気づかぬふりは今のうち

一等地にあるマンションの一室手前、家族4人が住んでも十分に余裕がある程度には裕福な環境ではあるが今日からそこは私の帰る場所では無くなる。

玄関の置物、サックスを構えたリス。
クリスマスシーズンになればこれにイルミネーションが掛けられていたのはいつまでだったか。
隣人である6つ下の男の子と一緒に飾り付けしたものだったが大人になるにつれて自然とそれは無くなった。

18歳、大学進学を機に自立をしたいと言ったのは私なのだから今更どうする事もできない。
それは当たり前ではあるが何かと寂しいものはあった。

この高級マンションからたった3駅先の大学のすぐ真横にある築14年、家賃月5万のマンションが私には丁度良いのだ。
防音では無いが音楽推薦で進学した分、楽器類は大学でそれなりの部屋を借りられるだろう。最悪カラオケボックスがある。


そういえば、その昔から接点のあった(私が唯一親友と呼べる存在の)少年と会う機会が無くなるのは寂しい。
「さち子さん」と私の事を慕ってくれていた可愛い子だった。
年下と言えど私よりもうんと器用だった彼だが、日頃から側にいた私から見れば不憫な子でもあった。
両親から関心を持たれる事はなく甘え上手というものでもない。人の気を常に伺い、怯える仔ウサギのような子供だった。
私はあの子の理解者でいたつもりではいたがそれは定かではない。
私があの子にしてあげられた事は彼の家庭の中ではザルに流された水のように無駄な物だったのかもしれない。
ただ、あの子が自分の両親よりも私を頼ってくれるという事実にだけは身体の肉を抉られたように深い優越感を覚えていた。

傷だらけのキャリーバッグとステッカーだらけの楽器ケースをいくつか運び出し、汗を拭う。
エントランスから外に出ると春の風が強く髪を揺らした。
大学デビューというのは冗談でもないが、ジャズ奏者は特に周りが身嗜みに煩い。
毛先がくるくると巻かれたデジタルパーマは私には少しだけ大人すぎたのかもしれない。

「さよなら、もう会えない気がするけれど。元気でね。」

タクシードライバーがまだかまだかと此方を睨んでいる。
これが最後の楽器である私のメイン、テナーサックスなのだが、特にこいつはビンテージ品で圧倒的な重低音を響かせる反面、馬の嘶きのような高い声色をも持ち合わせる中々ストイックでトリッキーな奴である。

腕時計と私の顔を交互に見るドライバーに一礼し、私は下ろし立てのエミューのムートンブーツを石畳に引っ掛けながらも急いでタクシーへ向かう。
トランクに4種の楽器と1つのキャリーバッグを積む。向上心とは真逆で自分の音楽人生に対する大きな焦りと共に。

「緋ノ山第一高前駅までお願いします。」

ああ、なんてことだ。今更になって6つも下のあの子の顔が、声が脳裏を走る。
母性とは底無し沼のように恐ろしい。
マンションからタクシーが離れるにつれて少しずつ少しずつ寂しくなる。
泣いてしまわないだろうか、一人でいじめられないだろうか。
3つも駅を離れたらこのマンションのてっぺんでも見えないだろう。

どうか、君も強く生きていてね。

なんて他人事だと言い聞かせてて色褪せた想い出をイヤフォンで閉じる。
次のコンサートの3曲目の楽曲が現実を見ろと言わんばかりに淡々と流れた。

" P・クレストン 協奏曲 "

ああ、このピアニストとはどうも馬が合わないのだが。

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