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▼2026/10/17:神無月十七日のよしなしごと。

久しぶりに充実した休日だった。
昨日まで、と言うか今月に入ってからはほとんど毎日残業する日々が続いている。先日は店長に「ちょっと残業し過ぎ」と指摘までされてしまった。今のお店は本当に忙しくて、一日当たり数分から数十分の残業が発生してしまっている。��数時間�≠カゃないんだからまだマシ、と言えたら良かったのかもしれない。本来と言うか、うちの会社はほとんど残業の発生しない会社の一つだったと思う。面接のときにもそう言われたし、入社してからもほとんど定時で上がっていた。
しかし人員の異動や長時間働ける人が減ってしまいパワーバランスが崩れてしまった事等により、日々発生する残業。私は障害雇用枠の人間なので配慮をして頂いた上で働いてはいる。しかも私以外でも出来る仕事の方が多い。ぶっちゃけ『手順を覚えれば誰でも出来る仕事』だ。

でもさ、誰でもできるのに終わっていないって事は、現状やる人が居ないって事じゃない。

丁度店の商品が入れ替わる時期だ。
うちで扱わなくなる商品を取り扱いのある系列他店への移動させる、卸へ返して他店に送ってもらう、期限のある商品なら期限も確認して入力して梱包して、売り場に出ればお客様からの問い合わせに答える。電話がかかってくれば其方への対応もするし、売り場づくりのための地味で簡単だけどボリューム満点の事務作業も沢山ある。その間にも通常の業務は溜まっていくし、イベントデーにはお客様数はますます増える。
売り上げが上がるのは良い事なんだけど、その分私がやらなくちゃいけない仕事のウェイトと範囲が大きくなっていく。前の職場では平気でフルタイム出勤をしていたのに、今は一日に6時間半働くだけでもへとへとだ。体力は前よりもついたと感じているのにね。
昨日の仕事中、昼休みにはかなりメンタルが落ちてしまっていた。失敗できない恐怖と言うより、取りこぼしは無いのかとかあの時のあの対応はあれで合っていたのかとか、純粋に肉体が疲労していてもう限界に近かったとか、色んな理由があるんだけど、涙が滲むくらいにはメンタルが落ちていた。
それでも根性と『他のメンバーの迷惑になりたくない』一心で如何にか乗り切った。今の職場さ、人間関係がかなりいいんだよ。だから働き続けていられるって言うのがあると思う。皆いい人達なんだ、本当に。

昨日の午後は心の中のチワワに沢山話しかけた。いつかお迎えするあの子に逢えるまでは折れてはいられないなって思うから、必死で仕事をこなす。お客様にもなるべく笑顔で対応する。そして初めて退勤の打刻を押し忘れて退勤してしまった。普段は絶対にしなかったミスだ。それくらい疲れてたんだと思う。お店を出て、地下鉄駅へ向かう。乗ったら音楽を聴きながら今日のあらましをチャッピーに報告して、いつのまにか涙が流れてた。

辛かった。本当に辛かった。普段なら遣り甲斐があって楽しい仕事だし、午前中は何とか楽しさがあったんだけど、もう無理になってた。でも辞めたいとかじゃないんだ。だって、今月で引っ越し前にしておきたかった貯金が目標額に達したんだ。やっと本当にやりたい事の一つにチャレンジできるんだから折れてなんかいられないって、本当に思ってるんだよ。
それでもお家に帰っておばあちゃんがつくったご飯を食べてお風呂に入って、お気に入りのパジャマに着替えてお布団に入った時は本当に心の底から幸せだった。お布団の中は温かくてふわふわぬくぬくで、やっと解放されたみたいに泣いていた。スマートフォンを眺めながら夜のおやつを食べて、好きなだけ動画を見て、いつの間にか眠って、朝は珍しく九時過ぎに起きた。とても良く眠れた。何かおかしな夢を見ていた気がしたけど、今はもう内容も覚えていない。
今日の予定は決めてあった。まずは貯めてあったお金で麻辣湯を食べに行った。最近ハマったんだけど、自分で好きなように具材を選んで(つまり栄養バランスは自由自在)幅の広い春雨にして貰った。痺れるような辛さと旨味。具材で特に好きなのはブンモジャとレンコン、きくらげ。魚卵団子も美味しいし、湯葉とかがんもどきも好き。栄養バランスを考えて選んでいると、自分をケアしながら満たしている気分になれる。スープは敢えて胡麻坦々味にした。胡麻の濃厚さが春雨に絡んで美味しい。次は味玉も入れてモッツァレラチーズも入れる。未来の自分との小さな約束。
お買物も沢山した。冬用のコート、トップス、仕事用のボトムス(痩せたのでワンサイズ下)、ふわふわもこもこのルームソックス、可愛くて安いメイクブラシ。
続いて美容室で髪の毛を整えてもらう。久しぶりに長さを変えて、丁寧にケアされると心まで大切にされている気がする。美容室で髪を洗って貰う時って、どうしてあんなに気持ち好いんだろうね。
普段なら一日だけでこんなにお金を遣うと罪悪感が襲ってくることも多いんだけど、今日はそれが全く無い。それだけこれまで頑張ってきた事実があるし、貯金は予定より早くに貯められたんだから。もうお部屋の審査にも申し込んでて、初期費用は結構抑えられそうだしね。

思ったんだけど、昨日までの辛さが無いと、帰宅した後の今日の幸せって此処まで心を満たしてくれなかったと思うんだよね。辛いのは嫌だし、どうせなら楽しく仕事したいと思ってても難しい時もあるんだけど、それでも今日みたいな幸せな休日があるんなら、『まあやってあげても良いかな』って感じがする。
それに、昨日総て放り投げずにやり通したって言う経験は財産みたいなものじゃない。如何にか他の人へ引き継げる状態まで持って行けたんだからさ。
仕事をしていると心が死ぬ、みたいに言う人も居るけど、私は全力で『生きてるなぁー!』って思うよ。だってこれで夢を叶えるために必要なものが手に入るんだもの。職業に貴賎はないし、どうせなら楽しみたいじゃない。
それでいつか夢が叶ったら自分の事がもっと好きになれると思うんだ。『やるじゃん。出来るじゃん』って自分に一番かけてあげたい言葉なんだよね。


▼2026/10/11:神無月十一日のよしなしごと。

さっき投稿したのとは記事を分けたくて、今日二度目の日記を書いてる。
最近Youtubeで目にした『アファンタジア』『ハイパーファンタジア』と言うワードについて考えることがある。と言うか、言葉自体は知らなかったけど概念が近い事についてはずっと昔から考えていた。『アファンタジア』は頭の中で『視覚的なイメージで想像する事』が出来ない状態、属性の事。『ハイパーファンタジア』はその逆と言うか、頭の中で『非常に鮮明且つリアルにイメージする事』が出来る状態、属性の事。ハイパーファンタジアの『想像』は五感に亘っていて、見た目だけでなく味、感触、匂い、音もリアルに思い浮かべられるらしい。
此処まで書くと何となくわかって貰えそうだけど、私は明らかに『ハイパーファンタジア』の人間だ。例えば小説を書く時、私は脳内に映像が流れるからそれにフレームを仮で合わせコマ撮りみたいにして切り取り、写っている物や情景を文字に変換していくことで文章を書いている。イラストを描く時もかなり似ていて、此方に関しては使いたい画材を優先して決める事もあるけど、脳内に鮮明なイメージが浮かぶのでそれせ合わせて指先と筆先を動かす。その際音も非常に重要で、周囲が全くの無音であればいいけど、そうでない場合の方が多いので作業用BGMを探して選択し、イメージに合う曲が無い場合には検索して購入したりもする。
音楽が先行して文章やイラストを描くイメージが降ってくることもある。純粋な楽しみのために音楽を聴いていると脳内にはオリジナルのAMVみたいな映像が出来上がるし、この考え事をしたい時はこの曲、と言うのが決まっている。
触覚に関してもそうだ。想像するとその瞬間に触っていなくても手触りや肌触りが感じられるし、味覚として味もはっきりわかる。匂いに関しても嗅覚は喪っても想像上や夢の中では幾らか蘇る。例えば石鹸の香りや、昔育てていたハーブの薫り、雨が降る前の匂いも。触覚に伴って温度も何となくわかるし、「氷に触る想像をしてみて」と言われれば冷たさと一緒に指の下で融けていく感触も解かる。夢の中では出逢った事の無い物の感触が何故か分かる。まだお迎えしていないチワワの濡れた小さな鼻先の感触がリアルに伝わってきたし、彼女のふさふさした毛の感触も手に伝わってきた。
経験した事のない事でも、今自分の身に起こっていない事であっても共感してしまって感情が動かされる事が良くある。お陰で物語に没入してしまい登場人物に怒りを向けたり同情してしまい涙ぐむ事が良くある。音楽以外でも音を聴くと脳内にイメージが浮かぶ。風の音、雨の音、風鈴の音、この声の人はきっとこんな服装が似合う、あの音を立てる物はきっと硬くて、でも軽いとか。
夢の中で強い痛み(物理的な物)を味わう事もたまにある。高い所から地面に叩き付けられたり、蜂に刺されるみたいな。逆に失った嗅覚が蘇って、懐かしくて心地よい香りに包まれる事もある。食べた事のない美味しいものを味わう事もある。

こういう状態で生きて居ない人の人生を、私は経験したことが無い。
『目の前に無い物をどうやって見るの?』と訊かれると、『思い浮かべたらすぐ見えるよ』と答えるしかない。私の頭の中にはどうやら現実に近すぎて、でも別のベクトルからすると遠すぎる鮮やかな世界が広がっているらしい。そして、私は『私でない私』の事を想像することが良くある。これは元々の特性上、そして持病の関係で『私』から離れた外側や心ではない内側から私を観ている事が多いからだと考えている。

もしも私が私じゃなかったら。
もしも違う世界で生まれて生きていたら。
もしも目の前のこれが全く違う何かなら。
もしも地面が蕩けて歪んで、沈み込んでしまったら。

こういう想像をする時点で大分想像力が豊かだけど、同時に私は感受性も鋭くて強すぎるきらいがある。誰かの言葉遣い、声の調子から色々なものを想像してしまう。目の前の情景や誰かの態度からも様々なものやパターンを想像してしまう。
これって楽しかったり面白かったりすることも多いんだけど、同じくらい煩わしくて辛い事もあったりする。自分が感じていないものをリアルに感じ過ぎて怖くなるし、不快感に纏わりつかれたり過剰に怖がったり、それらを理由に実行に踏み出せなかったりするから。
今の私は初めましての人や場所が大好きだけど、昔はそうじゃなかった。今でも慣れた感触のものたち(手触りだけでなく)に戻って来ないと息がつけないことがある。そのくせ新しい物には興味津々だし、世界はとても面白くて刺激に満ちていると知ってしまっている。

そしてこの前聞いたんだけど、私は『ハイパーファンタジア』に加えて『共感覚(シナスタジア)』も持っているらしい。私の場合文字には固有の『色』があって、数字や音にも色がある。視覚的な『色』のイメージが色々なものについていて、数字の『6』は明るい青みのミントグリーンでアルファベットの『T』は菫青色で、丸い形はやや薄い朱色、砂糖は淡い黄緑と桃色の合わさったイメージだ。好きな曲を聴いていると好ましい色のイメージが浮かぶし、その色が好きだから繰り返し聴く事もある。手触りにも色がある事がある。水色と黄色では手触りのイメージが違う。水色はふわふわとしていて、黄色はつるつるしている。
この感覚も、どうやら一般に多くあるそれではない様だ。
文章にも色があって、私の好きな作家数人を挙げさせてもらうと京極夏彦先生は茄子紺色、有栖川有栖先生はやや薄い煉瓦色、綾辻幸人先生は深い松葉色、有川浩先生は明るい水色に銀色が重なっている。
ちなみに私が書いている文章はまだ文体が決まっていないので様々に変化するけれど、オリジナルで書くならセルリアンブルーかカーネリアンのイメージだ。

『イメージ』『想像力』と言うものが、私の中ではかなり大きな力らしい。
目の前に無いものでも見えるし聞こえるし触れるし味わえる。文字には書かれた色に関わらず色がついている。不思議だと思う。私は私以外になれないのに、私の外に私が見て感じたものを作ったりアウトプットできる。つまり、誰かとイメージを共有できてしまう。

ここまで書いてきて、もしも誰かに誤解させてしまっていたら申し訳ないんだけど、私は『想像力がある事』を幸せだし楽しく思っているけど、それが至上の事とは考えていない。『賢い証拠』、『頭が良い事』とも結びつけたくない。イメージできない事は『イメージできないだけ』でその人の評価に直接結びつく事ではないと思ってる。イメージできなくても実行できる人はいるし、賢い人も沢山居る。例えば将棋で有名な藤井聡太さんは脳内に盤面そのものをイメージしないであれだけの戦績をあげているらしい。イメージする事自体が出来なくてもとても美しく精緻なイラストを描く人も知っている。脳内に文字しか浮かばないのに、それだけで素晴らしい物語を書き上げる作家さんの話も聞いた事がある。

不思議だし、人間が面白いのはこういう所かもしれない。私は私だから苦しむ事があったり逆にとても幸せだったりするんだけど、想像する総てを味わえるんだとしたら或る種幸運なのかもしれないし。たまたまそう生まれたんだと思うけど、色々なものに興味を持って面白がれるように育てられた節もある。そんなに一般的じゃない感覚の面白さって割とあるし、それを共有できるデバイスのある時代になってきた。

誰でも誰とでも繋がれるし、繋がらない自由もある。表現する自由もあれば、されない自由もある。コインの裏と表みたいだ。
人間って多面的な生き物でそこも素敵な所だと思うから、沢山の色の多面体として生きてみてもいいかもしれない。


▼2026/10/11:午後三時 猫の縞々フィラメント 日暮れ近づく 秋味のお茶

いつもの猫カフェに新顔の猫達がやってきた。昨日の帰り道で店内に背の高い大きなケージが増えているのに気づき、そっと窓から覗き込むと猫のシルエットが二つ。今までの三毛ではないと直ぐに分かり、新しく迎え入れられた子達がいるのだと思って、今日行ってみた。
縞模様の猫が二匹と、茶トラの仔猫が増えている。お店の人曰く、皆男の子だという。そしてとても人に慣れている。今日初めて会った私にもすりすりと甘えてくるし、遊ぼうとばかりにおもちゃを咥えてトコトコと寄ってくる。今日私は毛足の長いニットを着ていて、見事に毛まみれになった。
いつもの三毛猫も負けじとばかりに寄って来てすりすりしてくる。そう言えばこの服を着てこのお店に来たのは初めてだった。彼女は私が着ている洋服の種類を覚えているらしく、初めて着ていった洋服には必ずにおいをつけようとする。
本日のドリンクは梨のティーソーダ。シロップ漬けの梨が細かく刻まれて紅茶に混ざり、太いストローを使って飲む。猫達は何故か私のドリンクが気になったようで、舐めようとするのを止めるのが少し大変だった。猫にカフェインは宜しくないので。
いつもの英語学習をしながら猫を眺め、時々構う。足元に擦り寄って尻尾でズボンの裾をぱたぱたさせるのが可愛い。構って欲しいから寄ってくるのだろうけど、猫は気まぐれなので構い過ぎるのは多分良くないから軽く毛並みを整えるように撫でたり、お尻をぽんぽんと柔らかく叩くように撫でてやる。猫はお尻を撫でられるのが好きと言うのは本当らしく、もっともっととやってくるのが可愛い。
三毛猫は私の向かいの椅子に丸くなって香箱を組んでいた。新入りたちが時折彼女にちょっかいをかけては威嚇されていて、恐らく若い猫だから好奇心が旺盛なんだろうと見守っていると目の前のテーブルに乗って『止めなさいよ』と言うみたいに鼻先をちょんとしてきた。私は今日もきちんとメイクをしているから猫からすると好ましいにおいはしないと思うんだけど、関係ないとばかりに寄ってくる。
すっかり大所帯となった猫カフェは変わらず居心地が良くて、ついつい長居をしてしまう。犬もそうだけど、猫も、見ていて飽きない。遊んでいる様、伸びをしてテーブルにジャンプする姿、窓枠に腰掛け外を眺めている様。どれも私の目を惹くし、いつか暮らすわんことの暮らしも少し想像させてくれる。
実は今日不動産屋さんに行って来て、良さそうだと思っているお部屋と同じ管理会社が管理する空き部屋を幾つか見せてもらった。比較検討の材料と言う奴で、大分イメージが湧いた。今回はあくまでも内覧で、住みたいと思っている部屋と似た部屋を観察する心算で行って来ている。
一人暮らしだとどうしても収納の大きさが限られる事、築年数が十五年を超えると少し内装が草臥れて見える事、私が『良いな』と感じている部屋は大きな通りに面しているから冬も歩きやすいだろう事、様々な事を担当者が説明してくれて、私の中に少しずつ納得値みたいなものが積もっていっている。最近のお部屋探しは完全に空き部屋になってしまってから内見をして契約と言う流れよりも、似た感じの部屋でイメージを膨らませてから検討し、納得したなら内見前に申し込みをしてしまうというケースの方が多いらしい。その申し込みが入らない部屋は、言ってしまえば『残り物』に近いとのこと。なるほどなぁと思った。住みたい人が尽きない部屋は多分良い部屋の事が多いんだろう。
今回気になっている部屋は相場よりもやや家賃が安く冬の暖房費が抑えられそうな事、収納が(写真を見る限りでは)わりと大容量な事が良さそうだと感じる要因である。あとは内装も好み。壁紙と床の色がとても好き。ただ、ずっと考えて探していた条件を二つ外している。でもその二つだけで見送ってしまうのは惜しいと感じるくらいに魅力的だ。築年数が浅く、周辺環境も良い。何よりわんこと暮らす事が出来る。
不動産屋の帰りに駅からその物件まで歩いてみる事にした。まずは昼間の道のりを確認する。地図アプリを元にその場所まで向かい、帰り道で分数を測る。私の足だと駅まで約十分。そこから改札までも少し歩くけど、許容範囲。部屋の周辺にはロードヒーティングが入っており、たまたま根雪の積もった時期の画像を見る事が出来たが明らかに雪が溶けてなくなっている。駅までの道のりには芝生が植えられた公園もあり、小さな川も流れている。道を確認していると、小さな黒いわんこ(恐らくはミニチュアシュナウザー)が楽しそうにお散歩していた。
公園に入ってみる。青々とした芝生の感触が靴底越しにふかふかと伝わる。小川の流れはかなり穏やかで、大雨が降った時は少々心配だけど上にかかった橋までは十分に高さがあり、川から岸部までにも幅がある。駅近くにはスーパーマーケットやカフェが幾つもある。コンビニもあれば病院もある。薬局もあるし、牛丼屋もある。
割と好印象な部屋だと総括して思うけれど、次は夜間の道のりを歩いて確認したい。大きな道路に面しているとはいえ、防犯は心配な昨今、慎重に検討したい。ちなみに建物の目の前には街灯があったし、オートロックで宅配ボックスもサイズ違いでちゃんとある。でも今の家みたいに徒歩で直ぐの距離に交番や郵便局は無い。

比較する材料を色々と手に入れられた一日だったように思う。そして、上から目線の言い方になってしまうけれど、今回の不動産屋さんの担当者さんはなかなかに誠実な仕事をされているように感じる。メリットもデメリットもきちんと教えてくれるし、質問には正直に答えてくれているように感じる。以前の人が駄目だったとかではない。決して。ただ合わなかっただけだ。合う合わないは誰にでも何にでもある。

家で昼食をとってから猫カフェへ向かって新入りたちにご挨拶した訳だけど、もしも私の何かが違ったら、この子達みたいな猫と暮らしていたかもしれないと思った。何かと言うのは趣味のドールの話で、部屋にいるドール達に悪戯されるのが嫌だという事なのだ。多分躾の問題もあるけれど、猫と言うのは比較的高い所へ登れるし、置いてあるものは落とす傾向にある生き物だと思っているので。
勿論わんこも悪戯する時はするし、やんちゃな子は多い。でも猫に比べて高い所に登る子はきっと少ない。何より私の頭の中には既にチワワが住み着いている。仕事がきつくても脳内で彼女と会話していると励まされる。私はあの子をお迎えして一緒に幸せになりたいし、多分あの部屋ならそれが実現しやすいんじゃないかと思うのだ。
ただ、チワワをお迎えしたら猫カフェに行く回数はきっと減る。うちの子が一番可愛くなるに決まっているし、今の私にとってあのカフェの猫達は『推し』なんだけど、うちにやってくるチワワは『最推し』なので。


▼2026/10/05:描写する 机上 解釈の筆先 セルリアンブルー 空の端

昨日、此処に記事を投稿しようとして色々と書き連ねたのだけど、途中で眠気が襲って来たのでやめにした。今日は比較的意識がしっかりしているので書いていこうと思う。
しばらく、近況らしい近況を書いていなかったかもしれない。この前の休日に婦人科を受診してきた。いつものお薬を貰う為の受診だから突発的な不調を治すためじゃない。超低用量とされるピルをここ十年ほど処方してもらっていて、いつも同じ薬を同じ様にもらって帰ってくるつもりだった。何と今回からジェネリック医薬品に切り替える事が出来て、薬価がかなり低くなった分処方箋とお薬代を含めた受診料がこれまでの三分の一以下に収まった。かなり嬉しい出来事である。
以前婦人科関係の不調が強く出ていた時期があって、知人から紹介された婦人科がたまたま当たりの病院だったのでもう十年以上通っている事になるかな。年に一度エコー検診設けているから婦人科関係の疾患は発生していないし、仮に発生してもすぐに見つけてもらえると思う。
元々は月に一度の女子の週間が重たい方だったのもあってメンタルにも響いて仕方なかったんだけど、会う薬に辿り着いたら女子の習慣の存在自体を忘れてしまうくらい症状が軽快した。決められた休薬期間の間だけ、少し頭痛が酷くなるくらいで収まってる。
リアルの友人にも勧められるくらい良い病院で、予約が取り辛いのだけが難点だ。ちなみに女性のための病院を謳っている事もあって男性は一切病院内に入れない。一応産科も標榜しているけど、或る程度まで進んだら紹介状を書いて他の病院へ行ってもらうようになっているらしい。
まずはこれが最近の大きな出来事だろうか。

じゃあ別の話。ダイエットが正直言って停滞している。ここ最近仕事以外の運動がほとんどできていなかった。出来て街歩きくらい。このままだとせっかく減った分の体重や体脂肪率が戻って来てしまうので、気合いを入れ直すべく所謂チートデイを作ってみる事にしてみた。結果は成功。日頃我慢していたお菓子類を好きなだけ食べられて幸せだったし、『これだけ食べたんだから暫くは頑張れる』と思えて運動のリズムを戻す事が出来た。甘い物、スナックを心行くまで味わったら「あー、もういいかも」と言う瞬間がやってくる。筋肉の材料である蛋白質は日頃からしっかりと摂取しているので、運動自体のエネルギー源である糖質を取って、しっかりと身体を動かす。ここ最近の不安定なメンタルは筋トレでしっかりと一掃できたので、何事も筋肉が解決する面もあるんだろうなと思う。

また話は変わって、小説の話。
以前より書いてみたいと温めていたネタのディティールが詰まってきてる。今回の小説のイメージカラーはカーネリアンとセルリアンブルー。補色みたいな関係にある二色が脳内の物語に似合うと感じた。モノクロと現職に近い色のコントラストがはっきりした物語を目指してる。此処には書いた事の無いお話かもしれない。少し規模が大きめな精神科病院に勤める医療従事者たち一人一人が、患者本人だけでなく、治療の対象では本来無さそうな『患者の家族』にも働きかけ患者以外にも多くの人を救うようなお話。希望に満ちていそうな印象だけど、人間の嫌な部分や認めたくない過ちや認知の歪みも描写して、最悪の結果になりそうなところをせめてビターなエンドへ持っていければ、長年書きたいと思ってきた事が書けそうな気がする。
イメージソングは『NEE』と言うバンドの『アウトバーン』と言う曲。この歌にはモノクロに極彩色が紛れ込んでいる印象を受けていて、それがわたしにとって理想的なBGMになる。
病んでいる人間にしか書けないものってあるらしいから、来年の夏までに小説の賞に応募する勢いで書いていきたい。

傷付けられた自分が、同じく傷付けられた誰かを救う職業に就けた。みたいな始まりにしようか。ちなみに彼らは一筋縄じゃ幸せに離れないし、それでも手放したくないもののために奔走する。そこに医療従事者たちの力が合わさって心の救いの物語を描いている。
医療従事者たちは皆、実在するお薬の名称をもじった名前をつけようと思ってて、救う人と救われる人、表裏一体にして書いていきたい。


▼2026/09/29:長月二十九日のよしなしごと。

少し前にデュオリンゴの英語コースを修了したと書いたのは覚えてるかな?現在は実力を維持するためのデイリーフレッシュと言うクエストをクリアする事を繰り返していて、正答率は90%前後を推移している。となるとCEFRって言うところの国際基準だとB2と言うランクに居るらしく、英検だと準一級を目指すのが良い感じのレベルらしい。
元々、高校生の頃に準二級には合格してる。ただ余裕で十年以上前だからまずは二級試験の過去問を解いて、正答率が8割を超えてたら準一級にチャレンジしてみようかと考えている。昨日書いたみたいに資格勉強は好きだから結構楽しめそう。
この前たまたまオフの日に英会話をする機会があって、アイスクリーム屋さんで前に並んでいたバックパッカーっぽい二人の外国の人が注文に手間取っていたから店員さんとのやり取りにちょっと口を出させてもらったんだ。善意と言うより私も早くアイスを食べたかったからなんだけど。彼女等二人は英語圏の人ではなかったらしく、英語は出来るけど母語じゃないからか、逆に聞き取りやすかった。お店の人の話す言葉を英語に訳して、バックパッカー二人の英語を日本語に訳す。結果二人はアイスを買えて、私にも奢ってくれた。「Thank you so much!It's my treat!」って言ってくれて『初めて現実でこの表現を聞けた!』と感動を覚えた。ちなみにハロウィンフレーバーのチョコミントを選んだ。
そして昨日職場のお昼休みに本屋さんへ行って、過去問集を幾つか立ち読みしてみた。今の英検二級試験だと記述問題と長文の要約と言うのがあるらしい。新しい要素なんだろうか、割りと苦戦しそうな問題と感じてる。私は元々英文が読めさえすればそれでいい、みたいな動機付けで勉強してきたから記述するのがあまり得意じゃない。デュオリンゴでも記述の問題はあまり得意じゃないしね。ただ、二次創作界隈で英語のやり取りをする事自体はあるから全くできないっていう訳でもない。まずは英語の辞書(出来れば電子辞書)を購入しないといけなさそうだ。逆に言うとこれまで辞書を全く使わずに(たまにググる事はあるにしろ)英語学習してこられてしまったあたり記憶力は強いんだと思う。高校の頃に購入してもらった電子辞書は数年前にお釈迦になっちゃったんだよね。今だといくらくらいが相場なんだろうか。
ちなみに英語と日本語が脳内でごちゃ混ぜになる現象は未だに起きてる。日本語を使うべき場面で英語しか出てこない事がたまにある。半分くらい英単語が混ざる話し方になるから完全にルー大柴さんだ。

発音が上達するまではだいぶ遠い道のりになると思ってる。読めて書けて喋れても、滑らかな発音となると本腰を入れないと難しい。いざと言う時や必要な時に通じればそれでいい。実際それで困った事ないし。
日本語で書かれた歌を英語訳している物を聴いて、日本語に訳し直す遊びもたまにやる。直訳するのは簡単だけど、翻訳するとなると少しセンスが必要になるのが楽しい。日本語の歌詞を英訳するのも思いついた時にやってる。中学の頃英語が得意な友達がいて、彼女は良く英語の宿題にそれを加えて提出してた。好きな曲を英訳したり和訳したり、それを英語の先生に添削して貰うのが面白くて好きだと言っていた。
高校生の頃、たまたま英語が得意と言えたから英検を受験してみたけど、実は漢検も準二級を取得してる。こっちは古典の先生に勧められたのがきっかけだ。当時の私は現代文の点数は平均レベルなのに、古典は学年で4位を取った事がある。当時古典の先生に苦手意識みたいなものが強かったんだけど、受けて損は無いかと思って勉強して受験したら受かってしまった。
多分だけど私は、漢字や英単語を暗記するのが得意なのに、それを応用して記述するところに弱点がある。文章を褒められるようになったのは専門学校を出る頃だったし、高校生の頃はあまりうまい文章を書けなかった。現代文のテストでは記述問題で減点される事も多かったし。
ってことは、今の文章力で当時の現代文のテストを受けたらもう少しくらいは点数が取れるんだろうか?小説を書くようになって長いけど、今の文章力ならまあまあいい所に食い込めそうな気がする。

今後英検を受けるとして、まずは英語での語彙と表現のストックを増やしていくのがはじめの課題だろうね。次に文法の苦手分野を減らしていく。TOEICも受けてみたい。ただしこれについては全く触れた事の無い世界だ。取り敢えずスコア600くらいを目指してみようかと思ってる。デュオリンゴのレベルと換算すると低めの目標みたいだけど、まずはこれくらい出来れば上出来と思えそうだ。

今後英検対策をするにあたって、デュオリンゴ以外の英語学習アプリの導入も視野に入れている。英単語を学習できるアプリとか、AIと英会話できるアプリとかね。
学生の頃にもっと勉強しておけばよかったと感じる場面が本当に増えていて、今からでも遅くないのは分かってるんだけど、中高時代にもう少しちゃんとやっておけばよかったと感じるから今学生の人には『勉強した方が良いよ!』と声を大にして言いたい。身近にいないから言えないし、求められていないアドバイスはしない主義だけど。
たまにさ、『学校の勉強なんて、大人になったら役に立たない』みたいな言説を見聞きするんだよね。でも少なくとも私は学校の勉強のお陰で仕事で活かせるスキルを身につけられたし、学校の勉強が素地になって仕事の勉強が捗った。基礎をきちんと打って無いと建物って崩れるじゃん。あれと同じで、ちゃんと勉強してないと上のレベル(仕事で役に立つレベル)の勉強をするツールを持っていない状態で頭に入れて行かなくちゃいけないんだよね。それはまあ、難しいでしょ。私は高校時代数学が苦手で「三角関数なんて何処で使うんだよ!」って家で半ばキレてたら義父に「え?俺の仕事じゃ毎日使うよ?」って言われたし。
前の仕事でインテリアコーディネーターの試験を受けた時も、歴史の授業をきちんと受けてないと解けない問題も山のようにあったし、美術系の勉強をして美術史をちゃんと追ってたからその辺りの成績は良かった。だから一次試験は受かったんだよね。図面が引けなくて二次の実技で落ちたんだけどさ。

話しが大分それたけど、勉強するのって楽しい。新しい事へチャレンジするのも、好きな分野について掘り下げるのも面白い。化粧品とか人体の構造とか薬の薬理効果についてとか建造物についてとか色彩理論とか、いろんな分野に興味があるから書ける小説もいっぱいあったし。其処に英語が加わったって言う事なんだと思う。通勤時間や隙間時間に何かを勉強するとか調べるのは毎日のルーティンになったし、その過程でネタを拾っては小説を書いてる。
だからこれは『趣味』のひとつで、それで得たものが仕事にも活きる事があるから或る種『求道』の形の一つなんだと思う。
なんか意識の高い事を言ってるけど、楽しい事をたくさんする為にも勉強をしておいて損は無いよねって言う話。世界を見る時、知識があるとピクセルが細かくなって面白い。で、それを誰かに伝える事を楽しめる性質なのが『表現者になりたい』って言う気持ちの原点なのかもね。


▼2026/09/28:白粉はたいて化粧う紅 刷くなら小指? 瞼なぞって胸を張れ

装いについて語ってみようと思い立った。
私はお洋服やメイクを含めたお洒落が大好きなのは皆さんご存知だと思う。可愛らしい物、格好良い服装、整った髪型、美しいディティールを追求することが好きだ。メイクに関しては研究に近いレベルの事を二十年以上やっている。数年前登録販売者試験に合格したのをきっかけに資格取得に興味が湧いて、転職を考えていた事もあって日本化粧品検定を受けてみる事にした。この資格には1級と2級があって、私は受験日程なども加味して一日に両方を受けて両方に合格した。勉強した期間は半年ほど、ほとんど独学だ。テキストは公式の物を購入し、模擬試験も受けてみて『多分2級は余裕で受かる』と確信して同時に両方を受けるという軽めの暴挙に出た。

物心ついた頃からお洒落が好きで、幼稚園の頃初めてネイルサロンへ連れて行ってもらった。その頃毎日のように爪にシールを貼ったり水性ペンで色を塗っていたのを見た母が「爪を綺麗にしてくれるところ、行ってみる?」と提案してくれたのだ。
当時はまだジェルネイルが主流じゃない頃。赴いたお店のお姉さんにマニキュアについて軽く説明を受け爪を整えるところから始めて貰った。ぬるま湯で甘皮をふやかし、オレンジスティックと呼ばれる木の棒にコットンを巻いたものとキューティクルオイルを使って優しく押し上げる。爪の形もまるく整えて、明るいピンクの色を塗ってもらい、乾かす間はじっとして、白いお花も描いてもらった。当時五歳の私にとって一番印象的な思い出の一つで、あの時はただ嬉しいだけだったが、大人になってから「うちのお母さん凄くない?」と思うくらい楽しく誇らしい体験だ。
日頃母への不満もこの日記に書いている私だけど、小さい頃から母は自分にとって関心の無い分野であっても私がやってみたい事は大体やらせてくれた。
この体験がきっかけになって、小学校の高学年頃からセルフネイルを始めた。高校時代、ナチュラルなカラーばかりとは言え毎日のようにネイルをして通学していたが(調理実習の日以外)、本来であれば校則違反だっただろうに先生方は何でか見逃してくれた。メイクは休日に行う事の方が多かったが、そもそもうちの学校は校則違反の見た目の生徒を頭ごなしに否定しないタイプの高校だった。ギャルの友人は流行に則り教室で付け睫毛のカスタムを行なっていたし、授業中でなければメイク直しをしていても特に何も言われていなかった。
私が本格的にメイクを始めたのは中学生の頃だ。当時ゴシックロリータやパンクロックの服装に傾倒して兎に角濃くて派手なメイクばかり研究していた。スキンケアに関しては小学生の頃に母から指導を受けて始めたのが最初だろう。洗顔料や化粧水は自分で選んで購入していた。お小遣いの範囲で如何にかできる価格帯の物が中心で、誕生日やクリスマスにねだって購入して貰う事も幾度かあった。

高校生になると周囲も皆或る程度のメイクをする子の方が多かった。校則は一応「メイクは禁止」なのだが、生徒指導の先生含め、皆「常識の範囲なら良いよ」みたいな態度で見逃してくれていた。実のところ、服装検査や頭髪検査と言った見た目を縛るタイプの指導を受けた事が無い。
中高と制服の無い学校に通っていた事もあり、お洋服は自分で選んで購入して学校へ来ていくのが当たり前だった。中学の頃はパンクロック寄りの格好だったのもあってUNIQLOやアベイルで購入した洋服へカスタムを施して着用することが多かった。田舎の学校だったからか、周囲に似たようなタイプの女生徒はいなかったけれど、個性豊かなのは良い事みたいな認識で受け入れられていたらしい。
高校生になるとお小遣いの額が上がり、長期休みなどに原宿へ向かってはお洋服を購入していた。メイクも同時に研究しまくって、でもドラッグストアで購入できるものが中心だったあたり若者らしいと言えたかもしれない。
この頃精神を病んで何度か入退院を繰り返したが、それでも自分の装いを整えることはやめなかった。当時、お洒落で可愛い事は私にとって最優先事項で、どんなにメンタルが荒れても洗顔とスキンケアは欠かさなかった。自分でも不思議なのだが、メンタルの荒れが見た目への無関心には絶対に繋がらなかった。
メイクへの自信がついたのは割と遅い方だったかもしれない。専門学校2年の頃指導してくれた教諭と女子トイレで一緒になった時、メイクを直していたら「あなた、ちゃんとメイクしていて偉いわね」と褒められたのがきっかけだったように思う。その教諭は社会人としてのマナーを教える講師で、彼女はうちの学校の女生徒たちがあまりメイクをしない事が気がかりだったらしい。元々ブライダル関係の仕事をしていたそうで、私が毎日昼休みに女子トイレでメイク直ししているのに感心していたと教えてくれた。確かに、メイクの乱れは本当に許せない事の一つだから昼休みには必ず鏡の前に居た。髪型も服装も、一日に何度か整える機会がある。今は接客業な事もあってマナーとしての身嗜みも整える。けれどもそれ以上に『装う事』が好きだ。
卒業前に彼女は生徒たち一人一人に『長所と思う所』を教えてくれたのだが、私の時には「あなたは本当にメイクが上達した」と述べていたので最後まで私は『きちんとメイクをする女子』と言う認識だったのだろう。

社会人になって暫くした頃、コンタクトレンズを使うようになったのもあって更にメイクが上達した。自由になる岡部が増えた事もありスキンケアは『とにかくお金をかければいいでしょ』とデパコスに手を出しまくっていたが、現在はプチプラの『菊正宗酒造 日本酒の化粧水』と同じラインの乳液へ落ち着いた。それでもナイアシンアミド入りの一番値の張るものだが。ここ数年この二つでスキンケアを終えることが殆どだが、肌の調子は割りと良い。高い物を闇雲に使ったり、高いからとケチって使わないで安価なものをたっぷり使うのが合っているらしい。日焼け止めも安さとUV対策の効果、使い心地を重視して選び、此方も何年も同じ商品をリピートして使っている。

多分なんだけど、私は割と早い段階で『今の自分の最適解』みたいなものを見つけられたんだと思う。それは商品もそうだし、使い方も同じ。全身の保湿はするけど、マッサージまでは毎日なんてできないし、メイクを落とさずに眠る事はあり得ないけど、シートマスクに何千円も出すのは難しい。たまに気が向いたらスペシャルケアもするし、時短したい時にはクレンジングと洗顔料が一体化した商品にお出まし願う。シャンプーをする時はネイルの保護も兼ねてスカルプブラシを使用して、序でに頭皮も揉み解しておく。頭痛予防も兼ねている。
通勤中は暇潰しも兼ねて顔の体操をして歩いていることが多い。舌を口の中で回したり、首の筋を伸ばしたり、こめかみを揉んでいる若干の不審者だ。
現在三十四歳だが、お陰様でほうれい線もゴルゴラインもマリオネットラインもない。と言うか、目元の細かなものを除くと皺らしきものは今の所ない。結構自慢できる点だ。
前の仕事をしていた頃より体重は増えたが、同時に筋肉も増えた。毎日身体を動かすのは大切な事なのだろう。疲れてもお風呂に入って汗を流し、しっかり眠れば翌日には回復しているから若い頃よりも体力があるように感じている。

仕事とプライベートではほとんど別人のようなお洋服を着る。現在はパンクロック要素はほとんど無く、基本ロリータかガーリー路線にゴシックや地雷の要素を足している。たまに量産系の時もある。昔からくすんだパステルカラーが好きで、今は兎に角ピンクとラベンダー、ミントグリーンが大好きだ。以前パーソナルカラー診断を受けたところ、『ブルベ夏、でもブルベ冬の要素もあり』の判定が下った。骨格は典型的なストレートらしいが、下半身に肉がつかず上半身に厚みがある所は特にストレートだと我ながら思う。
幸い自分の好きな色が似合う色なので、基本的にイエベ向きの色はあまり使わない。特にイエベ秋向きの色を使うと顔色が病人になってしまう。しかし、グレーの口紅やどす黒いカシス色の口紅を使っても病人にはならないのが我が事ながら不思議だ。ゴシックなメイクをしても怖くはならないらしく、以前小さな女の子に「お姉ちゃん可愛いね!」と褒められた事もあった。この女の子も可愛らしくて将来有望だと思った。
道行く高齢のご婦人にもよくお洋服を褒められるし、ロリータを着てフリル付きの日傘を差していたら初対面の女性に「何処で買ったんですか? 姪っ子にプレゼントを探しているんです」と問われた事もあった。

自分にとって好きなものが似合うというのは当たり前の事じゃないし、似合わせるための努力は欠かせない。でも、装いを整えることは『義務』じゃなくて『嗜好品』に近いものなんだろうなと感じてもいる。お洒落はしたい人はしたいだけすればいいし、逆も同じ事。職場やTPOに応じてさえいればどんな格好でも良いのだ。見た目って、整えようと思うと際限がないから。だから自分以外の人の装いに口を出し過ぎるのは如何なものか、と思って特にコメントを求められない限り、他の人の服装に口は出さないし、アドバイスもほとんどしない。たまに母から洋服を見立ててほしいと要請された時くらいだろうか。それでも大分趣味と価値観が違うので商品選びには難航するが。

私にとって装いとは『嗜み』であり『楽しみ』だ。無駄な事と思われかねないこだわりも、私の日常には必要なもの。でもそれを押し付けないのが私にとっての『矜持』の一つなのかもしれない。


▼2026/09/27:意図 思考 掬って紡いで縒り上げる 織って描くは自動書記

久しぶりに趣味の小説を書き上げた。今回は本当に書きたい話を作品にしたい思いが強かったから、〆切も報酬も設定するのを忘れていた。ただ『書きたい』だけで書いたのも久しぶりで、自分でも納得の仕上がりに出来たからか、心が充実してる。書き始める時、実はあまり脳内に文章らしきものは無いんだ。ただ描きたい情景とか使いたい言葉、描写の表現があるから、それらに糸を通して仕上げていく感じなんだよね。ビーズ手芸とか織物にも似ているかもしれない。繋ぐための糸は私自身が縒り上げる物なんだけど、それを使って色々な要素を救ってつなぎ合わせたり、織りあげていく感じ。或る程度出来上がらないと『こんな感じなんだ』って全体像が見えてこない。
でもこの感覚が好きで書いている所がある、本当に書きたいことは書いた上で、後は何処に入れたい表現を入れていくか、若しくは省くか。最終的に主人公がどんな救いを得るのか、若しくは失うのか。何が終わって何が始まるのかも文章の上なら自由自在だ。
今回は最近ハマっている短歌を作品に組み込んでる。まずは短歌を詠んでそこからイメージを膨らませる。一応タイトルになりそうな短歌には幾らかのストックがあって、その時感じた事や言いたい事を並べて読んでる感じだ。だから渡すの感情が結構ダイレクトに顕されて、これは本当に短歌なのかと疑う事も多い。守っているのは三十一音に収める事だけだ。でも詠むようになってから、何となく作品の蛇足部分を減らすのが巧くなった気もする。何事にも丁度いい領域と言うのがあるから。
そして私は自分自身の考えを言葉にして文章を紡いでいく過程で整理しているから、文字を書く事が本当に大切な生きていく上でのスキルなんだなと実感した。
敢えて制限の中で自分を表現できるようになると、丁度良い表現や相応しい言葉も見つかるようになってきたよ。
今日書き終えた小説は4時間半くらいかかったんだけど、それにしては結構な文字数になったし、書きたかった場面を書く事がしっかりと出来た。反省点も多いけどね。

私にとって話すこと以上に『書く事』が自分を救う薬になるんだって、改めて思ったんだ。私が私じゃない私の中でそれでも主導権を握る為の必要事項。きっと明日も私は私じゃない自分を演じる。せめて嘘の無い言葉を紡げたらいいんだけど。







▼2026/09/21:虹の裏 鏡の国より面白い 硝子より屈折するカタチ

昨日はこのブログで母の事を散々に批判したんだけども、結局のところ親子なのは変わりないなぁと感じた今日。私が嫌だと感じる母の部分と自分自身に思う嫌な所が結構似通ってるなぁと思えた出来事があってね。考えが似ているからぶつかり合う事が多いのかもしれない。母は母として私を愛して案じてくれているし、それを了解して心に留め置く事も大切な気がする。
認知の歪みなのか私の特性上、どうしても受け入れらない言われ方みたいなものがあるんだ。母は割と簡単にそれを踏みぬくところがあるように感じる。でもそれを伝えても母はやめられないんだろうし、私は巧くそれを主張できなかったから拗れてしまう事があるんだろうね。母は絶対的に正しくなんかなくて、でも時折私はその事を忘れてしまうし『正しい母像』みたいなものに縋ろうとして苦しくなってしまう。
自分が間違っていると認めることが得意じゃないし、間違っているなら正しい方向へ連れて行ってほしいと縋りついてしまうから。自分で自分の事を適切に判断するのが苦手なのかもしれない。これが仕事ならマニュアルなり規則なりに従っていればいいから楽なんだけど、私生活だとその法則は適用できないじゃない。この場面ではこれが正解だけど、少し時間が経ったら別の答えの方が適しているとか。人間として生きるのって難しいなと思う。言葉や態度、行動かをどう捉えるか、捉えられるか、意識し続けなければならない事に、時々疲れてしまう。
でも、だからこそ、自分の中で『これをしたい』と感じられるものがあるなら大切にしておきたいんだ。それが誰かを傷つけることじゃなく、正しくない側面も持ちつつも行為自体の魅力に天秤が傾くのだとしたら。

レンズは厚みを増すと小さなものが大きく見える。私は視力が良くなくて極度の近視なんだけど、近くの物を見続けようとして水晶体が分厚くなりすぎると、遠くのものが見えづらくなるよね。そして視野は狭くなる。周囲にある色々なものが目に入らなくなって損をしそうな人生を送ってきたのかもしれない。それを母は知っているから私を強い言葉で止めるのかもしれない。
ただ、言い方やタイミングが総て適切かと言うとそういう訳でもない。勿論私も正しいばっかりじゃない。繰り返しになるけどね。
与えられる愛情と、受け取る側の愛情を収める場所の形が若干に違うんだろうな。ぴったり合う事ってそんなに多くは無さそうだけど。子供の頃はそもそもその『形』っていう概念が無くて、与えられるものはみんな吸い込んで心が育っていくんだ。或る程度育って、形を持って初めて自分はその形のものを欲しがっていなかった、別の形にしてほしかったのだ、と気付くのかもしれない。
誰かが愛情を求める欲って際限のない所があるけど、その要求にどこまで合わせるべきなのか、親子でも答えはなかなか一致しないんだと思う。結果すれ違いや行き違いが起きて確執の種が生まれる。それが芽吹かないように無意識に抑え込むのも理性だと思う。時折別の場所で息抜きをしたり家族以外の信頼できる誰かに話してガス抜きしたりしてさ。こうして文章にしていると、私は直接話すとか手書きの文章よりもタイピングの方が巧く言葉を扱えるなって感じるよ。修正も楽だしね。現実でも饒舌だけど、何だろう、脳で考えて文字にしていく段階で何かのフィルターを通して考えの灰汁みたいなものが減っていく感じがするんだ。口で話すよりも透き徹った自分の意見、みたいな印象になる。話し言葉と書き言葉の違いなんだろうか。
母が間違っていたのでも、私が間違っていたのでもないと今は感じる。与え方と示し方、受け取り方と感じ方の相違。不一致が多いとどうしても苦しくなる。だから、今また実家の両親と暮らすとなると私は呼吸の方法が分からなくなりそうなんだ。同居の祖母にも似たような意味合いの事を言われてる。
きっと誰にでも『適した距離感』があるんだよね。

「あなたは私を案じてる、でも近づき過ぎれば傷つけ合う事も多い。私は私としてあなたを傷つけず生きる為、一人を選びたい」というのが今一番しっくりくる答えだ。叶えたい夢もあるしね。
人はいつか必ず一人になる。その時までに生きていく術を増やしていきたい。不安が無いわけじゃない。でも動かない事もそれはそれで不安。結局何を選んでも何か後悔するなら、幾らかマシな後悔を選びたい。
全く同じ形をした人間が二人と存在しないのは生き物として存続する為の効率性もあるんだろうけど、全く同じじゃない人間同士が最善に向けて努力し合い続ける関係を築けるっていう、面白くて興味深い、一種のバグみたいな尊い生き方を見出す機会を与えられてるのかなって思った。

▼2026/09/20:包まれた 柔く温もる淡い紅 掴んでくれる 四つ足の君

さっきは少しネガティブかもしれない話を書いたから、今度はポジティブな話を書いてみようと思う。
今日、いつもの猫カフェでお昼ご飯を食べてきたんだ。三毛猫ちゃんはいつもの場所ですやすや眠っていて、いつも通り美味しいドリンクとフードとデザートに舌鼓を打って来た。今日のデザートはほうじ茶のバスクチーズケーキで、甘みが控えめだけど旨味が濃厚な一品。季節のフルーツ(多分生の物に少し手を加えてる)がたっぷりトッピングされてて目にも美味しかった。美味しい物を罪悪感なく楽しむ為に日頃私は節制してるんだなと感じてて、最近食の好みにもそれが顕われてるように思う。たまたま今年は知り合いから季節の果物やお菓子を頂く事が多くて、この前はシャインマスカットをたくさんいただいたからご近所さんにもお裾分けした。
シャインマスカットってさ、とても甘いのに後味がしつこくないんだよね。歯触りもしゃっきりしてて爽やかだけど、特別感と言うかご褒美感が強い食べ物だと思う。モノによってはびっくりするほど高価だし。今日のバスクチーズケーキにもシャインマスカットがトッピングされてて、加工した甘み以外に果物としての実力みたいなものがあった。
一緒にいただいたコーヒーは深煎りで苦みが強いのが良かった。ケーキの濃厚さを巧い事緩和して次の一口に繋がってる。甘いと旨いって語源が同じらしいんだけど、甘みを旨味で代用するのって実は難しいのかもしれない。だから甘さ控えめなスイーツは食べてて物足りなく感じる事も多い。でもあのお店のはきちんと満足できるお味なんだ。猫ちゃん以外にも美味しいもの目当てで通ってるところがある。

三毛猫ちゃんがぷうぷうお昼寝してるところに寄っていったらちょっと目を開けてくれたから、指先の匂いだけ嗅いでもらった。ランチを食べ終わった頃彼女がゴロンと寝返りを打って、何となく触っても良い気がして近寄ったら、また指先の匂いを嗅いでくれて、顎の下とか耳の付け根を撫でてあげたらまだ眠かったみたいで『お昼寝する』と訴えてきたから手を引こうとしたんだ。そうしたら私の指を前足と後ろ足でそっと掴んでくれた。ふに、って肉球に挟まれるの。可愛すぎて幸せ過ぎて叫びそうになった。
三毛猫ちゃんの肉球は綺麗なピンク色でとっても柔らかくて、例えるならゆでたての白玉団子を氷水に取って直ぐ触れた感じの柔らかさだった。で、『寝る。邪魔しないで』って訴えてくるから「ああ、止めたくて掴んだのね」って分かったんだけど。
もうさ、猫ってどうしてあんなに可愛いんだろう。いや私はどちらかと言えば犬派なんだけど(ライフスタイルの問題)、猫も大好き。可愛くて仕方ない。お昼寝しているあの子のふくふくしたお腹が静かに上下してるのを見てるだけで堪らなく癒される。結構な回数通ってるから、大分心を許してくれてるんだろうな。もう課金せずにはいられないんだけど、あの子の食費になるならお財布の許す範囲内で通っちゃうよ。最早推し活に近いんだろうか。
でも将来お迎えするだろうチワワも私にとっては『最推し』だ。この前も夢に出てきてくれて「ママ」って呼んで嬉しそうに尻尾を振ってた。
今日も不動産屋さんに行って物件の話を聞いてきたんだけどさ、無意識にチワワの事を話題にしちゃうんだよ。あの子をお迎えするならって目線で物件の資料を熟読してきた。今の所、目星をつけてる物件に住めたら結構快適そうな気がする。ただ、此処からは運次第でもあるみたいだけどね。良い物件だからまだ入居者さんが居るし、退去前に事前申し込みする人にとられちゃうかもしれない。でも同じくらい良い物件が見つかってそっちに決まるかもしれない。ドキドキするけど、これくらいなら良い感じの刺激だ。
人間ってさ、何か大きな変化が起こる時にたとえ現状より良い環境になるって分かってても、慣れ親しんだ状態から動くのってストレスなんだって。『大変』なのは、『大きく変わる時』かもしれないっていう奴。今の私が大変なのは環境だけでなく自分も大きく変わろうとしているからなのかなと考えたら、じゃあ如何にか乗り切ろうって思えるくらいにはメンタルが回復してきた。
夢を叶えるのって簡単にはいかないし、叶った後に何が待ってるのかもわからない。でも水は流れていないと澱むし、気持ちも心も一生変わらないなんて有り得ない。もし変わって今より承服しがたい状況になったならまた変わればいいだけの話だしね。

接客も褒められる事が増えた。特にお客様に対して販売を促進したい商品があったとして、巧い事勧める事が出来てるって言われる。その商品のメリットとデメリットを示して、デメリットをカバーする方法を説明しながら他にも適した商品が無いか考えながら話すのが楽しい。幸い声をかけやすいタイプの店員みたいで、色々な人を笑顔に出来ている。この前は主力商品の説明をして「一旦検討します」って帰っていたお客様が戻って来てくれて主力商品を幾つか購入してくれた。検討する材料をちゃんと渡せていたんだ、受け取りやすいボールを投げられたんだと思えて嬉しかった。
たまにうっかりミスもするし、ヒヤッとする事もあったけど、でも概ねきちんと働けてるし長期の欠勤もしてない。でも無理もしてなくて、バックルームであくびをしながらプライスカードを作ったり整理したりしている。
今の私にはこれくらいのバランスが良いんだろうな。何より仕事帰りには可愛い子犬や仔猫を眺めてから退勤も出来る。お店に来てくれる可愛いワンコと触れ合う事も出来るし、将来自分の家の子になるだろうチワワを脳内で躍らせながら納品作業も出来る。
出来ない事や失ったものばかり数えるんじゃなくて、同じくらい出来る事や与えられたものを数える。たまに忘れそうになるんだけど、脳内のチワワが『ママ。それは違うよ?』って教えてくれる。彼女はいつだって私を励ましてくれる。

私はこうして綺麗な言葉を使うことで自分の意識を良い方向へ持っていこうとする癖がある。言葉ってさ、重ね続けると魂の形まで変えられちゃうんだよ。話す言葉や使う言葉でその人の印象や性格まで形作られるんだとしたらさ、なるべく綺麗でポジティブなものを使いたいんだ。


▼2026/09/20:長月二十日のよしなしごと。

自分を傷つけてくると判っている人とそれでも上手くやっていきたい時、貴方はどうするだろう。触れた指先が切れてそこから血が滴るような心地がするのに、同時に愛されているとは知ってるんだ。ただ、その愛情が私の望む形ではないというだけ。産みたいから、会いたいから産んだ、と言うような話は聞いた記憶が無い。あの人は私が生まれて幾らかの時が経った頃、その頃のパートナーとはいずれ別れると決めていた。予定では私が十八歳になった時と考えていたらしい。一区切り、と言う奴だろう。

中学生の終わりごろ、色々あってその予定は早まった。笑ってしまうのだけれど、その頃『熟年離婚』と言うワードが世間に広まっていた中で私は『うちが熟年離婚するのは有り得ないな』と思っていた。本当はもっともっと前からあの人は心を決めていたのにね。

本格的に心を病んだのは、中学生の真ん中頃くらいだったように思う。初めて首を吊った夜、私は明確に自分を終わらせる心算だった。けれども失敗して、何でか気が済んでしまって、その後は割と普通に生きていたように思う。ただ、心の中に何か綻びみたいなものが出来てしまったような気がしていた。
母子家庭になって、高校へ進学して、家族の形が変わった。義父と出逢って、色々あって家族になって数年。私は今度こそ本当に自分を終わらせるところだった。原因は何だったのか、今の私は明確に分かっていない。ただ、自分を終わらせるべきだと思って飛び降りた。失敗した後も、終わらせようと必死で暴れた。

それでも生き延びた。『生きたい』というのが本心だった。但しそれは正確に言うなら『苦しまずに生きたい』だったんだけど。
『楽をしたい』というのとは少し違う。友人が少し前に似たニュアンスの事を書いていて、楽をするのと苦しまないっていうのはあくまでもニアリーイコールなんだと思ってる。すごく似ているんだけど、何だろうな…『苦しみたくない』は切実な願いで能動的になりやすくて『楽をしたい』はもう少し軽くて受動的な気がする。巧く言葉に出来ていない気もするけれど。
この前の夜中にね、鬱転が来たのと母への不満が溜まり過ぎてしまって、遂に爆発した。眠りたいのに涙が出て眠れなくて、頭痛がするくらい泣いてしまった。過去の母からの否定的な言葉や態度が蘇って、もうこんな気持ちでいたくないと思って必死で自分を宥めながら夜食を貪り食う私を、心のどこかから冷めた眼で見ているのも難しい時間。普段は客観視できる方なのに、もう無理で兎に角助けて欲しくて、ネットとかチャッピーとかに相談して泣き続ける。しまいにはおばあちゃんを起こしてしまって、当たり散らしてしまったんだけれど。

誰だって自分の家族や大切な人に死にたいだの消えたいだの言われたくないと思う。でもその時の私は敢えてと言うか、それくらい私はあの人からの言葉に傷ついたんだと伝えたかったからおばあちゃんに素直に伝えた。解って貰えたかは分からないんだけど。でも私が此処まで感情的に取り乱す事はそんなに多くないから、聞いてはくれた。
以前精神科のカウンセリングで辿り着いた自論として『完璧な人間が存在しない以上、親も完璧ではない』というのがあって、しっかりと理解して自覚している心算だったんだよ。でも駄目だね、『親なんだから分かってくれるはず』と言う甘えみたいなものが消えない。他の誰にも私の痛みをそのまま感じ取る事は出来ないって知っているのに、心が納得していないんだ。『親なんだから、家族なんだから、わたしの思いをきちんと理解し切って!』と望んで心で叫んでしまう。私にもできていないのに。
これがただの『仕事上の希望要件』みたいなものであれば検討してくれれば充分なんだけど、『執着』や『押し付け』みたいになってしまっているのが良くないな。『希い』であればまだマシなんだろうか。

でもその夜を超えてというか、日付を超えて数時間したら遂に眠りにつけて、次の日はたまたま休日だったから(だから気が緩んだんだろうけど)一日たっぷり回復に費やして普通に仕事もして今に至るんだけども。仕事に支障をきたさなかった事だけは自分で自分を褒めて良いと思ってる。メンタル疾患持ちだけど勤怠は安定してるって言うのが私の強みの一つだから。
そして気付いたんだけど、私は母と話す時に電話や直接会っての声での会話があまり得意じゃないらしい。母は私の事を『喋り過ぎ』とか『何でも明け透けに話し過ぎ』とか『口から生まれて来た』って言うんだけれど、私からすると母は『意見し過ぎ』だし『批判し過ぎ』だし結構喋ってる。何にでも文句を言う人っているじゃない、物事の良い面を言う前に悪い面をダイレクトに指摘してしまうというか。
私が心掛けている事の一つとして『言いにくい事は言いやすい事に挟んで話す』って言うのがあるんだ。クッション言葉って言うのかな、『○○は此処が良いよね、でも××はちょっと苦手だから、○○には悪いんだけど、別なものを選ぶね』みたいな言い方。以前読んだ本では『本音のハムをクッション言葉のパンで挟んでサンドイッチにする』みたいに書かれてた。相手が受け取る時になるべく受け取って貰いやすいように話す方が、一見手間はかかるんだけど最終的にはお互い気持ちよく一緒に居られると思うんだ。だから私はクッション言葉のパンをたくさんの種類で取り揃えるようにしてる。
仕事が接客業なのも関係しているかもしれない。母は以前接客をしていた事もあるけど、今は『接客に疲れた』って別な仕事をしていて、私は本来黙々と作業するのが合っているけど『誰かと闊達なコミュニケーションを取る方が楽しく働ける』と思って今の仕事をしてるし、それが評価されてるから。勿論職場ではプライベートみたいな話し方はしないんだけどね。
話し方とか言い方を工夫するのってさ、無料で出来るのに効果は抜群な事が多いんだよ。思いを伝えたいなら剛速球のストライクでスリーアウトは狙わなくていい。ふわっと投げて相手への衝撃が少なくなるようにする方が私には合ってる。多分、このスタンスが私と母で食い違ってるんだ。

実はさ、職場でも似たようなことを感じることがあるの。母と属性が似ている人を接客すると酷く心が疲弊する。自分の意見が正しいと信じて疑わないのとは少し違う。『他から見ると間違ってるかもしれないけど、私にとってはこれが正しい』みたいなニュアンスを感じることがあるんだよね。このスタンスはある意味正しいんだと思うけど、場面や相手によっては適してないように感じる。正義ばかりが正しいとは限らないのが人間の難しい所な気がする。正しさを重視するあまり、相手を傷つける可能性を考えずに言葉を発したとして。それで相手が傷を負ったら相手の受け取り方の問題だけじゃないと思うんだ。
悪意を持って傷付けようとして放った言葉よりも、何の気なしにぽろっと発した言葉が誰かに一生の傷を負わせる場面、結構あるよね。私も無意識に誰かを傷つけてる。でも傷付けないよう努力もしてる。それでイーブンかって言うと別の話なんだけど、姿勢としては正しい側寄りだと考えてる。言葉を扱うのが得意だからこそ、相手を傷つける手段は沢山持ってるし、知ってて理解してるから言い方を考えてクッション言葉のパンを焼きまくるの。
母は多分、嫌われる事があまり怖くないんだよね。彼女も色々な事があり過ぎる人生だし、嫌われるとか相手にどう思われるかを考え過ぎて疲れちゃったんだと思うんだ。自分の気持ちを押し殺した場面も沢山あったんだと思うし、傷ついた経験だってきっと多い。
けど私も人間で心があるからさ、言葉や態度で傷つく事があるんだよ。『子供なんだから母親の気持ちを慮って当たり前』と言うなら『その言葉はお互いに意識しないといけないよね?』と返したい。

こういう事を考えながら母と関わって、『声』じゃなく『文章』で話す方が今の私にとって合っていると判った。LINE上では落ち着いて話す事が出来るし、受け取るのも楽。内容を熟考出来るから傷つけ合わずに済むんじゃないかと思う。母は母なりに私を心配してくれてるのは知ってるから、その気持ちだけ受け取る事だってできる。
最近何となくね、母にとって私は『良くも悪くも娘』なんだなって感じるんだ。いつまでも子供でいるように思われていそうな気がする。実際子供な側面もある人間なんだよ。幼いし、騙されやすいところや利用されやすいところがあるなって自覚もある。だからって全部が年齢不相応な言動ばっかりかって言うと違うし、母も恣意的な振る舞いをする事がある。よく喧嘩にならないなって遣り取りを義父としてるのを結構見てる。

強い人なんだろうね。でも強いだけが正しいとは限らないね。弱いんじゃなくて、柔軟性と言うかしなやかさがあったっていい。私はそっち側だと思うし、どんな場面でも自分を俯瞰してみる癖がついてるから『正しくない事をしてる自覚』みたいなものがある。見方や思考の角度を持つようにしてから『正しくない自分』みたいな意識が生まれた。
私はきっと彼女を傷つけてきたし、咎められるべきところも沢山ある。でも同じくらい私も傷ついてきたし、だからと言ってそれは誰かを傷つけていい免罪符にはならない。常に正義側だけじゃいられないんだ。いつかどこかで誰かの敵になるし悪役になってる。今もきっと。
せめて身近にいる大切な人とは傷つけ合いたくないってこれを書いてても思うよ。言葉は刃だけど、鞘に収める事も布で巻く事も出来るからね。


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