「え、動かない……」
帰宅して洗濯をしようと、洗濯機へ洗濯物を放り込んで、いつものように洗剤を入れてスイッチを押したときだった。
愛用していたそれが、まったく応答しない。どうしようかと困り果てて、あらゆる線が抜けていないか等チェックしても、どこにも落ちが見当たらない。そもそも、昨日までは動いていたのだ。故障、だろうか。
生憎、引っ越してきて3日ばかりでは近くのコインランドリーも知らない。悩んだ末、私はお隣さんのインターホンを押してしまった。
「こんばんは?」
ドアが開いて、中から顔を出した隣人のミュラーさんは、砂色の瞳を瞬かせて私を見た。
「あ、夜分にごめんなさい。あの、うちの洗濯機が壊れてしまって……、でも明日も仕事で、近くのコインランドリーも知らなくて……」
困ってしまって、と言いかけたところで、両手に抱えた洗濯物の入ったカゴを一瞥して、彼はくすりと笑った。
「そういうことなら、うちのでよろしければお貸ししますよ」
「でも……」と口を開きかけたところで、ミュラーさんはドアを大きく開けて言う。
「あまりきれいな部屋ではないですが、どうぞ」
あまりにやさしいので、その行為に甘えることにして、一礼して「おじゃまします」と呟きながら部屋に入った。
◆◆◆
洗濯機を借りて、終わるのを待つまでの間、ミュラーさんの部屋のリビングで待つことになった。
ほとんど押し付けのような形でカゴを抱えてきてしまったことに気付いて、後悔して、洗濯機を借りるときに謝罪した。しかし彼は頭上に「?」を浮かべるように首を傾げて、「困っているときはお互い様ですよ」と笑いながら言ってくれたので安心した。とてもやさしい人だなあと、これまた思った。
「どうぞ」とココアが差し出されて、お礼を言いながら受け取る。一人暮らしの男性の部屋に上がり込んで、いったい私は何をしているんだ。
「いちばん近くのコインランドリーは、駅前のコンビニエンスストアの隣の隣にあります」
不意に彼が口を開いて、そう教えてくれた。
「駅前!ありがとうございます。今度からはそこを利用することにします」
隣に座ったミュラーさんを見上げながら、私は苦笑いで言った。先日会ったときはスーツを着ていたのでかっちりとした印象だったが、今はアイボリーホワイトのセーターを着ていて、それもすごく似合っていて、微かに頬が熱くなる。
「ええ、よろしければ。でもまた、こういうふうに来てくださってもいいですよ。特に、夜にひとりでは危ないですし」
「え、でも」
突然そんなふうに言われたら、少しだけ期待してしまう。そんなふうに思われてしまうことを、彼はわかって言っているのだろうか。
視線はこちらに向けず手元のコーヒーを眺めたまま、またミュラーは言葉を紡ぐ。
「構いません。しかし私は、もう少し、あなたのことを知りたい」
間接的な告白でもされたのだろうかと、ひとり恥ずかしくなってしまい、返す言葉がわからなくなってしまった。黙ったまま、ただ私は俯いて、淹れてもらったココアを飲んで、気持ちを落ち着かせることに専念した。
押し黙ったままの私を見てミュラーは、「すみません、変なことを言いました」と漏らす。ついでに、「忘れてください」とも。
「出会ったばかりの隣人にそんなことを言われても不審に思うだけですよね」
自嘲しながら薄笑いを浮かべて、コーヒーを口に運んだ青年を、私はさらに愛しく思った。彼の耳がほんのり赤い。
「いいえ!……私も、ミュラーさんのこと、もっと知りたいです。仲良くなりたいと思ってます。だから、そんなことを言わないで」
身体ごと向き直って宣言すると、また彼はぱちぱちと目をしばたたいて、やがて穏やかに微笑んだ。
◆◆◆
「ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました!」
洗濯物が入ったカゴを抱えながらぺこりと頭を下げると、「とんでもないです」とミュラーさんも軽く頭を下げた。顔を上げるときにお互いの頭がやさしくぶつかったことが、声を出して笑うくらい可笑しかった。
「また困ったらいつでもどうぞ」と言ってくれるミュラーさんの好意にいつでも甘えたくなってしまう夜だった。また何か口実をつくって押しかけてみようかな、と思ってしまうくらいだ。
隣の自分の部屋に帰って洗濯物を干すと、彼の匂いがして少し焦った。よく考えたら、洗剤や柔軟剤まで借りたのだから、当然なのだけど。
今夜の言葉の意味が、彼の方も同じだったらいいなと思う。彼を見ると、きらきらとしたものが目に映る。彼を想うだけで胸が苦しくなってしまう。次に会えるのは、いつだろうか。