#11


放課後、自立思考固定砲台――もとい律は、昨日のようにクラスメイトに囲まれて、私には真似できない程の笑顔を浮かべていた。まるで一般的な広さのこの教室をあの周囲3m分に凝縮させたよう。彼女のいる場所と私のいる場所、教室の対角線上で雰囲気がガラリと違っている。教室の前の扉をくぐりながら横目で見たそんな光景の中に目立つ赤色は咲いていなかった。

私は、今のあの子に近づくのが少し怖かった。

昨日までは彼女に何も思わなかったのに。倉橋さんと彼女のすぐ隣で雑談もできていたのに。何が違うというのだろうか。…………自分の心中でとぼけたふりしたってなんの生産性もない。昨日私の思い浮かべていた、どんなに人間らしくなろうとも彼女がプログラムである、という認識が揺らいでいるからなのはわかりきっていた。
自分で意図的にぐちゃぐちゃにした本音を自分で紐解くなんて馬鹿みたいだ。職員室に向かう足で、うだうだとそんな事を考える。

彼女がプログラムだ、という前提が揺らいだわけではない。それでも彼女は自分の意思を持った。“そう”するようにプログラムされていたわけではない。それなのに彼女は、自分の意思を自ら製作者から独立させたのだ。
人間の定義はなんだろう。人間だって、脳からの電気信号で動いている。自分の意思で動いているようで、その実それら全ては動物としての本能に帰結する。
一体彼女と私達で何が違うのだろうか。

「私の方が、“人間”としてはるかに劣っているのかもしれない」

久しぶりにこの軋む廊下でこぼした自嘲的な心の声は、やっぱり誰にも聞かれずに余すことなく消えていって、代わりに私の中に一欠片の平常心を残してくれた。

ガタガタ。この古びた職員室の扉では軽く握った手で叩いても子気味いい高い音は響かなくて、鳴ったはずの鈍い音も木の板がレールの隙間で揺れる音にかき消されてしまう。

「失礼します」

開けた時もやっぱり揺れるこの扉の音に負けないように気持ち程度に大きな声を出してその中を覗く。綺麗なブロンドヘアーを靡かせるようにして彼女が私を振り返った。

「若葉じゃない。あなたはあの子の周りで騒がなくてもいいの?」
「私は、その…………あの、今から宴会にでも行くんですか」

さっきまでの私と彼女の発言がシンクロして何と返事をしたものか……と考えを巡らせる前に、彼女の大きく開いた胸元にマジックペンで奇妙な絵が描かれているのが目に入り顔を顰めた。

「顔を描けば人気者になるって聞いたのよ。それなのにカラスマにも微妙な反応されたわ! しかもこれ、油性だからちっとも消えやしない」

聞けば少し滲んだような跡が目に付くのは、油性ペンを落とそうとこすった跡なのだろうか。訴えるように詰め寄ってくる彼女とはほとんど初絡みなのに、距離感が近くて小さく二、三歩後ずさった。

「…………殺せんせーと発想が同じですね?」
「そうよ、あのタコ! あのタコに言われたのよ!」

昨日、律の人気に嫉妬して顔の皮膚に人の模様を浮かべていた殺せんせーを思い浮かべれば、イリーナ先生はまた憤慨したように声を荒らげ私から離れた。そんなことを真に受ける彼女を純粋で可愛いと思えばいいのか、思考が浅いと思えばいいのか判断は諦める。
ぐるりとそう広くはない職員室を見渡す。殺せんせーも烏間先生も、どうやら不在のようだ。

「あいつらならいないわよ。何か用でもあったの?」
「いえ……大した事じゃないのでいないなら帰ります」

隠さずに怪訝な目を向けた彼女を振り切って閉めたばかりの扉を開けた。
私を呼んだのは殺せんせーだが、どうせいつものようにお小言を言われるだけだ。無視しようと思っていたのに顔を出してしまったのは、私の勝手な疎外感からだ。教室でいたたまれなくなった私の足が、あの空気から遠ざかろうと違う空間を求めた。放課後なのだから帰ってしまえばよかったのに、賑やかな音の漏れる校舎を離れて一人じめじめとした山道を進む気にもなれなかった。もうすぐ梅雨になる。

職員室から廊下へ顔を出せば教室の喧騒は幾分か落ち着いたようだった。もう帰ろう。そのまま外へと繋がる方に体の向きを変えた。


「若葉さん!」

木造の廊下からコンクリートへ片足を下ろした所で聞き慣れた声に呼び止められた。

「倉橋さん」

「もう帰るんだよね? 一緒に帰ろうよ!」

駆け足気味で私の所にやってきた倉橋さんに一つ頷いて緩めた歩を再開する。急いで私に追いついてくれたのか、その声は僅かに弾んでいた。

「そうだ、カルマ君が探してたけどよかったの?」
「どうして彼が私を探すの?」
「どうしてって……一緒に帰る約束してるんじゃないの?」
「約束、はしてないよ。いつも彼が声をかけてくれるだけ」

彼とは毎日一緒に帰るわけじゃない。彼が見当たらなければ私は一人で帰るし、彼も私の事なんか気にせずに授業をさぼった足で帰宅することは少なくない。今日も彼が見当たらなかったからさっさと山を下ったかと思っていたけれど、どうやらまだどこかに残っていたみたいだ。少し離れた所から校舎全体を視界に入れたところで引かれた後ろ髪を振り切って、倉橋さんと山の下を目指した。


「律のこと、苦手?」

「……苦手なわけじゃないよ。慣れれば大丈夫」

覗き込むように尋ねられたそれに、一瞬思い悩んで当たり障りない返事をした。

「そっかー。じゃあさ、顔は?」
「とても好き。あざとい仕草も完璧だと思う」
「だと思った〜」

絶対に私がはぐらかした事に気がついているはずなのに、倉橋さんは何事もないように会話を続ける。

「私、倉橋さんの顔も好きだよ」
「うっ、それはずるい。私も、若葉さん、の、…………」

「どうかした?」

不自然に固まっていって続きを発さなくなった彼女を不審に思って、先を促すように声をかけた。いつも朗らかな彼女にしては珍しい。何かを躊躇うように私の方を何度も見て、彼女が照れたように両手を口元へ寄せる。

「い、今更なんだけどさ! 芹ちゃん、って……呼んでもいい?」

何か深刻な事でも言われるのかと思えば、随分と可愛らしいお願いだ。身構えて強ばっていた表情筋がするりと緩んで安堵の息と同時に彼女を見る。

「なんだそんなこと。いいよ、好きに呼んで」

「芹、ちゃん! やったぁ、カルマ君より先に呼べた〜!」

私の隣で嬉しそうにして何度も名前を呼ぶ声にどこか懐かしさを覚えた。家族以外に名前で呼ばれるのはいつ以来だろう。彼女の口の中で転がるその響きを心地いいものに感じた。

「ねぇ芹ちゃん、また今度一緒に遊ぼうよ! ショッピングとかどうかな〜。芹ちゃんを全身コーディネートしてみたい」
「楽しそう。そろそろ夏物が必要だもんね」
「芹ちゃんのセンスも楽しみにしてるから!」
「ええ、期待出来ないよ。その手は疎くて最近マネキン買いしかしてないし」
「嘘!? 何でもしれっとこなしそうなのに、そんな弱点が……」

楽しく会話を弾ませながら、湿気で崩れやすくなってきた土砂道を歩く。2年間、勉強に囲われて友達付き合いというものを疎かにしてきた私に、誰かと遊ぶ予定が入るのも本当に久しぶりだった。


彼女と私の分岐点が近づいて、くすぐったい名残惜しさを胸に彼女を見据える。会話の波は丁度途切れていた。

「……また、カルマ君の目を盗んで一緒に帰ろうね!」

それじゃあ、と去ろうとする彼女を引き止めるように口を開く。声が出たのはその一秒後。

「じゃあ、ね。陽菜乃ちゃん」

目が見開く。そして顔の上に花の綻ぶような笑顔を浮かべた。

「芹ちゃん、また明日!」


彼女と別れ、空を見上げて帰路につく。明日は傘がいるかもしれない。

陽菜乃ちゃんといると、私の荒んだ心の内はじわじわと浄化されていく。

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