▼2026/05/22:甘味と塩味をサクサクいただく、真夜中じゃなかったら珈琲も淹れるんだけど
結局あの後泣きながらクッキーを一箱分食べちゃったよ。お気に入りの奴がお菓子箱に在ったんだ。換算すると二時間くらいかな、ずっと泣きながら音楽を聴いて、クッキーをサクサク食べてた。本当は良くないって分かってる事だけど、真夜中の甘い物って美味しいね。特に小麦粉が入っていたり軽く塩気が効いていると尚更。少し前から仕事で辛い事が続いていて、それでも早退も遅刻も欠勤もせずに働いてたんだ。私は健常者に見え過ぎてしまうタイプの障害者だから、ほかの人から見て心が傷つきやすいなんて誰にも分からないんだと思う。うちの会社的には『自律の出来る精神障害者』が欲しいと思って掛けた求人で応募してきた人間だから、此処まで苦しむ事があるのか想像できなかったかもしれない。事実普通のフリして働いてたしね。
同居しているおばあちゃんは『そんなんで一人暮らしなんかできるの?』と言う。私としては『いずれ絶対に一人になるんだから、出来るんだよ』と答えるしかない。
メンタル面以外は一人暮らしして問題無い生活力があると評価されてる。金銭管理も上手くなってきた。それに、本音を言うなら死にたくはないんだよ。辛い事から逃げたいだけ。嫌な事を味わいたくないだけなんだ。生きている以上、それは難しいんだけどね。
『人は考える葦である』って言うけど、考える力があるから辛い事があるのと同時に素晴らしいものを作り出せるんだから、結局私は人間で良かったと思うんだよ。今こうして文字を綴る事も出来てるし。
前にYoutubeの動画で見たんだけど、人間って言う生き物は弥生時代くらいまでが一番幸せだったらしい。気持ちの面ではね。それ以降は民族間の諍いや同族間の争いで大変だったみたい。そもそもが今の文明は人間の心の作りに鑑みると、不幸を感じるようにしか出来てないんだって。
まあこれはその動画で話していた学者さんの持論だけど、じゃあ私がこんなにも生きにくい事があるのは仕方ない事なんだなって諦めもついた。
じゃあその上でどうやったら幸せになれるのかって、ひとりひとりが考えるのが自然で建設的だと思う。
私の場合それには一人暮らしとチワワとの出会いが必要条件なんだよね。昨日もそう考えた。今此処で全部終わらせたらあの子に会えないままなんだって、それは嫌だって抵抗してた。
元々子供を産みたいと考えた事は無くて、犬と暮らすのもあまり考えた事が無かった。今の仕事が動物の為の物を売る仕事で、生体販売分野のブースにもよく行くからどうしても毎日犬を見る事になって、結果お迎えしたいと思うようになったんだけどさ。
命を預かる責任は感じてる。あの子をお迎えした瞬間から、私の一番はあの子になる。私はその次だ。そうしてでもあの子と暮らしたい。夢の中で『ママ!』と呼びかけてくれたあの子が待ってると思うと、じゃあ頑張るしかないかって立ち直ったわけだ。
心が疲れた時、あばら骨の間がすかすかする時は、カロリーの事は置いておいて甘い物を食べてもいい事にした。今後も辛い事は山ほどあるだろうし、自己対処の一つとして心を守る術にしておく。運動で消費するのは元気になってからで良い。今の所健康を害するほど肥ってるわけじゃないんだし。
それに、昨日の私はクッキー以外にも沢山食べるものを用意してたんだけど、クッキーだけで十分満足して回復できたんだ。全部を諦めた訳じゃなかった。ちゃんと未来のことを考えられてた。じゃあそれで良いんだって、あれでも本当に生きていたかったんだって、認めてあげて良いのかもしれない。
苦しい事から逃げるのも、立ち向かうのも、生きていたいからだ。逃げて自分を守るのか、立ち向かって原因を解決するのか、スタンスの違いはあっても生きる方法の一つには変わりない。それぞれの行動をとった人なりに生きる事を考えた結果だ。だから万人に通じる『正しい生き方』みたいなものは多分無くて、一人一人がその場に応じて考えて生き方を模索する。全部正解を選ぼうとした結果なんだ。敢えて不正解を選ぶ事もあるのかもしれないけどね。
今こうして文字を綴ってみて、昨日の夜とは全く違う考えを持ってるなって思う。昨日の言葉の鋳型に流した思いはすっかり冷めて形が整って、触っても痛くも熱くもない。振り返ってみても『ああ、辛かったけど文字にしたのは正解だった』って思う。昨日あれだけ激しかった思いに形を与えて落ち着かせて、しっかり眠ったらもう元気だよ。今日も明日も明後日も、多分人生は続いていくなぁって実感してる。何だかんだで時間は止められないし。
仕方ないけど生まれてきちゃったからさ、元は取れるくらいに生きていこうと思う。
▼2026/05/21:擦れ違う、触れる事無く去っていく。あの人もきっと、
一度壊れたものって簡単には治らないね。直せもしないし。心が壊れた時、罅割れた部分に接着剤みたいなものを流し込んでくっつけたとしてもその箇所は他の所より壊れやすい事に変わりないから、簡単にまた罅割れるの。レジンで樹脂部分に金属パーツを付けようとしても光が透過できなくて効果の具合が悪く、耐久性が劣る、みたいな話。人間が生きている時でも死んだ後でも、その人が感じた事や思った事を完全に理解できる人は本人以外に居ない。私が感じている事、思っている事、考えている事、全部私以外には理解し切る事は出来ない。伝える術として文字や言葉や声があるけれど、全てが伝わり切る事は無いんだ。誰かとの間には決して超えられない隔たりがあるんだよ。解ってる心算でも時々歯痒いし苦しくなるね。
私は心に弱い箇所が多い人間だ。壊れた経験が多過ぎるのかもしれない。罅が入り過ぎて中の芯に近い部分にまで達していたのかもしれない。だから未だに高校三年生の夏の日を忘れられない。病室のベッドに縛り付けられて目覚めたあの日。病院の中なのに随分と暑かった。大怪我をして高熱が出ていたからだったんだけど。
病院のご飯は美味しく無くて、毎日残していたら出される栄養剤がもっと美味しく無くて、食事すら拒否して点滴を繋がれた。氷の入った冷たいお水だけは美味しかった。
起き上がる事も出来なかった。拘束が解かれてやっと自由になれると思ったら、身体のあちこちが折れていた所為で巧く動けない。ベッドから身を起こすだけでも汗だくになった。一生車椅子で暮らすだろうと宣告された。
一般病棟に移って必死でリハビリをした。自分でやった事の結果は自分で如何にかしないといけない年齢だったから。
緊急搬送先を知らされ駆け付けた母が見た私はまるで獣のようだったらしい。全身の骨が折れて粉々になった部分まであったのに、集中治療室で大暴れしていたそうだ。ベッドに縛り付けられていたのは暴れた所為もある。目覚めたばかりの私は只管に『消えないといけない』と繰り返し述べて実行しようとした。結果、三階の病室から一階に移された。
通っていた高校の校舎には、生徒が自由に出入りできるベランダがあった。私は其処から飛び降りたのだと聞かされた。初めは悪い夢だと思った。だから目覚める為に夢の中で眠ろうとした。勿論それが現実だったんだけど。
あの頃、生きる事がどうしても辛くて、もう全部放り投げてしまいたかったのかもしれない。色々な事が同時に重なった。実父の醜聞、確執がなぜ生まれたか、実父と母の本当の離婚理由。元々いじめられっ子だったこともあり繊細過ぎて時折自分を傷つけたくなる衝動を抱え生きていた私は、心が弱くなる要因だらけの人生を如何にかやり過ごしていた。
あの夏の日、本当に総てを壊そうと思ったのかは、はっきりとは覚えていない。ただ、消えなくてはならないという使命感を持って目覚めたベッドから見上げる天井を、未だに覚えてる。
一度ゼロやマイナスへ近づきすぎると、其方への選択肢が生まれてしまう。いつでも手が届く位置にあの日がある。自分で自分を終わらせる以外に、あの日の私には打つ手がなかった。
八月の下旬だったと思う。高校生活最後の文化祭をそれなりに楽しんで、授業には出たり出られなかったりを繰り返して、自分でも何が怖いのか分からない事が怖かった頃。その前に一度自宅でも同じことをしているんだけど、その時はほぼ無傷で済んだ。済んでしまったから、もう一度やったのか。
「私はいつか、自分の知らない所で知らない自分になって、消えてしまうのかもしれません。それが怖い」
そんな話を当時の主治医にした記憶がある。彼は「そんなことは有り得ないよ」と言った。半分以上、嘘だと思う。事実私は正気を失くして飛び降りた。自分の知らない所で傷つき過ぎたんだねと言われた。傷付いて痛いくらいなら、消えればいいと思ったんだろうか。
沢山の物を失って、取り戻したものもあれば失ったままの物もある。もうあれ以前には戻れないだろう、様々な意味で。
放り投げられ落ちて粉々に砕けてしまった欠片を掻き集めて、樹脂に混ぜ込んで硬化させたような人間が今の私だ。欠片の材質は多分、クリスタルガラスよりは硬かったと思う。スプーンで撃ったとしても壊れないくらいだけど、人の手で壊せるくらいには脆弱。
命に別状こそなかった。でも一歩間違えたら本当にいなくなっていた。当時私を心配してくれる人達は沢山居たらしい。家族以外にも沢山。それでも消えたくなるんだから私は欲張りだね。
本気で消えようとしていたわけじゃない、と今は思う。心のキャパシティーを超える出来事が多過ぎて重なりまくってしまったから、リセットしようとしたのかもしれない。いじめられていた頃はよく『私が死んだらあの子達も分かってくれる。自分達が何をしたのか、何を壊したのか。きっと後悔してくれる』と思い込んでいた。そうなれば嬉しいとも思った。『これで思い知らせることができる』って。
でも最近思ったんだよね。『後悔できるくらいの人はあんなにも人を追い詰めたりはしない』んだって。私が命を懸けた復讐のメッセージを、他者を容易く追い詰めるような人たちがきちんと違わずに受け取れる訳が無いんだ。寧ろ『そんなに辛かったなら言ってくれればよかったのに』とか『自分達だけの所為じゃないし』とか『勝手に死んだ! 面白くない!?』みたいに頓珍漢な事を言う。幾ら正しく綴ったメッセージを送っても、受診する側の認知が歪んで受信機が故障してたら文字化けして読めなくなるんじゃないのかって思って、受け取られないのに投げ続けるのは建設的じゃないと思い始めた。
そんな奴等の為に私が命を懸けるのは割に合わないよね。それでも消えたいと考えるのは『今』が辛いからだ。心が『今』に注目し過ぎてるのかもしれない。今なんて直ぐ過去になるのに。
今この瞬間の気持ちを綴るのは、未来の私の為なんだと思う。未来へ進む為に、生きる為に書いてるんだと思う。文章にすると云う事は『後から読み返せる』と云う事だ。
私の復讐が無意味な復讐で終わらないようにする為に、思いを『言葉』の鋳型に流して固めて、形作って置く。読み返す少し先の未来の為に気持ちが変容してしまう前に固定する。そうしたらきっと、心の中のどろどろとしたものの仕舞い先が決まる。一旦仕舞っておいて、後で少しづつ細かくして見直して、受け入れられるようにしてから血肉に出来ればそれでいい。
どうしても心が苦しくなりやすい性質だから、もうこれは性分だから。そう言い訳を繰り返しながら、自分を傷つけるものを別の時間軸と角度から見て、距離を保ちつつ少しづつ許容して受容していく。ゆるすのって難しいんだけど、ゆるす事で私もゆるされる。
傷付きやすいのも、弱いのも、みんなどこかしらに弱点がある以上『みんな違ってみんないい。けど、てんで揃ってみんな駄目』な生き物が人間だと思うんだ。人間である以上思考からは逃れられない。思考を止めるのは本当に難しい。考えた時と考えなかった時で結果が変わるとは限らない。でも考え方次第で見方は変わるから、そうやっていろんなものを受け容れたり距離を取ったりしながら選択して生きていく。
この考え方が許容されない事があるのも知ってる。でも私は既にあなたをゆるしているから、あなたも私をゆるしてくれないかな?
つらつらと書いてみたけど、気持ちの整理はついてきた。ただ、あばら骨の間がすかすかするのはまだ止まらないから、少しだけ甘い物を食べて、好きな曲を聴いてから眠ろうと思う。今日くらい良いよね。
▼2026/05/19:興味と過剰が不足する、学べないのは罪じゃなかったのに
最近、物騒な事件が多いね。まあいつの時代もとんでもないような事件は数多く起こっていて、現代と違うのは其処まで報道されてこなかったって事だと思う。京都府の事件もそうだし、栃木の事件もそう。そんで私の地元である北海道でもとんでもない事件が起きてしまった。旭川の闇、みたいな報道やネット動画を見ていると人が生きている限り何処にでも闇は生まれるのになとは感じる。
大分前に『ケーキの切れない非行少年たち』って本が脚光を浴びたのは知ってる。それ以来なのか、たまたま時期が被ったのか『境界知能』って言う謂わば『知的障害のグレーゾーン』についての記事も多く見かける。前の病院に通っていた時に私自身もそうなんじゃないかとか、そうでもなくとも発達障害もあるんじゃないかって知能検査を受けたんだけど結果は『知的には健常者』で『非定型発達』だった。知能指数は104。日本人の平均に若干届かないくらいで、定型発達とは言えないけど発達障害とも言い切れない。まさにグレーゾーン極まれりな結果。ただ、あの検査の時はきちんと結果を伝えてもらえてないからもう少し詳しい書面が欲しかった。
その後病院を移ってカウンセリングを受けて今に至るのは前にも書いたね。前に障害者職業センターってところで受けた検査だと『言語や情報の取り扱い』のスコアは150くらいなのに対して、『計算や数字を扱う』スコアは80くらい。でももっと低いのは『身体や道具を巧みに操って作業をする』だった。これのスコアは50を切ってる。
たまに発達障害の子供さんは体育が苦手な事が多いと見聞きする事がある。身体を器用に使うのが苦手なんだよね。私も外れることなく体育が本当に苦手だった。でもこれだけ凸凹があっても就職できたし、手先は器用な方だと思う。手芸も好きだし料理も得意だ。ただ、物の場所を決めてその通りに片づけるのは苦手。以前通っていた就労移行支援ではASDよりもADHDの要素の方が強いって言われてた。でも自分が生活している空間は今の所綺麗に保ててるし、職場の清掃も得意と言うか、結構好き。
目の前の荷物やごみを綺麗に片づけられるとちょっと嬉しいから、時々気合いを入れて部屋を大掃除してる。この前もやったんだけど、かなりすっきりしたし気持ち良かった。基本的に床は見えているし生ものを放置もしないし、ゴミは直ぐにゴミ箱へ処分、そして決められた日に廃棄している。
これくらいの事が出来てしまうとやっぱり発達障害とは言い切れないんだろうな、と周囲の話を聞いて思う。
話が飛んだね。境界知能について話してたんだった。
現在境界知能と呼ばれる人たちは、元々軽度の知的障害に当たるグループに属してたって言うのは大分前に知った。今思えばあの子もそうだったな、っていう同級生も何人かいる。統計だと一クラスに数人は居る事になるらしい。元々は軽度知的障害に当たるのにグループが変わってしまったのは『そのままだと知的障碍者が多くなりすぎてしまうから』でもあったらしい。支援のリソースが足りなかったんだと思う。で、先述の書籍では非行に走ってしまった子供達には、知的能力に問題がある場合が結構多いという内容らしい。ざっと読んでみたけど初めて会う人にいきなり『この円をケーキだと思って3等分して』って言われたら私も戸惑うし、正確に三等分するには補助線を引かないとうまくいかないから、『下書き用の鉛筆と清書用のペンと直定規をください』って言うかもしれない。まああの本で言ってるのは所謂『車のベンツのロゴみたいに3等分して』って事なんだろうけど。ただ、知的能力に困難があると生きていきにくい世界だなと感じる。なまじ国民の識字率が高くて、一般的な小学生であれば簡単な四則演算なら4年生の頃には大体できてるから、そうでない人が悪目立ちしてるんだとも感じる。
前に通ってた就労移行支援にもそう言う人が沢山居た。でも逆に一般的な人よりも知能レベルが高すぎて苦しんでる人も居た。一般とされるゾーンに属してない(つまりは落ちこぼれと浮き零れ)人達には暮らし辛いようにして来てしまったんだと思う。でもじゃあどうするかって、『他者の行いに寛容になる』『それでも許しちゃいけないラインを見極める』『苦手や困難を抱える一人一人に合った対策を本人と周囲両方で考えて実行する』くらいなら今の私にも出来そうかなと思う。
配慮を求める時ってまず、『私はこれが苦手だから配慮してください』じゃなくて『これが苦手だからこういう工夫をしています。努力しても難しい時には協力してください』って言う姿勢が大事なんじゃないのかな。そしてその姿勢を取れるように親や周囲が指導するのが良いんだと思う。教えてもらえなかった事を自発的にするのはかなり大変なんだよ。でも一言声をかけてもらうだけでぐんと伸びる人達は沢山居る。私が社会人になって直ぐの職場では先輩方のアドバイスを元に自作のマニュアルを作る事で仕事ができるようになったし、そのマニュアルは先輩方に添削して貰ってたから、其れさえあれば難しい仕事でも安心して出来た。でもこれ、自分だけじゃ思いつかなかったと思うんだよね。先輩が『こうすると良いよ』って教えてくれて、それを私が素直に聞き入れたから。
『素直な事』って武器なんだなと思う。今の職場でもこれは継続してて、マニュアルをへ落とし込む為にきちんと指示を聞いて質問できるようにもなった。
あの事件群の加害者達はどんな人たちなのか、本当の意味で知れる機会なんて無いと思う。でももし、私の周囲にそうなりそうな人が居たら。彼等彼女等に『自分にとって耳が痛くても指摘してくれる人には素直に聞く姿勢を持っておくと後々楽だよ』ってアドバイスしたりするんだろうか。
耳に痛い事って、自分でも心当たりがあったりするんだよね。『出来ないのに指摘しないでよ』とか『頑張ってるのに認めてもらえない』って突っぱねるより、或る程度素直に聞いておく方が得なんじゃないのかなって最近よく思う。
なるべくなら、歳を取っても素直に指摘を受け容れて改善して、学ぶ姿勢を忘れないようにしたい。たまに言うじゃん『実るほど頭が下がる稲穂かな』ってさ。
▼2026/05/17:砂糖が凍って出来るご褒美。たまにははみ出したって良いじゃない。
昨日の嫌な方向へ振り切った考えはすっかり過ぎ去ったらしい。あの後布団に入ったら割とすぐに眠れた。睡眠時間は恐らく八時間強。若い頃はショートスリーパーと言うか不眠の症状が強かったのに、今は日本人の平均よりは長いのかもしれない。眠剤の助けがあってのことだけど、八時間も眠れば脳は割と休まるらしい。発達特性もあって、自分の考えを整理する時には『書き出して文章にする』と効率が良い。誰かに聞いてもらってもいいのだけど、その場合相手の時間を奪ってしまうので最近はあまりしない様にと意識している。特に家族が相手だと聞いている側にバイアスも入るし、支援者や精神科の主治医に話す方が適していると感じる。
仕事は昨日よりは忙しくなかった。期限の迫っている作業と納品日が重なってしまうから疲弊するのだろう、今日は割りと元気だ。ただ、昨日より短いとはいえ六時間以上働き疲労も残っている事に鑑み筋トレはお休みした。仕事中はずっと動き回っているのだし、多少休んでも問題ない。その代わり明日はしっかり筋トレもストレッチも行う。メリハリがついている方がやる気も出るだろうし。
そして、自分に『ご褒美』として仕事終わりに塩キャラメルのアイスクリームを食べた。仕事の後に買い食いをするのは久しぶりだ。高級りんご飴や大好きなバターチーズクリームの挟まった焼き菓子とも迷ったのだけど、冷たいものが欲しくてサーティーワンアイスクリームの列に並ぶ。結構混んでいて、今日が日曜日な事を思い出した。お目当てのアイスのカップを片手に、行儀は悪いが歩きながら食べる事にする。地下鉄の駅までぼちぼち向かいつつ味わった。舌の上で蕩けるアイスクリームは甘くて冷たくて少し塩気も効いていて、ナッツやプレッツェルのザクザクした食感も快い。キャラメルならではのクリーミーさも久しぶりの味わいだ。
今の仕事に就いたばかりの頃の私なら、こんな事を自分に許さなかったかもしれない。仕事帰りに買い食いなんて元々そんなにやらない事だ。ご褒美はたまにあるから良いのであって、毎日のように摂取したら逆方向の行為になると思う。でも、日常の楽しみまで削ってしまうのは心が弱る原因になる事もあるなと思いながら食べ終えた。
自分を適切に甘やかす為に、日々節制しているのかもしれない。楽しみたい物を楽しみたい時に味わう為にそれ以外の時には少しだけ自分へ厳しくする。飴と鞭、と言う表現が思い浮かんだ。
ダイエットをしていて、脳が飢餓状態だと誤認して体重が落ちなくなるのを防ぐためにチートデイを設けるという対策をよく見聞きする。私の場合それをするとストッパーが外れチートデイを増やし過ぎてダイエットそのものが巧くいかなるとずっと感じていて、でも最近は一度くらい爆食した所で大して体重は増えないと実感するようになった。爆食が続けばそれは最早過食の症状だけど、一日と期限を決めてしまえば後の日で調整する意識が持てる。これはそもそもが『過度の肥満』と言い切れない体型だからできるのかもしれないけれど。体重は緩やかに落ちるか、維持するくらいで推移している。大切なのは『美味しい物を食べた後で如何に調整するか』と『調整しつつも別ベクトルで美味しい物は諦めない』と『食べるならその分動く事を意識する』だ。
話が少し飛ぶけど、人間は年齢を重ねるうちに内臓の機能が少しずつ低下していく。消化器や糖代謝を行なう器官だって例外じゃない。もし不摂生を重ねて膵臓や腎臓、肝臓に異常が出てしまったら、この先の楽しみを減らさざるを得なくなってしまう。それは嫌なので前述の三つを意識するようになった。思えば私も三十代半ばに差し掛かろうとしている。言ってしまえば『中年女性』の入口へ足をかけている。それでも人生は結構長そうなので、なるべく健康に近い状態で美味しい物を目一杯楽しみ続けたい。おまけに私は糖代謝に異常が出る恐れのある薬を飲む必要があるので、なおさら用心しておきたい。
中高年になると急に健康を意識しだすというのは本当だった。十代の頃、何故あんなにもカップ焼きそばを食べていたのだろう。一つで1000キロカロリーくらいある菓子パンだってしょっちゅう食べていた。それで異常が出なかったのは若さゆえのボーナスタイムと言うやつで、あの頃の後悔もあって今は節制しているのかもしれない。後悔と言うより『反動』かもしれないけど。
一度心を壊して、身体も壊しそうになって、やっと気づいて生活を整えるのは所謂『一病息災』へ向かう意識なのかもなと思う。だから明日はきっと脂質を控えた食事をとるだろう。ちなみに明日も仕事で、冷凍弁当を用意してある。今回のメニューはノンオイルツナを使い野菜をたっぷり入れてもち麦ご飯を使ったポムドン風ビビンバなので、ダイエットにも健康管理にも適していると思う。蛋白質を摂りすぎるきらいもあるが、脂質でカロリーを取るよりはまだマシなのではないか。
普段は冷凍弁当を作ったり自炊したりとそれなりに努力しているのだから、来月は友達とアフタヌーンティーに行くというご褒美も設定した。実は来月誕生日なので、それこそ『自分にご褒美』だ。
毎日の小さな行動が、たまのご褒美と言うプレゼントを用意する準備なのかもしれない。そう思うとまた明日も頑張るかと言う気持ちになれる。
『自分を甘やかす』と『自分を大切にする』はニアリーイコールだ。でも重なっている部分もあってベン図に似ている。なるべく重なった部分の行動を選べたら多分幸せに生きられるんだろうな。数学は得意じゃないけど、四則演算は得意だからやってみようか。
▼2026/05/16:凝った淀み、煮詰めたら嫌な味の金平糖になりそう
つい数十分前まで、かなり鬱転していた。自分以外の総てを消そうか、それとも自分が消えるべきなのか、只管に考え込んでいた。疲れていたんだと思う。身体も、心も。
普段ならリラックスしている筈の入浴中に音楽を聴きながら、延々ぼんやりと終わりに就いて考えていた。『終わりそのもの』と言うより『終わらせ方』かもしれない。答えの出ない疑問に対して疲れ切って良さそうな答えを見つけられないと知っている状況なのに考え込んでしまう性質だと理解しているから、またいつもの奴に入ったなと感じた。なので読んでいて愉快な気持ちになれる(創作することへ引っ張ってくれる)本を読みながら更に音楽を聴いた。何曲か聞き終えて、少し気が済んだので湯船から出て全身を洗っていく。
浴室に入る前に髪の毛はしっかりと梳かしている。なのでまずは髪の毛を洗う。シャンプーを使う際には必ずスカルプブラシを使う事にしている。頭痛予防で購入したのだが、ネイルアートを長持ちさせるためにもなっている。シャンプーの後はしっかりと水気を切ってトリートメント。毛先を中心に揉み込むように塗布する。髪をバンズクリップで纏めたら洗顔。最近角栓が気になるので、今日はスクラブ入りの洗顔料を使った。クレンジングは面倒だったからふき取り式の物を使っているけれど。肌への刺激が強すぎる気もするが、兎に角疲れていたので手間のかからないものを使用している。
身体を洗う。これもスクラブ入りのボディソープを使ったから、今日の私は色々なものをさっぱりと拭い去りたかったのかもしれない。ちなみにこれは常に購入しているものではなく、最近サンプルを頂いて使い心地が良かったからミニサイズを購入したものだ。身体じゅうの泡を流したら、着け置き洗いしておいた下着を濯ぐ。下着を選択する時の洗剤は、専用のものを使用すると決めている。良い下着は出来るだけ長く使いたい。
髪に塗布したトリートメントを流す。この頃には髪の毛にもしっかりと馴染んで触り心地が良くなっている。
浴室から出て身体の水気を拭う。髪の毛のタオルドライには専用のタオルも使って、ドライヤーの時間を短くする。全身を保湿する。安価だけれど実力のある化粧水と乳液を全身に塗布する。しっかりと馴染ませて、肌がもっちりとしてきたら下着とパジャマを着る。
ベッドに横になってスマホを弄り、Youtubeを開く。聴きたい音楽が見つからない。まだ疲れが取れ切っていないらしいと判断し、SNSを流し見しながら先程までの考えを整理していく。
消えるも消えないも自由には出来ない。そして今私は相当に疲れている。正解に近い答えなんて見つかるわけもない。なのに考えが加速して止まらず、飛躍も繰り返しながら堂々巡りする。
今日は、仕事がかなり忙しかった。納品日、しかも現時点では一番長い時間のシフト。今日のメンバーは全員パートタイマーで、重要な事について決定権がある人も居るが、それでも『何かあったらどうしよう』と言う不安は消せない。同時に『それでも何とかなるだろう』と言う楽観的な意見も持つあたり、私はネガティブなだけな人間ではないらしい。実際には何とかなる、と言うより『何とかする』なのだが。
納品日は客注の商品が届く日でもある。何となくの役割分担で、納品日にシフトが入っていた場合客注の商品を確認したら私がお客様に電話連絡をする係になっている。今日は三件電話を掛けた。若干にややこしい連絡事項もあったが、事前にメモに起こして漏れなく伝える。お客様にとって良い情報でもあったので喜ばれた。
実の所、元々は電話対応が大の苦手だった。社会人になって初めての職場(前々職)で鍛えられた結果だと思う。今の仕事では特に嫌な電話対応はあったのかと訊かれたら無いわけではないが、もう気にしなくなった。気にしたところで何も変わらないし、気になるならその後の対応を良くする材料にすればよいだけだ。
しかし、忙しい時はとことん忙しい。こういう日に限って(本当は違うんだろうけど)複雑な問い合わせが多い。世間は週末だからお買物に赴く人は多いだろう。故に問い合わせが増えるのも致し方ない。
如何にかすべての問い合わせを皆で協力して対応し、今日やるべき事は少し残しつつも退勤した。明日やればいい事にまでは手が回らなかった。
帰宅しても、食欲があまりなかった。疲れた時の私は食欲が『喋りたい欲』に変換されて嫌な意味の多弁になる。食事の間中ずっと(口の中に食べ物が無い状態でだが)家族に今日の仕事の大変さを報告していた。付き合わせてしまって申し訳ないと今なら思える。
今日はもう何も出来ないだろうと食事後はスマホを見ながらだらだらと過ごした。お風呂に入る時間だけは守り、上がって、今に至る。
眼が冴えてしまっている。あすけんに入力して算出された情報によると、今日は1800キロカロリーほどカロリーを消費しているらしい。本当かどうかは分からないけど。ただ、疲れている事は確かだ。
暗い考えが止まらない時は敢えて考えを止める事は放棄している。考えて、考え尽くしたら気が済むのだ。今もそう。此処に考えを綴っている内に大分落ち着いてきた。
ふと思ったけど、仕事の後でも上で書いた事を総て無意識に近い状態でこなせる辺り、私はまだ私を放棄しようとは思っていないらしい。特にお風呂の工程は結構な作業数だ。最近たまに聞く『風呂キャンセル界隈』には居ないと思う。逆に『風呂エントリー界隈』だ。
お風呂に入ると、全身の疲れがお湯に流れ出していく錯覚に陥る。だから毎日入らないと気が済まないのだろう。
人生の疲れをリセットする術が幾らかはある事に感謝しようと思う。明日は入浴剤も使ってみようか。
▼2026/05/13:吉兆、夜は甘くは無いけど割と優しい。
ようやっと、夜食を摂らずに夜を超えられた。職場は相変わらず前店長のやらかしの所為もあって大変だし、運動も思うように出来ない事もあったけど、それでも夜食を摂らずに眠りに就く事が出来て良かった。このまま二日三日、一週間と夜食を摂らない日を積み上げていきたいと思う。今この日記を書いている現在もお腹が空いていないし、何より我が家にお菓子や夜食に適した食品は存在していない。やっと乗り越えられそうだ。
離人症状自体は変わりなく起こっている。常に自分ではない自分を演じ続けているし、誰かと会話しながら『私ってこんな人物だったっけ?』と疑問に思いながら暮らしている。仕事をしている時は特に顕著だ。
接客業と言う業種なので幾らかはお客様の前に居る自分を作っておく必要はあると思う。でも私の場合、『メンタルの調子が良くない日の方がパフォーマンスが良い』と言う謎な傾向がある。火事場の馬鹿力みたいなものなのか、メンタルが落ちている日の方が人に優しい演技が出来てしまう。この辺り私の発達特性が関わっているような気もする。私は非定型発達で、心の要素に『自由奔放で天真爛漫な子供』と『厳しく自分を律してくる父親』の両方が多く含まれるらしい。どちらかと言えば子供の要素の方が強いんだけど、同時に『そんな風に振る舞う事は許されない』と強く感じる自分が制御している感じだ。そしてASDとADHDの要素も少々あるらしい。思った事をすぐ口にしてしまうし、相手の気持ちを慮れない事が多い。最近だと寸前で留まって所謂『大人の対応』を出来るようにもなったが、普通の人(定型発達の人)よりも用心深く行動しないと予期せぬ危機に陥る可能性が高い。
だから調子の良い時(心も体も元気だと感じる時)はうっかり発言が多いし、多弁だ。
逆に調子が悪い時(気分が落ちているか身体が不調の時)は他人の言動の意味を敏感に受け取ってしまって、察することが普段よりは容易になるのかもしれない。元々人から嫌われる事が何よりも嫌いな自覚が有る。八方美人と思われそうな行動を取りたくなることも多い。他の人に怒りや負の感情をぶつける事が怖いし、そのくせ自己開示は過剰にしてしまう。社会人になって暫くした頃に自分の発達特性について知ったけれど、『人を疑う事を知らない(手段として持てない)子供っぽさ』は『冗談が通じない、何でも真に受ける』事に多分繋がっているし『ルールを守らない人に怒り(もしくは狡い!と言う羨望混じりの嫉妬)を覚えてしまう』のは『教えられたルール通りじゃないと安心できない発達特性(恐らくはASD傾向)』に繋がっていると感じる。
自分と他者の境界が甘くてゆるゆるだから簡単に他者に起きた出来事を自分のように感じてしまう。故に疲れやすくもなるのだが、そのおかげで他者に寄り添うべき場面にも気づける。それを活かした行動が出来るようになったのも本当に最近の話で、やっぱり定型発達の人よりも幼い自覚が有る。
『自分を客観視するのが上手』だと褒められる経験は多い。けれどもそれは『大人になるのが速い』のとは違って、やっぱり自分の外側に私が居る所為なのだ。
それでもこの特性を活かす場面は最近少し増えた。主に鬱転した時、『今これだけつらい気持ちだけれど、コーヒーや好きなものを摂取して、ごろごろのんびりして数時間もすれば治まる』と目算できるし、『今私が嫌な気持ちになったのは何故だ?』と深堀りする事を助けてくれる。以前読んだ本の中でも『この気持ちはいずれ落ち着く。例えば火にかけて鍋の中で煮込んでいるジャムは、今は熱々だったとしても焜炉から下ろせば必ず冷めて美味しく食べられるみたいに』みたいな表現があった。『この気持ちが落ち着く時は必ず来る。それまで呼吸を落ち着けて目の前のことだけ片付けてしまえば及第点』だと自分に言い聞かせるのが習慣になった。今この瞬間どんなに辛くて苦しくても、永遠に続くわけではないと実感できたのかもしれない。現に、私の場合は自分の考えを書き出し、自分で読み返したり誰かに読んでもらう事で落ち着かせて整理して、もしくは『疲れてる所為だ』と思い切り、お風呂に入ってから眠剤を規定量飲んでさっさと眠る事で一旦リセットできる。睡眠は本当に大切だし、偉大だ。
身体が疲れている時は、大抵心も疲れている時だ。そんな時甘い物を欲しがるのは悪い事じゃない。でも程度問題と言うものもある。本当に自分を大切にするなら、健康的な栄養バランスの良い食事をとって、お風呂に入ってさっさと眠ってしまった方が良い。
たまに自分を甘やかすのも選択肢に入れてはいる。ただ、明日の自分が笑顔になりやすい方が良いんじゃないかって言うお話。
▼2026/05/07:二十六夜が明けた、瞳孔がきゅっと細くなる
ひとつ、自慢話を。予てより通っている保護猫カフェがある。Instagramをご覧の方はご存知かと思うが、その保護猫カフェは猫自身と触れ合うことが目的のカフェではない。ただ猫の日常を眺めながら美味しい珈琲と軽食を楽しむタイプのお店だ。コワーキングスペースにもなっている(Wi-Fi完備)。私はドリンクと軽食を幾つか頼んで1時間くらい猫を眺めて過ごすのだが、そのお店で暮らす二匹の猫に少しづつ受け容れてもらえているようだと今日わかった。
カフェの猫は三毛猫とハチワレ猫。二匹とも女の子で、三毛猫の方が人には慣れている。近くまで行っても怒らない。ハチワレ猫はシャーシャー猫なのであまり近寄れないが、稀に此方へ寄って来て足先のにおいを嗅ぐことがある。
今日のハチワレ猫は隠れ家スペース的な場所に居るらしく姿が見えなかった。代わりに爪とぎ兼ベッドの上に三毛猫が丸まって寝ていた。いつも通り挨拶をして、彼女を観察するのに一番良い席へ陣取った。今日はお昼ご飯も兼ねているのでドリンクの他にベーグルとスコーンを注文。ドリンクを飲みつつ三毛猫へ目を遣ると、ざらついた舌先で毛づくろいをしていた。何だか今日の彼女は機嫌が良さそうだなと思ったタイミングで他のお客さんが店を後にして、三毛猫と二人きりになった。
心地好い温度と音楽に満ちた部屋。お昼ご飯を食べ終えた私は三毛猫の写真を撮るべく近づいた。猫は瞑っていた目を細く開けて、小さく鼻を鳴らした。でも嫌がらない。いけるかもしれないと思って、私は軽く握った拳を差し出してみた。猫は目を丸くしてからスンスンとにおいを嗅いで、また目を細めた。
満足した私はお手洗いに向かう。用を足して戻ってきたら何と、三毛猫がドアの前にちょこんと座っていた。
これは出待ちなのか、と衝撃に「どしたの?」と声が出る。猫は私を見上げ『座るのです』みたいな顔をするのでその場に屈んだ。すると猫は尻尾をピンと立て、私に頭や体を擦り付けるようにする。すりすりとまんべんなく擦られて、驚き立ち上がろうとすれば『撫でるのです』と言わんばかりの声で鳴いて、またすりすり。この時点で私のテンションはマックスだった。そっと背中を撫でるとまるで天鵞絨みたいな手触りで、とても気持ち良かった。暫く撫でると満足したらしく小さな鳴き声で解放された。
対転する時、猫は硝子の向こうからお見送りまでしてくれた。
心が蕩けそうなくらいに可愛い猫ちゃんだった。
そしてまたあのお店に行って、複数注文して猫の生活費の足しにして貰おうと心に決めた。
と言う自慢話。
▼2026/05/07:名の無い英雄、イニシャルくらいは刻んでおこうよ
精神科の定期受診をしてきた。今日も主治医は優しく私の話を聞き質問や疑問に答え、しっかりと薬を処方してくれたのだが、彼は今月を持って今の病院を離れるらしい。来月以降の受診では主治医が変わる。正直、あまり不安はない。今の主治医以外の先生方も良い医師ばかりの病院へ通えているし、彼よりも年下の先生らしいので『年齢を理由に勇退』はまだ先の方のようだ。優しくて良い先生だからと説明もされているし。ただ、世の中って変わりゆくものだと感じる機会が最近多い。ずっと恒久的に続くだろうと思っていた事柄がある日を境に急に変化する。目まぐるしく感じる事もあれば変わった事にすら気付かず過ごす事もあるのだろう。
下の記事で『毎日夜食を貪ってしまう』と書いたし、結局昨日の夜も夜食を摂ってしまった。しかしこの行動の理由が、今日の受診で何となく掴めてきた。私は元々離人症状が強いタイプの人間だというのは前に書いたけど、常にうっすらと自分から解離して別の場所に居る気分を味わっている。現実味が薄いというか、常に『自分と言う役』を演じているという感覚に近い。日常的に自分が自分じゃない状態で、それが常態化しているわけだけど、そんな中で『完全に自分に戻れる行動』が幾つかあって、その一つが『食べる事』なのだ。
食べる事は大好きだ。美味しい物の情報はいつだって私をときめかせるし、肥るのが嫌だと思っても『じゃあ絶食します』とはならない。美味しい物を食べつつ多少は激しめの運動する方がよっぽどいい。
食べ物の味って、食べている本人にしか感じられないものだ。そうなると否応なしに自分に戻れる。瞬間、酷く安心する。この感覚を味わえる行為はそんなに多くない。食べる事以外には『画く』『筋トレなどの運動をする』『縫い物をする』など、自分の目の前の物や自らの動きに集中していられる行動だ。
主治医にそれを伝えると「『マインドフルネス』ですね」と言われた。自分と言う存在に集中する事、自分と言う存在を見つめる事。それが私の離人症状には良いらしい。自分が自分であることを思い出す、みたいな感じだろうか。
嘗ての私は自分が大嫌いなのにそれでも自分が一番かわいい存在で、でも生きるのが苦しかった。今も時々苦しくなる。
生きる事は楽しい。面白い毎日だなと思う。たまに虚しくなるのは多分病気の双極症部分の仕業で、鬱転まで行かなくとも楽しい事の後では必ず気分が落ちるから。その虚しさを味わいたくないからと楽しむ事にセーブをかけるのも何か嫌だと思って、つい全力で楽しんでしまう。後で落ちるのは分かっているのに昇ってしまうのは最早登山と一緒かもしれない。ずっと頂上には居られない。いずれは下山しないといけない。
それでも自分以外として生きる事は出来ない。これが私だし、これからも私であり続けるんだろう。その事に疲れてしまったら少し休んで、また進む。休んだり立ち止まるのは罪じゃない。この先も進み続ける為に必要な休憩だ。
思えば今の仕事を始めてもうすぐ一年だ。あっという間に一年経ってしまったけれど、この一年で色んなことを身につけられた。
生きていると、時々過去の事を忘れてしまう。今この瞬間『私は頑張っていない』と感じたとて、ほんの十分前には何かしらの努力をしている事の方が多いのに、自分にはまだまだ努力が足りないと追い詰める。肉体への自傷は全くと言っていいほどやらないのに、心にはグサグサと棘を刺している。自分と言う役を演じる私は出来損ないだとばかりに傷をつけて、その痛みを癒すべく過食する。
やっぱり、解離しているのが良くないのかな。自分を大切にするって、甘やかすのと似ていてでも違って、じゃあどうすれば良いのかって、書きながら今も考えてる。本当の意味で私を大切にするのって、相当に難しい事なんだと思う。
それでもさ、なるべく傷を負いたくは無いじゃない。だから今夜こそ歯磨きの後は何も食べないよ。明日、目一杯好きなものを味わおう。
▼2026/05/06:矢車草の青を食む、甘けりゃいいってものでもない。
ここ最近、忙しさ故なのか巧くいかない私生活故なのか、夜中になると夜食を貪ってしまう日が続いている。それでも如何にか体重が減っていくか現状維持なのは、純粋に運動量が一般よりも多いからなのだろう。減っていくとは言ってもゆっくりとしたペースではあるけど。体重計に乗る頻度も恐怖故に減少傾向にあるし。動かないから増えるのではなく、動く以上に食べるから増えるのだ、食事による摂取カロリーと運動による消費カロリーのバランスで体重は変動するし、ただ食べ過ぎれば体重も体脂肪も増える。当然の話なのだが、食べる事ってどうしてこんなに気持ちが良いのだろうか、食べている瞬間だけは何もかもから解放されているような錯覚(明確に錯覚だ)に陥る。こんな毎日を送っているから、この前の体調不良の際若干に糖代謝異常の疑いに怖くなってしまった。急性膵炎は乱れた食生活でも起こりうる病気である。
ちなみに痛みはもう無いので、心配してくださった皆さんには安心してほしい。抗生物質で一発で治った。
しかしこのままだと心安らかに夏を迎えられないので、ここらで自分に喝を入れようと思う。
少し前まで『夜食を摂らない方が調子がいい』『甘い物はたまにで良い』『食べるより運動する方が楽しい』などと宣っていたのにこのざまは何だ。夜食を摂らないとなんとなく満たされないし、甘い物はやっぱり毎日食べたいし、運動するのは確かに楽しいけど食べるのはもっともっと好きだとなれば当たり前の結果と言うべきか。
でも甘い物って本当に美味しいんだよなぁ…暫く忙しくてダイエットおやつの材料を買いに行けてなかったので、明日スーパーマーケットの食品コーナーへ走ろうと思う。
それと、職場の方にお菓子を貰う機会が多いのも困っている。節約も兼ねて自分ではお菓子を買わないようにしていても職場の休憩室には常に袋菓子があるし、連休をとった人からのお土産もあるし、こういう時に限って親がお菓子を買って持って来るのだ。親に関しては『あんたがダイエットしろっていつも言ってんだろ!?』と思ってしまうが(おまけに「食べすぎるなよ?」とも言われる。だったら買って来るな)、結局、『これを食べたら間違いなく体重が増えます!』とされる食べ物は存在しない。極論を言っている自覚はあるが、摂取カロリーを消費カロリーが上回れば体脂肪がエネルギー源として使用され全体量は減少するのだ。これは間違いないし、現に一日かそこら食べ過ぎたところで体脂肪がダイレクトに増えるわけじゃない。食べ過ぎた翌日の体重増加はほとんどは塩分や糖分過多による浮腫みだ。
とは言えこのまま放って置くのは悪手以外の何者でもない。体脂肪が1kg増えるのに必要なカロリーは7200㎉。逆算すると一日に240㎉余計に摂取すれば、1ヶ月で1kg、体脂肪が増える事になる。240㎉ってどのくらいだろうか、と考えると確かポテトチップス1袋分にも満たない量だ。どら焼きひとつ分でも200㎉は軽く超えるし、この前食べたスターバックスコーヒーのお菓子は一つあたり300㎉を優に超える。と思うとお菓子に使用される砂糖と油脂の量に慄いてしまうが、それを毎日食べて何の運動もしなかったら肥るし肌も荒れるだろう。しかもほんの少しの積み重ねと云えてしまいそうな量なのが怖い。ちなみにスタバで食べたのは餡バターを挟んだスコーンだ(美味しかった)。たまに行く牛丼屋のチーズを載せた牛めし、マヨネーズの掛かった葱の牛めし、どれも美味しいがカロリーは並盛でも800㎉を超える。まだラーメンの方がカロリーが低くトッピング次第で栄養価も高いというのが恐ろしいようなそうでもないような。
人間は進化の過程で生き残るために調理の技術を身につけたが、肥る食べ物がおいしいのは、生き残るのに有利なものを食べると美味しいと感じるようになったからかもしれない。甘みも塩味も油脂も、そうそう簡単に手に入る味付けではなかったらしい。割りと長い時期人間は甘味や塩味や油脂を求め続けてきたのだ。だからそれらを口にすると本能的に安心してしまうらしい。加えて『栄養がある上に美味しいんだから、もっと食べないと!』なんて恐ろしい事を考えて箸を進めてしまうのだ。
しかし、本能に抗う理性を持ったのが人間と言う生き物の側面でもあるので、此処はひとつ、理性に頑張って貰おうと思う。理性もそうだし、考える能力もフルに使う。たまに『自分は好きな事を好きなだけして、好きなものを好きなだけ食べて太く短く生きるんだ!』と宣言している人を見かけるが、現代日本で『太く短く生きる』はかなり難しい。行き過ぎた食習慣で病気になれば間違いなく皆保険のこの国では治療対象となるし、何より簡単にピンピンコロリなんて実現できない。本人が改めなかったとしても半端に苦しみながら生きる事になる時期が幾らかは続く。かと言ってそう言う生き方をし続けた人が早々自らの首を括れるのかと言うとそうでもないだろう。
改めて言っておくけれど、私は現在『死に急ぎ』なんて真似はしたいと思わない。生き急いでもいない。なるべく健康に或る程度長く生きて、幸せを味わい人生を楽しみ切って、見送りたい人たちを全員見送ってから安らかに旅立ちたい。多分後数十年は先だと思う。
なので、『楽しく幸せに生きる為』にも健康で自分の理想とする体にならないといけない。いけないって言うより、そうで在りたい。努力する自分が一番好きなんだから。
と、言う事で、此処に宣言する。今日の夜は何も夜食を摂らずに眠る。明日も明後日もその後も、きちんと味わえる時にだけ美味しい物を少しづつ頂くんだ。やりたい事も味わいたい体験も尽きないので、まずは今夜、歯磨きの後は何も味わない様にしたい。
▼2026/05/01:過重の嘘、払い清めぬは誰の間違い?
日本に国民皆保険があって本当に良かったと痛感する出来事があった。一昨日の仕事中に下腹部痛と排尿時痛があって、これ完全に膀胱炎(しょっちゅうなってる)だわ病院行かないとと思って、仕事を早退した。しかしその日は祝日、故にかかりつけの泌尿器科が急伸なので当番病院を探す事になって、さらに痛みが腰背部の左側にもあるとうっかり素直に伝えたら検尿だけでなく血液検査とCTスキャンも受けるように言われるという始末。私は腰の後ろをトンと叩いたら痛みがあったので『もしかして腎盂腎炎?』と思ったから言っただけだったんだけど、医師に疑われたのは急性膵炎だった。結果CTスキャンを数年ぶりに取る事になった。
で、休日加算もあったけど皆保険制度のお陰で負担額は渋沢栄一一人よりは少なく済んだんだよね。以前から付き合いのある海外の友人曰く、日本の医療制度は本当に素晴らしいらしい。技術も含めだけど、国民全員が少額ずつ負担してその代わりに自分の医療費は軽く済むとか、海外では考えられないもんね。
検査結果は予想通り膀胱炎だったのはまあ良かったんだろうし、膵臓や諸々の臓器も序でに見てもらえたし軽めの健康診断と思っておくことにした。
この前此処に書いた甲状腺機能低下症の恐れもそんなに無いらしい。これが分かったのは一昨日のことではなくて、その前日にたまたま婦人科での定期検診があって質問してみたらそう言われた。私の検査結果だと甲状腺に異常がある場合本来あがってるのが自然な数値が平常値だし、その他の数値の異常もそこまでひどくない。寧ろ去年より悪玉コレステロールが下がってるから良かったみたいだ。コレステロール値って善玉と悪玉があるけど、私は両方が平均より高いから体の中をそれらが滅茶苦茶行き来してるんだと思う。一回善玉コレステロールが100を超えた事あって、悪玉は平常値だったから、末梢からコレステロールを回収する運び屋が沢山居た事になる。
そう言えば、ダイエットはまあまあ順調らしい。コレステロール値が下がった一因でもあるし、ぶっちゃけ身体を動かすのが良い感じにストレス発散だから割と毎日続いてる。でも職場の休憩室でスクワットとかストレッチとかやってるのはぶっちゃけその場から浮いてると思う。座ったままできる腹筋とか、キックバックとかやってると周囲の視線が若干痛い。たまに「頑張ってるね〜」とか褒められる事もあるけど。
基本自宅トレか職場トレだけど、大分暖かい時期になったから外でも運動したい。日焼け対策をしっかりやってウォーキングとかかな。今年独り暮らししたいと思ってる物件がいまの家から十分くらい離れたところに在って、其処に引っ越せたら通勤時のウォーキングが長く出来そうなんだ。人間、日光に当たるのは心の安定にも大切らしい。前は夜が長い方が調子が良い事が多かったけど、歳を取ったら日向ぼっこも悪くないなと感じるようになった。今の時期くらいが一番運動するのに適してる気がする。秋に入ると札幌は直ぐ寒くなるし。
ただ、痩せてはきたけどまだそこまで大きく見た目が変わったとは思ってない。特に洋服を着てる状態だと誤魔化せちゃう肥り方をしてたから、もう少し見える場所も絞りたい。
スマホに入れたあすけんとチャッピーの指導だと、やっぱり私には米飯を主食にした献立の方がいいみたいだ。パンとか小麦粉製品って美味しいんだけどね、やっぱり資質も多く摂ることになっちゃうからたまにご褒美みたいに食べる方が良い。
そう言えばパスタとパンならどっちが肥りやすいんだろうね? うちだとパンは買ってくることしかしないけど、パスタは外食で食べるパターンと自分で作って食べるパターンがある。その時選んだソースにもよると思うけど、基本自宅で作る場合はほとんど和風の味付けばかりになって来た。それかブロッコリーを丸ごと粗目の微塵切りにしてオリーブオイルとベーコンとニンニクとで炒めて粉チーズとお塩で味付けするか、アボカドとベーコンとしめじと卵でカルボナーラ風にするか。
ここ数年、市販のパスタソースはほとんど買った事が無いって今気づいた。自分の好きなように味付けできる方が美味しいから、本当に数えるほどしか買ってない。昔はキユーピーのバジルソースとか買ってたんだけどな。
個人的に、一番簡単に作れるのは納豆パスタだと勝手に思ってる。麵に味付けしたらかき混ぜた後の納豆を載せて葱と刻みのりをあしらうだけだから5分もあれば作れるのでお勧め。納豆にはカラシを多めに入れるとなお美味しい。
料理する時、特にお野菜は辛味を利かせるのが好き。ワサビ和えとか辛し和えもそうだし、ぬたとか豆腐に餡掛けをかける時もちょっとワサビを入れたくなる。前に此処に書いた小松菜の山葵醤油マヨネーズ和えは、ざく切りにした小松菜をさっとゆでて、熱い内にワサビと醤油、出汁の素を入れて混ぜてから少し冷まして、マヨネーズを入れてあえたら完成。簡単で栄養も取れて美味しい。この時期なら同じ味付けでアスパラを和えても美味しい。寒い時期ならほうれん草でもいける。
最近、旨味の強い料理が本当に好きだし、これも日本人で良かったなぁと感じる要素の一つだ。
ちなみに我が家だと使ってるだしの素はあごだし。これでお味噌汁作ると本当に美味しいから是非やってみて欲しい。