○ 16:00
カラオケに行く。
「それじゃあ……これから一緒に死ぬ仲間に乾杯でもしようか」
狭くて薄暗い個室で、折原さんはソフトドリンクを小さく傾けた。訳がわからず隣を見ても、ただ嚥下する彼の喉元が印象を深めただけだった。
「あの、『奈倉』さん」
「ん? オレンジジュースは気に入らなかったかな」
「いえ、大丈夫です。どうせこの後死ぬんですから。それより、確か今日は3人でしたよね? その隣の子は……」
探るような視線が彼から私に移って私は体を強ばらせた。私の存在はどうやら彼女達にとってイレギュラーであったらしい。
「あぁ、仲間を探してるみたいだったから飛び入りで誘ったんだ。一人増えるくらい変わらないだろう?」
「あ、えっと……『甘楽』、です」
彼の視線に促されて口を開く。女子大生くらいに見える茶髪の彼女達と合流する前に左隣に座る彼から言われたことを思い出していた。折原さんとは初対面、折原さんは奈倉で私は甘楽と名乗ること。この注意事項めいた2つの設定を私は守らなければならない。
どうしてこんな所に連れてこられたのだろう。
“これから一緒に死ぬ仲間”? 意識の外に取りこぼしかけた彼の言葉の一つを手繰り寄せる。それなら私も今からこの人達と死ぬのだろうか。私の命を折原さんに渡す、なんて馬鹿な考え、まだ口に出してもなければ受け入れてもいないのに。あぁ、でも、少なくとも折原さんに死ぬつもりはないんだろう。私の隣のこの人は、最も“死”から縁遠い場所が好きそうだから。
「それで君達3人は、死んだ後のことって何か考えてたりする?」
折原さんが手に持っていたグラスを机の上に、こん、と置いて膝の上で両手を組んだ。アイスコーヒーの中の氷が、からからとその中を泳ぐ。
「ふふ、意外ですね。“死後の世界”とか信じてるんですか?」
「おや。その言い方だと君は信じていないようだね」
目の前に置かれていたオレンジジュースの水面を眺めた。手持ち無沙汰なままそれを手に取ってちびちびと飲み下してみたけれど、それもすぐに飽きてしまって、グラスの水滴が輪を描いていた元の位置へと置き直す。
「あの世なんて偶像崇拝みたいなものでしょう? 死んでみないとわからないものを、死ぬ前から盲信するだなんてナンセンスですもの」
その内に自殺願望を秘めているなんて微塵も感じさせない様子の彼女が上品な微笑みを湛えてそう答えた。折原さんはその答えをどう思ったのか、感情を乗せない笑顔のままでもう一人の彼女にも続けるよう促す。
「う〜ん。私の場合は、あったらいいな、程度ですかね。今の現実を捨ててしまいたい! って思っているだけなので……無かったら無かったですし、あったらラッキー! みたいな」
一人目とは打って変わってあっけらかんと答えた彼女はもう続ける先は無いとでも言うように私を見た。
「私? 私は…………すみません。考えたこと無いです」
何が正解かわからなくて隣を伺い見ると、折原さんの赤い視線は私を静かに貫いていた。彼が私を連れてきた意図を図りかねて、あるかもわからない正解を探るように咄嗟に言葉を吐き出す。
「い、今を生きるので精一杯だったから、死んだ後にどうなるかなんて……。あの世があっても無くても、どっちでもいい。ぱっと泡みたいに消えたとしても、今より悪いわけじゃない」
俯いてしまっていた顔を上げると、6つ全ての目が私に向いていて慌てて頭を降った。
「あ、自分の死体とか、周りの迷惑とかのことは考えました。……けど、でもどうせ、誰なのかわからなくなった私の死体は、見捨てるのに都合がいいか、ら……、?」
私の死体。私の死体が海辺に打ち上げられるのを想像した。腐敗してガスで膨張して海水でふやけてぐちゃぐちゃの身元不明。辛うじて原型を止めただけの人あった塊。一体誰が私を見つけてくれる? どうして、どうして誰もそれが私だと証明してくれない……?
「ほら。ちゃんと息して」
「っ、は、」
背中を軽く叩かれて息の吸い方を思い出した。急に流れ込んできた酸素が苦しい。上手く呼吸ができない。吸った酸素を肺に取り込めない。生理的な涙が滲んで、冷たい空気が喉の内に当たって、痛かった。
「す、みま、せ。ちょ、っと」お手洗いに。口から出た音が言葉になったかわからない。逃げるようにして部屋を出て目に付いたトイレへ駆け込んだ。
近くの壁を滑るようにしゃがみこんで咽ぶように咳をした。背骨と肋骨に囲われた肺が体を押し破るように上下する。迫ってくる黒が視界を狭めてきて何も考えられない。三半規管さえも狂っていくようだった。
♂♀
どれほどそうしていたのだろう。朦朧とした頭では時間の感覚も当てにならない。
ずるずると立ち上がって、嗚咽と共にオレンジジュースを吐き出していた口をすすぐ。ついでにその両手で掬った水で顔も洗った。しばらくそのまま顔を覆っていると、水の冷たさが皮膚から染みて体の芯が冷えていった。
聴覚だけで周りを確認して、人の気配が無いことに安心する。まぁ、あんなに咳き込んでいる先客がいればわざわざ近寄ろうとは思わないか。顔を起こして正面の鏡を見る。真っ青。これが生きた人間の顔色なのか、これではまるで死人そのものじゃないか。
どくどくと余韻を残す心臓だか血液だかが落ち着いたのを見計らってその場を後にした。折原さんに迷惑をかけたに違いないから彼に謝らなければ。いや、そもそもなんの説明も無しに私をここに連れてきたのは彼の方であって……でも、カラオケに行くか、と問われて肯定の意を示したのは私だった。
廊下に流れるBGMと、それぞれの個室から漏れる誰かの歌声、時折響くタンバリンの音なんかを通り過ぎながら目の高さで掲げられた部屋番号を辿る。溢れる騒音が、疲れて機能を低下させた頭に響いて耳障りだった。
「遅かったね。もう全部終わっちゃった」
間接照明の中で折原さんはにこやかに私を出迎えた。私が途中で抜けたことなんて一欠片も気にしていない様子に安堵の息を吐く。室内に足を踏み入れようとした所で何かが爪先の振りを止めたことに首を傾げた。感じた違和感に目を落とせば床の上にスーツケースが二つ横たわっている。はしたなく跨ぐには少し大きいそれを前に扉を支えたままで立ち止まって部屋の中を見るけれど、そこに浮かんでいる顔は折原さんのものだけだ。亡霊みたい。
「折原さん? あの二人はどこに、」
「ここに仲良く寝てるよ」
私が見やすいように仰け反った折原さんの奥を軽く背伸びして覗く。私の座っていたソファの上に一人、奥のソファの下でテーブルの死角になった床に一人。全身の力を抜いたようにだらしなく倒れ込んでいるのは先程まであの世について語っていた二人だ。体勢だけ見ればその内一人は折原さんに詰め寄っているようにも見える。
「え、どうして、さっきまで……」
不意にオレンジジュースの入ったグラスが目に止まった。
「まさか、飲み物に薬を盛ったんじゃ……」
「安心しなよ、ただの睡眠薬さ。もちろん君のには入れてないから」
怯えたように自分の喉に手をやった私を見ながら、彼のグラスに残ったコーヒーが飲み干される。
「どうしてわざわざ、そんなこと。どうせこの後死ぬ予定だったんでしょう?」
「そのはずだったんだけどねぇ。ま、そんな度胸のある人はそうそういないってことだよ」
何が面白いのか折原さんは一人で目を細めて笑っている。彼がどういうつもりかわからないけれど、とにかく私は彼に、今も生かされている。
「まだ5時前か……。今回は期待外れもいいとこだ」
黒い携帯を取り出して時間を確認する折原さんの顔がそのブルーライトで照らされる。彼の顔が青白く見えて、なんだか先程までの血の気の引いた自分の顔を連想させた。
「この後どうする? 思ったより時間余っちゃったね」
「その2人、……どうするんですか」
彼女達の存在がもうそこに無いかのように私に話しかける折原さんに、確かめるようにそう呟く。
「あぁ、運び屋に任せるから心配いらないよ」
「運び屋……?」
「セルティ。昨日言ってた新羅の恋人。新羅もああ言ってたし近い内には会えるだろうね」
セルティさん。名前からして外国の方だろうか。私は決して英語が得意な方ではないから紹介してもらっても上手く交流が図れるか微妙なところだ。折角なのだから新羅さんに申し訳なくなる状況は避けたい。
「嫌な気分にさせたお詫びに今からケーキバイキングにでも連れてってあげよう」
「今から、ですか? もう夕方ですし、別に気を使っていただかなくても」
「いいからいいから」
その長い足でスーツケースを跨いで近づいてきた折原さんが、私に覆いかぶさるような姿勢で扉を支え直した。私の荷物は彼から支給されていた携帯一つなので一歩引いてくるりと向きを変え、彼とその部屋を去る。会計を通り過ぎた所で声をかければ、曰く、その運び屋さんに払った報酬の中にあの部屋の支払い分も含まれているから問題は無いらしい。
部屋に取り残された彼女達に同情した。真意はわからないけれど、あの姿がこの人の興味から逃れた代償なのだろう。だとしたら、私は、ああなりたくない。
低くなった赤い太陽の日を浴びながら楽しそうにケーキの種類を羅列する彼を見て、もしかすると折原さんが食べたいだけなのかもしれないと思ったら可笑しくなって小さく笑ってしまった。
平日の夕方ともなれば店内はいくらか閑散としている。
いかにも女子高生に人気そうなピンクがかった内装に、小さくて可愛いケーキの並ぶケーキスタンド。その店内に全身真っ黒の折原さんがいるのは、ただでさえ変な気分になるのに。
「折原さんって、甘いもの好きなんですか?」
「おや、俺に興味でも出てきたかい?」
「いえ、いいです。忘れてください」
夕食の代わりにするから好きなだけ食べればいいと言われても、せいぜい一度にお皿に取るのは5つが限度だろうと考えてケーキの陳列棚を回った。けれど席に戻ってみれば、彼の前にはバリエーション豊かなケーキの並んだプレートが何枚も並べられていた。生クリームにチョコレートにキャラメル、ラズベリー、チーズ、抹茶。会話で気を紛らわさなければ既に視覚で胸焼けしそうだ。いくらケーキがスティックサイズだとはいえ、そんなに一気に取ってくるものじゃない。
「あはは、つれないなぁ。甘いもの、好きだよ。俺は作った人の顔が見える食べ物が好きだから、甘いものが特別、って程じゃあないけどね」
「作った人の顔……」
「要は既製品やファーストフードじゃない手料理ってこと」
彼の右手がケーキフォークの柄を掴んで先端をくるくる振り回す。対する左手は携帯を持ち上げて、時折その親指が忙しなく動く画面に視線を遣っている。テーブルマナー的に見れば決して良く見られる動作じゃない。
「折原さんって潔癖っぽいかと思ってたんですが違うんですね」
「潔癖ならあんな風に自殺オフなんて主催しないよ」
「それもそうですね」
思い浮かべた彼のマンションの冷たい内装はそういう所以ではないようで。イメージを掻き消すのと同時に、お皿の上の木苺のミルフィーユにケーキフォークを突き立てた。
「人の手料理ってその人の性格が見えるだろう? そうだ。ねぇ、明日は透果が作ってよ。波江が一日休みなんだ」
口の中のパイ生地を咀嚼し終えて水を飲む。携帯を脇に置いた彼はお皿の上に残ったショートケーキの苺を器用に転がしていた。
「折原さん、料理できるのでは?」
「言っただろう。俺は人の手料理が好きなんだ」
「はぁ。簡単なものでいいのなら」
あまりの勿体ぶりように彼は苺が嫌いなのかとも思ったが、私の返事に満足したようにあっさりそれを口に含んだ。案外彼は子供っぽいみたいだからオムライスなんかで充分なのかもしれない。折原さんが空になったお皿を片手に立ち上がるのを見て、私でも作れる卵料理を思い浮かべた。別に卵じゃなくてもいいのだけれど。また色とりどりのケーキを乗せて戻ってきた彼に「化学調味料って気にします?」問えば「別に気にしないかな。一般家庭で入れられる量ってたかが知れてるし」と返された。
とっくにお腹がいっぱいで口の中の甘味を水で落ち着かせる私を余所に、全種制覇する勢いで色んなケーキを食べた彼は、華奢なように見えてちゃんと成人男性の胃袋を持っているらしい。涼しい風の吹く夜の空の下で彼の隣を歩く。気をつけないと真っ黒なコートが夜の闇に溶けて見失ってしまいそうだ、なんて。
「あ、今日、すみません。途中で抜けちゃって……」
「いいさ。君の死生観が聞けただけで満足だから」
「その“あの世”についても上手く答えられませんでしたし」
本当に気に触っていない様子の彼に私の罪悪感が和らぐ。連れが過呼吸に陥ったのを全く気にしていないというのもどうかと思ったけれど、彼にとって私はそれ程の存在ではない。
「 」
前を向いたまま何か口を開いた彼の言葉は、周囲の雑踏に上書きされて上手く聞き取れなかった。
「え?」
「今日は疲れただろう。タクシーでも呼ぼうか」
「あ、はい……」
人けのない方へ逸れて近くの建物の地下駐車場に降りる。コートのポケットから黒い携帯を取り出して耳に当てたかと思えば建物の名前を告げてすぐに耳から離した。訪れた束の間の静寂。彼の横の柱に凭れて、冷たいコンクリートに引かれた白線を目で辿る。
地上へと続く駐車場の入口。その前にそびえるビルの窓の一つに三日月が映り込んでいる。真っ黒な空が浮かべる湾曲。嫌な笑い方が折原さんみたいだと思った。
遠くに聞こえる人の喧騒が、まるで水の中にいるみたいに心地いい。
――「そりゃそうだ。君はもう、あの世にいるんだから」
思い耽って瞼を下げる私を、その瞼の裏に残した月と同じ笑みで見下げる赤い目には気づかずに。
昨日