、今からの時間は──ほんとうのことだけしか許されない、ふたりの時間だ。



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