あれ以来結局、私はアントン・フェルナーの恋人という立場になってしまったわけだ。
もともと嫌いではなかったぶん、あんなふうに口説かれては落ちない方がおかしいと思ったりもするが、どこか心の中では否定し続けていたのだろうと思うと、あっさり好きになってしまったのが我ながら情けないとも思った。
「あ、おはようございます」
最近は彼が泊まるだとか彼の官舎に泊まるだとかが増えたので、朝共に出勤することが頻繁にあった。そのせいか「ふたりが付き合っているらしい」という噂はたちまち軍務省に広まり、同僚には直接質問をされる始末だ。
「おはようございます」
事務室に入ると珍しく既に出勤している女性がいて、なんだか気まずかった。いつもは私がいちばんに来るから尚更、だ。
「今日もフェルナー准将と出勤ですか?」
思わぬ質問に言葉が詰まる。なんて答えたらもっとも差し障りがないだろう。考えてしまった為、少しの間が空いて私は答えた。
「違いますよ」
「そうですか。それにしても、いいご身分ですわね」
嫌味だろうか。いや、これは嫌味というか、不快に思われているというようなものだ。女性の顔はこわかった。睨むような目、しかも表情が抜け落ちている。
彼のことが好きなんだろうな。すぐに分かる態度だった。でなければ、こんなふうに恨まれる覚えはない。
「言いたいことがあるなら、直接どうぞ?」
我慢できない私の性分が、もろに出てしまった。言ってしまったと後悔するより先、女性の鋭い視線が肌に刺さる。怖くはないが、不快だった。
「あなたみたいな地味な女が、准将とお付き合いをするなんてありえない事だわ!」
「はあ……、何をもってそのようなことを言えるのか。根拠がありませんね」
「私の方がずっと好きでしたのよ! ずっとずっと彼の気を引くために努力したんですもの!」
ヒステリックな声が部屋中に響く。耳が痛いな、と思いながらも納得がいかぬ私は、また言葉を紡ぐ。
「そんなことは問題にしていませんけど。そもそも、そういうあなたの根性が彼には見えていたのでは?」
冷静に反論する度、彼女の顔は険しくなっていった。正論家にはなれないが、一方的な感情に支配されている女性が、女性としてきらいだった。それを振り回されて、いかにも自分の方が正しいといったものを押し付けてこられるのはごめんだ。
「うるさいわね! 自分を磨くためになんの努力もしていないあなたのような人にいちいち指摘される筋合いはないわ!」
だめだな、これは。どうしたものかと目を伏せたとき、コンコン、とノックする音とともに背後のドアが開いて話題の人が顔を出したので、目の前の女性は顔を引き攣らせた。
「やあ、朝から騒がしいな」
「フェルナー准将……」
先に彼の名を呼んだのは彼女だった。私が振り返るより先にフェルナーが肩に腕を回して私にくっつくので、女性はこの世の終わりでも見たかのような顔をする。
「アデーレ、おはよう」
「……おはようございます」
「で、この女は?」
「あなたのことが好きだそうですよ」
「ふうん」
フェルナーは冷めた目で女性を見据えた。ドア越しでも、あの会話は筒抜けだろう。彼女の声量がそれを物語っていた。要するに、フェルナーは聞いていたわけだ。
「俺の女に何か?」
「……フェルナー准将、どうして私ではないのですか?」
「は? えーっと、俺、きみになにかしたっけ?」
「ええ! 一緒に食事にも行きましたし、その日は送ってもらいましたわ。覚えてらっしゃらないの?」
女性の発言に数秒首を傾げて、フェルナーは私に助けを求めるよう視線を送る。
「私は存じ上げませんよ」
「俺も記憶にない」
それを聞いた女性は泣き出した。そして、「薄情な男……!」と恨みのこもりまくった声で吐いた。しかしフェルナーは苦笑いで対応する。
「食事を共にしたとして、そのあとフロイラインを官舎まで送るのは当たり前のことだがね。それを勘違いしてもらっては困るなあ」
「よく、手を出しませんでしたね、准将?」
そんな彼に対しておどけてそう言ってみせると、「好みじゃない女とは寝ない」とフェルナーは即答した。
女性は震え上がった。涙をぼろぼろ床に叩きつけながらフェルナーの目の前まで歩み寄って、大きな瞳で彼を見つめる。
「ひどい人! 見損ないましたわ!」
「勝手にどうぞ。俺も性格の悪い女は受け付けていない。そもそも、ひとの女に文句を言って傷つけようとする根性が気に食わないね。自分を磨いてから出直すんだな」
捨て台詞のようにフェルナーが言うと、女は派手に軍靴の踵を鳴らしながら事務室を出ていった。
「大丈夫だったか?」
おでこをこつん、と合わせて彼は優しい声を出した。先程の声音との違いは明らかで、いつもの彼の声だった。
「はい。怖いというより、理不尽な怒りがこみあげてきましたので」
「はは、さすが。強いな、俺のなまえは」
くちびるを重ねると、ん、と小さく声が漏れた。甘い温度に、先程までの負の感情はどこかへ消え去っていく。
「……全部、聞いてらっしゃいましたよね?」
「そりゃね。ヒステリーをおこした女の声ってのはよく響くんだ」
「助けてくれてありがとうございます」
「気にしなくていいさ」
フェルナーは私の頬を撫でて笑った。