miel

運命を糸に託せば

四月のある夜のこと
    

 四月に入っても、寒い日が多かった。
 特に夜は冷え込む。捜査のためとはいえ、スーツに春用コートだけではどうも肌寒い。もう少し暖かいインナーを着てくれば良かった。
 刑事課に配属されてまだ日が浅い、そんなある夜。
 緊張と不安と寒さを紛らわすかのように、ふぅ、と息を吐いて反対側に立つ宜野座さんを見る。一切寒さなんて感じていないようなその表情は、相変わらず仏頂面だ。瞬間、目が合う。少し見つめ合って、彼の方から先に逸らした。思わず鼓動が高鳴り、息を呑む。

「監視官?」

 隣にいた六合塚さんがそんな私を見て声を掛ける。なんでもないです、と曖昧に返すと、彼女は無言を返事にした。
 ドローンを引き連れ、周辺警備にあたる。見たところ、近辺に目立った潜在犯はいないようだった。ひと安心、と全員が構えていたドミネーターを下ろしたそのとき、狡噛さんが何かの気配に気づいて、その何かに向けて勢いよくドミネーターを向けた。

「狡噛⁉」

 宜野座さんが叫んだ。
 それと同じに等しいタイミングで、狡噛さんはトリガーを引いた。


 震える身体を両手で抱きしめるようにして、私はなんとか平静を保っている。寄りかかった先の壁はひんやりと冷たく、背中から冷えていく感覚がする。

「怖いのか?」

そんな私を見て狡噛さんが声を掛ける。

「……はい、まあ」

「無理もないな。エリミネーターが実際にどんなふうに人を殺すか、俺も最初に見たときはしばらく何も食えなかった。……そのうち慣れる。まあ、色相が悪化しないようケアだけはしておけ」

 微笑して私の肩をぽん、と叩くと、狡噛さんは護送車へ戻っていった。
 励ましてくれたのだろうか。研修で扱い方はひととおり習ったし、覚悟もしていたつもりだったが、実際に潜在犯を裁くことに、こんなに恐怖を感じるだなんて。

「花坂監視官」

 公安へ戻るぞ、と宜野座さんに言われ、顔を上げる。私を見下ろす彼の瞳は相変わらず冷たい色をしているように見えるが、こちらを覗き込んだときの表情は、心なしか心配をしてくれているように見えた。

「この程度で気分を悪くしては、先が思いやられるぞ」

「……すみません」

「……まあ、エリミネーターを使ったのは初めてだったから仕方ない。……歩けるか?」

 車へ乗ろうと壁から背を離すと、軽い目眩に襲われた。その場にしゃがみこんでしまえば、宜野座さんは溜息をついて、私の隣に同じようにしゃがむ。

「すみません、大丈夫ですから」

「大丈夫には見えないが」

「軽い貧血、ですかね。たまにあるんですよ。……あとちょっと寒くて」

 極力心配させまいと笑顔を向けるがどうも嘘くさいらしい。宜野座さんは眉間に皺を寄せると、眼鏡のフレームの位置を指で修正し、もう一度溜息をつく。

「とにかく車に乗れ」

 彼は、着ていた黒いロングコートを脱いで私に掛けると、そのまま肩に私の腕を回す。私は彼に支えられるような形で半ば無理やり立ち上がらせられたので、慌てて抗議の声を上げる。

「だ、大丈夫ですから!」

「大丈夫じゃないから座り込んでるんだろう。いいから素直に言うことを聞け!」

「でもっ、」

 声をあげようとすれば睨まれたので、諦めて素直に従うことにした。おぼつかない足でふたりして車まで歩いて、私はそのまま助手席に座らされる。宜野座さんも、助手席側のドアを閉めるなり運転席に座り、エンジンを掛けると暖房を入れてくれた。

「暖まるまで少し時間は掛かるが」

「……ありがとうございます」

「全く、君は……」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 さすがに堪えたな、と思う。我ながら情けない。目の前で肉の塊となったそれを目にする恐怖。この仕事をしていれば嫌でも目にすることになるから、きっと慣れてしまうのだろうけど。微かに震えるくちびるをぐっと噛みしめる。宜野座さんがなにか言おうとこちらを向いたとき、彼の端末が着信を告げた。

「俺だ」

『花坂は大丈夫か?』

 相手は狡噛さんのようだ。

「……ああ、とりあえず車内で暖まってもらっているが」

『そうか。花坂、聞こえてるか?』

 突然呼ばれ、顔を上げる。宜野座さんを見ると、彼も私を見て、呆れたように小さく頷いた。

「は、はい!」

『さっきも言ったが、あまり気に病むんじゃない。忘れろ、いいな』

「う……、ありがとうございます」

 狡噛さんはそれだけ言って、通信を切った。彼はこういう気遣いの出来る人間だった。どうして、潜在犯なんかになってしまったのか不思議なくらいだ。
 また黙り込んだ私を見て、宜野座さんがふと口を開く。

「……君はなぜ監視官になろうと思ったんだ?」

「え?」

 彼らしくもない質問に目を見張る。宜野座さんのコートの襟をぎゅっと掴んで、彼の方も見ずに私は言う。

「もともとちょっとした憧れがあったのかもしれません。それで、適性が出て、すぐに決めました」

「憧れ?」

「……はい。祖父が刑事で、昔からその姿を見ていて、なんだかかっこよく見えて」

 宜野座さんは何も言わなかった。否定もされなかったことを意外に思いながら、だいぶ暖かくなった体をまだ冷えたままの指先で確かめる。

「コート、貸してくださってありがとうございます。またクリーニングしてお返ししますね。あ、でも、そしたら宜野座さんが着るものなくなっちゃうか……」

「そのままで構わない」

 座席から腰を浮かせて、脱いだ彼のコートを引っ張る。背の高い彼のロングコートは長く、私が着るとロングスカートを履いたみたいに、すっぽりと全身を覆い隠してしまう。それをなんとなくたたんで、そう言う彼に渡す。ふわりと香る香水の匂い。

「落ち着いたようだし、戻るぞ」

「はい。お願いします」

 暖房を緩めて、宜野座さんは公安局までナビを設定する。もう何度目かのふたりきりの車内。自分のスーツに残る彼の匂いを嗅ぎながら、少しだけ酔いしれる。
 なんだかんだ人のことを放っておけない体質の彼のことをもっと知りたいと思い始めたのは、ちょうどこの頃だった。

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