○ 14:00
しんらさん(?)の家に行く。
鳥の囀りよりも早く目が覚めた。あまりの空腹感に、夜中だって何度も目を覚ましたのだ。
照明もつけずにいると、この黒い部屋は本当に闇のようだった。でも電気をつける気にはなれなくて、壁伝いに部屋の扉へと向かう。素足が床に張り付いて歩く度にひたひたと音が鳴った。
扉の外に出てみると、ひんやりとした廊下が続いていて、その先からはリビングと呼ぶのかわからない程に広い吹き抜けの部屋が見下ろせた。部屋の窓から外を見る限りでここは高層マンションのほとんど最上階だと目をつけていたのだが、その上メゾネットとは、あの“折原さん”は相当のお金を持っているのだろうか。確か秘書がいるとも漏らしていたはずだ。まぁ、そこそこ裕福でもないと監禁するわけでもなく人一人を養うなんて発想を実行するはずがないか。彼は私に特別不自由をさせる気も無さそうだった。
手すりを掴んで階段を降りて、部屋をぐるりと見渡した。生活感の無い部屋だな、と思った。
キッチンの方へ向かって水道の蛇口を捻る。手で掬った水をゆっくりと飲んだ。もちろんお腹の減りは全く満たされなかった。
ぱちり、背後から音が聞こえたかと思うと部屋の明かりがついて、白熱灯が私の視神経を刺激した。目を鳴らすための瞬きを繰り返して音のした方を見れば、黒い服を着た折原さんが私の斜め後ろに笑って立っていた。私が起こしてしまったか、と思ったが、どう見ても寝起きには見えない。まるで私が部屋から出てくるのをずっと待ってたようにも見える。
「おはよう。その様子だとお腹が空いてよく眠れなかったってところかな? そりゃそうだ! だって君、この丸2日間、何も口にしていないんだからね」
「え……2日、間……?」
彼の言葉を疑った。私は昨日だけでなく、一昨日も何も口にしていない…………?
「君が電話をくれれば、いいや、別にくれなくても部屋の前に食事を置いてあげていいんだけど……でもそれじゃあ君、“最期”まで部屋から自分で出ないだろう?」
折原さんは冷蔵庫に向かうとその中から一つ、ラップの巻かれたお皿を手に取って私に見せた。
「ほら、君の好きなフレンチトーストだよ」
私が手を伸ばして受け取る前に彼はくるりと向きを変えて、近くのテーブルにそれを置く。ご丁寧にホイップとベリー、チョコレートソースを添えてくれた。
「折原、さんは、どうしてそんなに私のことを知っているんですか」
目の前に並べられたナイフとフォークに触れながら、おずおずと折原さんの顔を伺うように見た。何を考えているのかわからなかった。この人は本当に私と同じ、人間であるのだろうか。
「それは俺が素敵で無敵な情報屋だからさ、って……言いたいところだけど、俺は君以上に君と一緒にいるから、かな?」
「………………?」
フレンチトーストにナイフを入れると断面から蜂蜜の風味が広がった。口に運んで咀嚼するけれど、フレンチトーストと違って折原さんの言葉の意味は噛み砕けなかった。
「折角だから食べ終わったらそのままお風呂に入っておいでよ」
こんな身の安全も危うい状況でも、彼曰く2日ぶりの食事は私の食思を動かした。人に見られながら食べたそれは、とても美味しかった。
「おいで、髪を乾かしてあげよう」
彼が沸かしてくれていたらしい湯船に浸かって幾分か頭の中がすっきりとした頃には、空に浮かんだ朝日が大きな窓から見える景色をうっすらと白ませていた。シャワーを浴び終えた私が折原さんのいる所へ戻ると、ドライヤーを片手にソファに座る彼と視線が合う。言われるがままに彼の正面の床に腰を下ろすと、予想していたよりも遥かに優しく、彼の指が私の髪に触れた。驚いた私の喉は小さく音を鳴らした。
それは、私はこの人に愛されているんじゃないか、なんて哀れに錯覚してしまいそうになるほど。
♂♀
「あら、久しぶりじゃない」
お昼過ぎ、ソファに座ってぼうっとしていた私に、艶のある長い黒髪が綺麗で切れ長の目をした女の人が話しかけてきた。来客だろうか。
「えっと、こんにちは。あの、お会いしたことありましたか……?」
女の人は曲げた指を口元に添えて視線を左上にずらし、しばらく何かを考えた後、再び視線を私に戻した。
「そうね、あなたとは初対面ね」
そう言ってその人は、今度は折原さんの方へ向き直った。靡く髪に見とれていると、彼女が薄く口角を上げたのが見えた。
「先週は失敗したようだったものね。逃げられたのだったかしら」
「……波江さん、彼女の前で余計なことを言わないでもらえるかい」
「毎週同じじゃつまらないってボヤいていたのはあなたでしょう」
そうか、この人が折原さんの口から何度か聞いた“波江さん”なのか。
からかうように折原さんに言葉をかける波江さんの言う内容も、折原さんの話と同じく私には意味がよくわからない。もしかすると折原さんは、先週も私のように誰かを誘拐してきていたのだろうか。“毎週”と言う口ぶりからして、彼はこんなことを何度も続けていたりするのだろうか。
見たことの無い過去の私のような子達に同情して、来週には代わりが別に用意されてしまうかもしれない私にも同情した。
「透果。下にタクシーをつけたからそろそろ出かけるよ」
私がここからいなくなる時は、やっぱりこの人に殺されてしまった時なのだろうか。逃げ出すほどの気力は私には無いのだから。
「やぁ透果ちゃん。初めまして、であってるかな?」
「確認しなくてもあってるさ」
「は、初めまして」
どうしてこの人はそんなことを確認したのだろう。その疑問を私は口には出さなかった。
タクシーで連れてこられたマンションの一室、昨日折原さんが私に言った“しんらさん”の家らしい。
「俺これから少し仕事で出るから、しばらくここでこの子を預かってやって」
部屋を見渡していた視線を折原さんに向けた。私は何のためにここに連れてこられたのだろう。ただ留守番をするだけなら彼の家でもよかったはずなのに。自分が忙しい間の私の監視を、しんらさんに任せに来たのかもしれない。
「それはいいけど……私はいつも通り接すればいいんだろ?」
「あぁ、頼むよ」
そう言い残して、折原さんは来たばかりのこの部屋を後にしていった。
「臨也のやつから聞いてるかもしれないけど……私は岸谷新羅。よろしくね、透果ちゃん」
「あ……はい、よろしくお願いします」
自分の家だと思って寛いでくれていいよ。そう言ってもらったけれど、私だって初対面の人の家で本当に寛ぐほど無神経ではない。でも、部屋の色も雰囲気も、折原さんの真っ黒で無機質な家より暖かく感じて、少しだけ心が安らいだ。用意してもらった紅茶とお茶菓子も一層私を落ち着かせる。
「透果ちゃん。臨也に携帯渡されてるんでしょ? 家に電話するなら今のうちじゃないかな」
向かいに座った新羅さんが、少しの雑談の後で私にそう話しかけた。
「あ、いえ……あの、家の電話番号がわからなくて」
「……住所も?」
「はい、すみません……」
つくづく自分の記憶力の無さに申し訳なさを覚える。家族や知人に電話することは昨日のうちに考えたけれど、どうしても思い出せなかったのだ。……警察なんて、あてにならないし。
新羅さんの顔つきが少しずつ真剣なものに変わってくる。
「おうちの人とか学校とか、心配してるんじゃない?」
「そんな、私のことを心配する人なんて………………っ、」
家のことを思い出そうとしたら何故か身震いした。家族が、友達が、私のことを心配するはずがない、なんてどうしてそんな風に思ってしまうのだろうか。
「どうかしたのかい?」
「い、いえ。なんでも……」
この漠然とした違和感を新羅さんに言ったからってどうにかなるわけじゃない。初対面の人に、自分でさえよくわからない心配なんてかけるものじゃない。
「…………僕は透果ちゃんの味方だから、何かあったら遠慮せずに連絡してきてね。君の携帯の電話帳に僕の名前を登録しておくよ」
「はい……ありがとう、ございます」
「これでも一応、医者だからね」
新羅さんは優しく微笑んでくれた。それだけで、私は何か許されたような気がした。
ここに預けられて3時間ほどして、折原さんが戻ってきた。
「いい子にしてたかな」
そう言って彼は私の頭を優しく撫でた。幼い子供をあやすようなやり方だけれど、無意識に目を細めて彼を見上げていた。ぼうっと夢を見ているような心地だった。
「今日は、ありがとうございました」
「またおいでよ。今度は僕の彼女も紹介するよ 」
新羅さんに腰を折ってお礼を述べてから、どんどん先に言ってしまう折原さんを慌てて追いかけた。
どこか遠くで馬の啼く声が聞こえた気がした。
「確かイタリアン、好きだよね?」
帰りのタクシーで脈絡も無くそう聞かれたことを、不思議に思えど特に食い下がることはしなかった。
折原さんのマンションに戻って部屋の電気がつけられる。明るくなった照明の下の机には豪勢な料理が並べられていて、そこでやっと彼が尋ねた意図を理解した。
「これ、どうしたんですか」
「波江さんに頼んでおいたんだよ」
折原さんの支度が整うのを待って食卓に座る。
ご丁寧に揃えられたカトラリーに手を添えて自分の目の前の料理に息を呑んだ。
見た目だって、美味しそう、だなんて安直な言葉で済ませられる程度ではなかったけれど、口に運んでみると実際プロ顔負けの味が広がった。そんなに高級なイタリアンを食べたことあるのかと聞かれればなんとも言えないけれど、そのくらい美味しかったのだ。
「はは、透果ちゃん美味しそうに食べるねぇ」
つい浮かれてしまっていたことを指摘されたのが恥ずかしくて慌ててナイフを下ろすと、食器にぶつかってガシャンと音が鳴った。それすらも折原さんには笑われてしまって、私は彼を無言のままに睨みつける。けれど笑うのをやめない彼に呆れて、私も諦めのため息を吐いた。
この人はどういうつもりなのだろう。私を誘拐したのだと肯定したはずなのに、存外私に優しい。ただの罠なのかもしれないけれど、それでもいいと思ってしまう。錯覚だとしても、自分が“愛されている”、と感じることができるのなら。
「そうだ、明日はカラオケに行くんだけど……ついてくるかい?」
「………………行きます」
「おや、断られると思ったのに」
「…………」
──俺に君の命をくれるなら、君の望むものを与えてあげるよ。
どうせ私の命なんて誰も欲しくないんだ。この人に貰ってもらうのも、いいのかもしれない。
昨日
明日