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目が覚めて一番に認識した色は黒だった。黒い天井。
二、三度瞬きを繰り返し、ゆっくりと上体を起こす。ブラインドの隙間から差し込む朝日が眩しくて、目を細めた。同時に私の下でスプリングが軋んで、自身がモノトーンのパイプベッドに身を預けていることを知った。
ここはどこだろう。私はどうしてここにいるのだろうか。
ふと自身を見下ろせば、やけに上品な白いドレスのようなワンピースを身に纏っている。シンプルだけど、そこはかとなく漂う高級感。私は果たしてこんな服を持っていたか……寝起きのせいか上手く思考が回らなかった。頭が重たくて、昨日のことを思い出そうとすると目の奥がちかちかと弾けた。
ベッドから降りようと体を捻って足を布団から抜くと、靴下も履かない足が現れた。冷えた空気が素足に触れて肩をすくめる。
そろりと足の裏をゆかにつけ、隙間から朝日の筋を伸ばすベッド脇のブラインドを人差し指で引っ掻いた。
──随分と地上から離れた場所だ。
感想はそれだけだった。
「おはよう。よく眠れたかい? “廿楽透果ちゃん”」
驚いて振り向いた。黒い男が一切の気配をさせずに部屋の扉の前に立っていた。その人は窓から離れた部屋の端で黒に囲まれて顔に影を落としている。その中で赤い目が私を見ていた。
「それじゃあ君の疑問に先回りして答えることにしようか。俺の名前は折原臨也。ここは君の部屋だ、用意したのは俺だけど。意識の無い君をここへ連れてきたのは俺で、君が意識を失っていた原因を作ったのも俺。あとは、そうだなぁ……うん、今日は月曜日だよ」
早口でまくし立てられて、その声が耳から耳へ通り抜けてしまいそうになる。思わずたじろいだ。
「……ええっと……私が気を失った原因って、」
沈黙が怖くて口を開くと、その人、折原さんは私の方に近寄ってくる。徐々に彼の顔にも光が指した。
「知りたいかい? 俺は知らない方が幸せだと思うけどね」
眉目秀麗。私の陳腐な語彙力を補うのはこの言葉以外には無かった。彼の赤い目が私を縫い付けるように射止めるのに、私は息をするのも忘れて捕まった。
体感でも5秒くらいだったし、実際も5秒に満たないくらいだったと思う。ゆっくりと落ちた彼の言葉が私の中に沈んで、頭の真ん中で弾け脳全体に染み込んで、そうして彼から視線を下げた。
“知らない方が幸せ”。その言葉ではっきりと踏み込んではいけない線を私と彼の間に引かれた。同時に、この男に近づいては行けないと私の髄が警鐘を鳴らした。
「あ、あの。私、家に帰らないと」
「残念だけど、君は俺の元から逃げられない」
台詞と裏腹に穏やかな笑みを浮かべられて頭が混乱する。強制ショートしそうになる頭が、ひとつの単語を私に零す。
「もしかして“誘拐”、ですか……?」
「ま、そんな感じかな」
心根の読めない笑みを崩さずに、素振りだけで悩む仕草のように首を傾げ、なんてことないと折原さんはそう返してきた。
「そういうわけだから、この部屋は君にあげるよ。好きにくつろぐといい」
更に私に近づいて、私の隣で彼は私を見下ろした。彼の顔の上でブラインドの影が縞模様を描いている。あぁ、なんて綺麗な顔だ。でもこの人に私の心を踏み荒らされたくない。彼に何をされたのかは覚えていないはずだけれど、本能か何かがそう訴えていた。彼から距離を取りたい、と。
彼の放つ気配が私に迫ってくる感覚を覚えて一歩後ろに下がる。膝裏にベッドの端が当たって思わず尻もちをつき、そのままスプリングで弾んだ。
「っ、…………?」
自分の失態で顔に少しの熱を感じたのも束の間、私の視界が影で埋まった。顔を上げると、私の座るベッドに折原さんが片膝で乗り上げてきていた。
「っ!! な、にを……」
折原さんの両手が私の首を掴む。ひんやりとしたのは一瞬で、すぐに顔の上で血が踊った。
「ははっ、わからない? 君の首を絞めてるんだよ」
首を締め付ける彼の手が、彼の綺麗な指が、私の喉元で露骨に暴れて、苦しい以上に気持ち悪かった。
「ねぇ。死にたくないでしょ? でも君には俺とここで暮らす以外の選択肢はない。なら君は今日から、俺の目の前で、俺の言う通りに生きればいい」
頭に白い霞がかかって、視界がぐらつき始める。首を絞めている折原さんと絞められている自分自身の存在が、私の意識から遠くなった。
「俺に君の命をくれるなら、君の望むものを与えてあげるよ」
私の耳元に寄せた口で、嘘のように優しそうにその言葉が紡がれた。その言葉だけが私の頭の中に綺麗に響いた。
彼は私の首を掴む力を緩め、けれど私が彼から目を逸らさないように私の頭を固定した。
「嫌だと、言ったら……?」
彼の目の赤が爛々と揺れた。
「俺の本意じゃないけど、ここで殺しちゃうしかないね」
その目を隠すかのように目を細めて折原さんは、笑った。
──そんなの、どの道この人に殺されるんじゃないか。
諦めにも似た感情が私の胸にすとんと腰を下ろした。
折原さんがようやく私の首から手を離してベッドからも降りていく。軽くなった体重の分だけ、ベッドのクッションが浮き上がった。
「土曜日までの猶予を上げるよ。その日は君の誕生日だろう? ケーキを用意してあげるから、それまでに返事を聞かせてよ」
部屋の中を悠々と歩き回りながら折原さんは私に告げる。土曜日、私の、誕生日。
「服はクローゼットに入ってるから適当に好きなのを着なよ。他に欲しいものがあったら俺か秘書の波江に言ってね。俺としては降りてきてほしいけど……部屋から出たくないのならそこにある携帯で俺に電話すればいい」
言われてベッドサイドのナイトテーブルを見れば薄い長方形の電子機器らしきものが置かれている。あまりに平たくて本体も真っ黒なので今の今まで全く視界に入らなかったようだ。
私がその携帯を認識したのを確認すると、折原さんはまるでスキップするかのように軽快に扉の方へと向かって私を振り返った。
「じゃあ、俺は下にいるから気が向いたら降りてきてよ。お腹が空いたら遠慮せずに言ってね、波江に用意させるから。…………あ、そうだ。明日は2時に新羅の家に行くからそれまでに出かける準備だけしておいて」
そこまで捲し立てると、折原さんは私の返事も聞かずにこの黒い部屋を出ていった。途中から彼の言葉に口を挟むこともやめてしまったけれど、彼は私の心の中を読んでいるみたいな余裕を持て余して私に話しかけていた。あんな人に私の命をあげられるはずがない。でも死にたくないからといって、ここから彼に見つからないように逃げ出すなんて不可能にも近そうなことを実践する度胸も無かった。
完璧な防音が施されているのだろうか、静寂が部屋を満たして無意識に私も息を殺した。闇の中にぽつんと取り零されたような、私の肌や服が放つ白さが、じわじわと黒に侵食されそうで怖くなった。
気を紛らわすように、彼が言って残した携帯電話を手に取った。生憎私は機械の類に強くないので、なんとなく手の触れたボタンを押すと画面が明るくなる。液晶画面には『9:06』と現在の時刻が表示されていた。右下の電話マーク、緑のアイコンに指先で触れると、『折原臨也』という名前だけが浮かぶ画面が現れる。名前の読みに一瞬戸惑ったけれど、ご丁寧に読み方も登録されていたのでこの字で『いざや』と読むのだということを知る。変わった名前だ。
試しにダイヤル画面に切り替えてみたけれど、私の指はそれ以上何も動かなかった。
矢印のマークを押して元の画面に戻ってみたけれど私にわかる押せそうなアイコンは先程の電話のものだけだったので、画面の明かりを落としてベッドに放り投げた。ブラインドが邪魔をして空を拝むことのできない窓に無意味に目をやってから、その流れに任せて自身の身も一緒にベッドに投げ捨て天井を仰いだ。
その日はそのまま一度も部屋から出なかった。
昨日
明日