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▼2026/06/12:糖蜜で煮込む黒さくらんぼ、熟す前から味がする

友人からメッセージ受け取りました。時間を取ってゆっくり返信書くね。ありがとう。
実は今年の誕生日は久しぶりに母に物を買って貰った(資金を出してもらった形だけど)。有名なロリータブランドのお靴。私の足は我が儘なサイズと形をしていて履ける靴があまり多くないのもあって、母には『気に入ったデザインの履ける靴があったとして、法外な値段じゃないならその場で買いなさい』と言われている。小さい頃成長痛でしょっちゅう夜中に泣いていたんだけど、その所為で身体と手足の大きさが少しずれているんだよね。手首から先、足首から先が体格の割に結構大きい。成長痛って関節のある部分が痛くなることが多くて、私の場合膝と足首より先がかなり痛かった。小学校低学年から高学年にかけてが一番つらかったかな。本当に痛いし薬で押さえるのにも限界がある上に両親は小柄な方だったから成長痛の経験が無くてかなり戸惑ったらしい。
現在の私は平均ど真ん中の身長で止まってる。中学の頃には背が伸びなくなったし、睡眠時間が足りてない成長期だったから仕方ないというべきか。

で、色々あって足首から先を粉砕骨折して履ける靴の系統が狭まったしそもそも足の形自体も代わってしまった。右足の方が若干大きいかな。
まあそれは置いておいて、とっても可愛い靴を買って貰ったんだよね。ピンクのラメがたっぷりで大きなリボンのついた、履きやすいのに可愛い靴。歩くのも楽だし軽めだから疲れにくい。なるべく大事に履こうと思ってる。

誕生日のお祝いの席は設けなかった、というか、一人で高級ホテルのアフタヌーンティーを楽しむのがお祝い。シマエナガモチーフの可愛くて豪華なアフタヌーンティーだった。Instagramに写真もアップしたから興味ある人は見てくれると嬉しい。
この歳になっても未だに可愛い物が大好きで、もっと可愛くなりたい欲求が止まらない。これって小さい頃に『ブス』とか『可愛くない』って言われ続けた所為もあるのかなって考える事がある。人間って子供の頃に手に入らなかったものに執着するとかあるじゃん。あれなんだろうなと思う。と云う事は私と一緒に居るインナーチャイルドは『可愛い』って褒められたい欲求も抱えているんだろうか。
自分の見た目が乱れると、精神にも影響する。だから必死で運動したりメイクをするんだろうけど、じゃあ何で夜食が辞められないのかな。一日二日辞められても復活しちゃうんだよね。困るね。お菓子が家に在るのがいけないんだってわかってても、家族だって食べたいから冷蔵庫に入れるときあるでしょう。それを横取りするとまではいかなくとも許可を貰って食べちゃうし、おばあちゃんは私のお腹が空いている状態があまり好きじゃないからポンポン買って来る。
冷蔵庫に入ってるおやつを食べつくしても足りないって感じて夜中にモヤモヤしてる時がある。自然に食べない選択が出来た時は全然気にならないんだけどね。心がお菓子みたいな味がついたものを欲してる時がある。後純粋に燃費が悪い身体だから簡単にお腹がすくのもある。基礎代謝と筋肉量が割とある方だから直ぐに燃えちゃうんだろうか。お風呂上がりとか、お腹空く人居ないかな? 私は夕食の後軽く運動してお風呂に入ると高確率で空腹になって食べてしまう。今もお風呂上がりに書いてるけど、若干空腹。
若干≠フ時に食べるのがいけないんだろうけどね。昼間にあれだけ動いてるのに努力を打ち消すような真似をしてさ。見た目が悪くなるのが何よりも嫌なのに、自分で自分の見た目を悪くしてる。
でもおやつを食べる事自体は或る程度許容したいとも思う。時間帯と食べる量を考えればいいんだよ。解ってても出来ないって不思議だね。
方法だけ知ってても、実際に出来るとは限らない。人間って不思議な生き物だ。でも努力をする事は無意味じゃないから今日も筋トレとストレッチはしっかりやった。これが私にとって自分を許す為の行為になってる気がする。それと、間食を無くす一番有効な手立ては、『何かを作る事に没頭する事』。特に小説を書いてる時は何も食べられなくなるから(口の中に物が入ってると文章が書けなくなる)、暫く執筆に集中しようかな。書くスピードが速いって言っても数時間は稼げるわけだし。
今よりもっと痩せてた頃に書いてた文章量はすごかった。何時間でもパソコンの前でタイピング出来てた。最高で6時間かな、トータル2万文字書いてた事もある。過集中に近いと思うんだけど、これはどの発達特性によるものなんだろう? 私の場合ASDもADHDも要素としては持ってる。物や文章へのこだわりや強い集中力はASDで、脳内が多動に近いのはADHDかもしれない。多動って言うか、脳内では小説に盛り込もうと思って色んな事を同時に考えていてそれで無限に連想ゲーム(マジカルバナナ)をしてるから脳内は結構忙しい。それらを纏めるスピードが普通の人より早いんだと思う。其処にタッチタイピングが加わると延々タイピングしてるよ。

ドール服作成も良いけど、小説とイラストも描いていきたいなと思う。節約にもなるしね。

▼2026/06/09:念の為確かめておこう、貴方は生きているだけで頑張ってる。いいね?

今日のタイトルは友人に宛てたものだ。彼女はずっと頑張り続けている。『頑張り続けている』と書くと友人は謙遜若しくは否定しそうだけれど。
私からすると、彼女には頑張っている印象がある。確かにマイナスな事も多いだろう日常で、それでも生きる事を諦めていない。将来に不安を感じるのは誰しもある事だけれど、私達みたいに精神を病んだ経験がある・現在進行形で病んでいる者は一般的な生き方をする人よりも強く不安を感じやすいし、そもそも『不安を感じる』事自体が病気の症状だったりする。友人のブログを見るに、彼女も私と同じように気分の波があり躁と鬱を交互に経験しているようだ。どちらかと言えば鬱傾向の方が強いだろうか、けれども躁に寄っているらしき行動の記録も見る事がある。
常に軽度の躁状態の私とは少し違う彼女の躁症状は、普段鬱に寄り勝ち故に激しい印象だ。短時間に色々な事をしているように思う。極端な行動なのが心配だが、彼女のことが特定され過ぎるのもよろしくないのでここに書く事はしない。
で、友人は頑張り続けていると言う話。彼女は現在ご家族の介護をお母様と二人で担っている。介護が必要なご家族の病気は難しい病気で、徐々に身体の自由が利かなくなっていくものらしい。それでも意識は明瞭なままとされるため、心(つまり脳)は或る程度元気なまま思うように動かせない体とのギャップで苦しんでいる感じだろうか。
私は現在介護が必要な家族はいないけど、二十四時間の介護生活が大変であろうことは想像に難くない。正直私なら何かしらの理由をつけて逃げ出してしまうだろうと思う。それを彼女は彼女なりに奮闘して家族を支えている。これを『頑張り続けている』以外の表現で表して良いものだろうか。
自分の疾患だけでも人間のキャパシティはいっぱいいっぱいになる事が多い。身体的な物にしろ精神的な物にしろ、痛みを抱えた状態でそれでも他者を支えたり介護する必要が出てくることは珍しくない。でもそれを実行に移すまで、そして継続させていくのはしんどいと思う。

彼女はお母様と話し合い、役割分担をして自身の持病と或る程度折り合いをつけつつご家族の介護を続けているらしい。ブログに綴られる彼女の日々を知るにつけ、大変な思いをしていると感じては何か出来ないものだろうかと考えている。私に出来るのはこうして彼女を鼓舞する文を書き励ます事くらいしかないが、それでも力になれているだろうか。

彼女以外にも、メンタルに不調を抱える友人は何人かいる。皆苦しみながら様々なものと戦って、時には受容したり如何にか折り合いをつけたりしつつ生きている。

私たちはこの世界以外に居場所を持てない。私は一時、この世界に生まれたのは間違いだと感じている節があった。本当は別の世界に生まれる筈だったのに、何らかの誤りでこの世界に生を受けてしまったような感覚だ。誤解しないでほしいのはそれでも生まれてきて良かったとは思っているという事。でないと今この文を書いている私は存在しないし、私は反出生主義者でもこの世を悲観しているわけでもない。ただ、時折この世界からズレたところに居る様な気がするだけだ。
彼女がこのように感じているとは思ってない。彼女は目の前の仕事(介護だけでなく家事や彼女の取り組みたい事)に一生懸命だからこそ悩んでいるのだし、私の様に理屈を捏ね繰り回して世界を斜に見てはいないだろう。

一度彼方側にいきかけた身からすると、あんな経験を友人達にはしてほしいと思えない。せめてもう少しだけでも生きやすくなってくれればよいと思い続けている。それは彼女に対してだけではなく、彼女の周囲の環境、ひいてはこの国と世界に対しても。

何故こんなにも生きにくいのだろう。何故生きる意味や理由を考え込んでしまうのだろう。そんなの無くても生きていくことはできる筈なのに。現に、生きる意味も理由も考えず日々を過ごす人々は沢山居る。でもその『生きる』は本当に私達が望む生き方だろうか? 私達は心から納得して、苦しさを抱えながらも幸せな時は大いにそれを謳歌していたいはずだし、その上で『生きていて良かった』と感じたいはずなんだ。その為に彼女も私も頑張り続けているんだと思う。少なくとも私はそう考えている。
思えば彼女との友情は私の人生の半分以上を占めている。オンラインオフライン問わず、一番付き合いの長い友人だ。
世界から居なくならなくて良かったし、これからも居続けて欲しい。実はね、昨日は私の誕生日だったんだ。このくらいなら叶えて貰えそうかな? 苦しいならいつでもメッセージを送ってくれていいし、幾らでも話を聞くから、せめてどうか、自分で自分を終わらせず、なるべくなら傷付けずに生きていてください。


▼2026/06/06:菫の花を砂糖へ浸す、白ワインも用意したいね。

ロリータ系のハンドメイドイベントに行って来た。全体的に道外の作家さんが多く呼ばれている印象。北海道って地理的に他の都府県よりもこの手のイベントには不利なんだろうけど、それでもロリータ仲間は多くいると知れて嬉しかった。会場に早くに着いてしまって、入場できる時刻までかなり時間があったので近くの純喫茶で紅茶とスコーンを注文。たまたま焼きたてのスコーンをいただけて美味しいし嬉しい。普段は珈琲ばかり飲む性質だけど、今日みたいにロリータファッションで全身を統一しているなら紅茶の方がきっとお似合いだ。
イベントの感想を書こうと思うんだけど、以前此処で考察した事で感じ方が変わった気がする。
まず、今回のイベントはかなり規模が小さい。そしてイベントの参加者(出店する側)はイベント主催者側から声をかけているらしい。元々ロリータ系のハンドメイド作家は横のつながりが強いらしくて、優れた作品を生み出す人は東京とかに常設の委託店を持つことが多い。後は大阪や名古屋、福岡辺りでポップアップをする事も多いらしい。
作家を目指しているのだし、勉強も兼ねてしっかりと会場の隅々まで見て来た。見て、というよりも観察かもしれない。
今回の作家さん達は主催者側から声がかかるのもあって作品のクォリティが素晴らしかった。展示の仕方も同じく。ゴシックロリータを好む人たちは細かな意匠を持つものや良い感じの人工的さを好む傾向があるように感じる。だから見やすさと同時に『雰囲気を壊さない演出』を求めてくるのだろうと思う。可愛らしさとダークな美しさ、両方ともに目にする事が出来た。と同時に作家さん達は販売に慣れている事もあってフレンドリーだった。ハンドメイド作家としての自分、生み出した作品に自信を持っている事が伝わってくる印象と謙虚さはあるけど謙遜はしていない感じが好ましい。人に対して阿る必要はないんだけど、選ばれる立場でもある以上は謙虚さは忘れない方が良い。でも謙遜し過ぎたり自分を卑下するのは良くない。だって目の前の誰かは自分の作品を『可愛い』と思って手に取ってくれるんだから、自信を持って見せられた方が絶対に良い。そのくらい自信を持てるように作品のクォリティを高められたらいいなと思う。

話が少し変わるんだけど、ここ何年か私は自分の事を、主に見た目と言葉遣いに対して『可愛い』と感じる事が増えている。子供の頃は本当に自分に自信が無かったし、『暗い子』とか『地味で可愛くない子』と陰口を叩かれる事も多かった。実際、あの頃の私はあまり自分の『見せ方』や『磨き方』みたいなものを知らなかった。
当然自分の事は可愛くない方だと感じていたし、美人と思うなんて全くなかった。服装の趣味もあって『対して可愛くも無いのに洋服ばかりかまけている』と自分の事を卑下してたように思う。
でも今は自分なりに自分を可愛くする方法が分かって来たし、身についてきた。何より私の『素材』は決して悪くなかった。肌質にしろ髪質にしろ、恵まれている方だと思う。長年使ってきた眼鏡を外してコンタクトレンズを使用するようになってから、周囲からの見られ方も変わった。
元々極度の近視で、眼鏡をすると実際よりも目が小さく見えてしまう。それに目元のメイクがあまり映えない。眼鏡をかけた上で華やかになったり涼し気な印象なら良かったんだけど、私はそう言うタイプではなかったという事だ。でもコンタクトレンズに移行して、目元のメイクがやりやすくなって、眼鏡をかけずともメイクをするのが楽になった時、私の顔はこんなに魅力的だっただろうかと感じる事があった。前の仕事をしている時たまたま職場のプロフィール写真を撮られる機会があって、撮影された写真を見た時『驚くほど美人で可愛い私』が其処に居た。
服装にも気を使っていたし、メイクもしっかり施したのは事実。でも他人に撮影された私がこんなに可愛い事なんて以前は無かった。その時、心のどこかでカチリと音がした。たりない何かが埋まったかのように、ピースが嵌まって噛み合ったみたいに。

ああ、私は自分の事を可愛いと思って良かったんだなって、その時思った。

それまでも美人だと褒められなかったわけじゃない。可愛いねと言われる事も多くなってきた。でもあの所謂『他撮り』を見て他の人から見える私を間接的に見て初めて、自分の存在や見た目が悪い物ではないと思えた。
結局『可愛い』『美人』は感じ方とか好みの問題もあるんだけど、自分に自信が無いと心から自分を可愛いとは思えないんだって、その時感じた。だから今は他の誰に見せても恥ずかしくない自分で居る為にも見た目を整える意識が加わった。自分を心から可愛いと思って欲しいから背筋も伸ばすし、歩き方にも気を付けるし、食事のマナーも言葉遣いにも気を使う。

『お洒落』も『可愛い』も人間が生存するために絶対のものではない。でもそれがあると私はかなり生きやすくなるから。強制されるとかじゃなくて、今日の私も笑顔で居られるようにとの自助努力の一つだ。
ありのままの自分はそんなに好きじゃない面も多い。気に入らない箇所なんて幾つもある。だからその上で『可愛さ』や『美しさ』を保つ為との名目で自分の形のバリを取るようにを削って鑢をかけ、磨き上げていく。見た目も中身も恥ずかしくない自分で居られれば、巡り巡って作品への意識も変わると思うから。
勿論これは他人に強いる物ではない。私が私として生きる為の矜持だ。見た目にだけ囚われるのはナンセンスだ。でも自分の中身の一番外側が私の見た目なので、中身を見てみたいと思って貰える容姿で在りたい。

こう考えるようになってからは歳を重ねるのが今はあまり怖くない。その年齢だからこそ楽しめる物は減ったり増えたりして、変化していくから。変わらないものってそんなにないし、変わらずに居続ければ世界からズレた人になってしまう気がする。
きっと私は、可愛い物を素直に可愛いと言える自分でありたいんだと思う。それを自分の見た目にも該当させられるように、可愛い私で居たいんだ。

このこだわりのお陰で自分の事を放り出さずにいられるんだと思う。傷付いたり疲れた時にそれを癒そうと思えるのは私が私自身を『好き』で『大切にしたい』からだ。この意識がある内は多分大丈夫だろうと思う。謙虚だけど自信があって、傲慢じゃないけど自分を可愛いと思えるチャーミングな人で在りたい。


▼2026/06/05:永遠に融けない結晶、昇華出来なければ砕いちゃえ

誕生日を目前にして五連休が始まった。有給を殆ど消化していなかった関係で、昨日から5日の長休に入っている。うちの会社はこういう事については特に法令遵守を重視しているので、従業員にはなるべく希望通りの有休を消化してほしいと考えているらしい。うちの店のスタッフも結構頻繁に旅行に行っている印象だ。私は今年独り暮らしを始めたい関係で節約を兼ねて旅行にはいかないけど、折角の長期休暇なのでまたハンドメイドイベントに行くのと、アフタヌーンティーを一人で楽しんでくる。自分のメンテナンスとして美容室とネイルサロンにも行って来た。大分前から前髪は眉毛より上に切り揃えている。よくロリータの女の子がしているぱっつん前髪よりも結構短めだ。眉を見せる方が顔がすっきりして見える気がするのと、その方が若々しく見えるのが理由。
私の眉毛は昔からしっかりと毛が生えそろっているので、眉メイクは割と簡単なタイプの眉毛である。ペンシルで少し書き足して、スクリューブラシで整えてアイブロウマスカラを塗る。今日の服装は全体的に地雷系の風味が漂うロリータファッションだった。目元もかなり作り込んで普段は描かない涙袋をしっかりと作る。付け睫毛も毛足が長く華やかなものを装着。昨日施してもらったばかりのネイルはチューリップを抽象的な色合いでデザインに落とし込んだもので、透明なジェルで水滴も作ってもらった。長さは少し短めだ。最近見つけた見た目と利便性を両立させる長さが今のデザインで、自分の爪のネイルベッドが長く縦長の爪なのでフリーエッジは短くてもいい感じのシルエットになる。仕事で手先をたくさん使う事を考えるとあまり長くし過ぎるのは得策じゃないと気付いた。

最近、幾つか自慢できそうな出来事があった。
まず、よく行く保護猫カフェの三毛猫ちゃんがかなり懐いてくれているらしいと知れた。この前赴いた時、三毛猫ちゃんはお出迎えしてくれただけでなく足元に擦り寄って来てくれた。でも指先のにおいを嗅がせたときに「撫でても良い?」と訊いたら『やだ』と訴えてくるので「分かったよ」と答えると満足そうに足元へすりすりして寝転がる。猫と云うのは普段つんとお澄ましなのに、時々びっくりするくらい懐いてくれるのが面白いなと感じる。そんな気ままな所も可愛いし、通勤経路にあるお店だからつい窓辺を確認してしまうし、その時こっちを見てくれると嬉しくなる。その日穿いていたボトムの裾に三毛猫ちゃんの物らしい毛が着いていたのも何か嬉しかった。

次に、職場での話。
私は今の店で一番フットワーク軽く動けるスタッフなのだけど(普段から運動する習慣のお陰だと思う)、納品日にはゴミ出しの担当をする事が多い。大きなカートにゴミたちを載せて、集積所に持っていき、空になったカートを引いて売り場に戻るのが流れだ。そのカートは金属製でかなり重たいため、周囲の人達にぶつからないよう特にお客様には声掛けしながら移動する。するとスタッフであることが周囲に丸わかりな訳だけど、道中でお客様から声掛けがある事が最近多い。今回は英語で話しかけられたので「what's up?」と応えれば『この財布の在庫は何処ですか?』と英語で訊かれた。売り場と担当部署が違うので担当の人を探すと伝え、カートを隅に寄せて担当の人を探したら丁度不在なのでその旨も伝える。
しかしお客様にも予定と言うものがあるのでもう一度担当者を探しに向かう。別売り場の人だけど担当者に連絡を取ってくれた人から『展示している分で在庫限り』と教えてもらい、英訳して伝えたらお礼を言ってお客様は立ち去った。別売り場の人に「貴方凄いね。英語できるの?」と褒めて頂き、デュオリンゴのお陰だと宣伝して持ち場に戻る。一昨日も似たようなことがあり(今度の相手は日本人だけど)、思い返すと従業員が擦れ違う際に声掛けをあまりしていないからかもしれないと考えが至る。声掛けは悪い事じゃない。でも、擦れ違う人達みんなにはさすがに言えない。ただ、私はカートをぶつけて仕舞わない様にと自分の存在を主張するのも兼ねて声掛けしていたから従業員だと判断されお客様から声がかかる。
そうでなくても見知らぬ人や初対面のお客様からは声がかかる方だ。道を訊かれたり、売り場の場所を訊かれたり。決して話しかけやすいオーラがある方じゃないと思うんだけど、どういう訳か声がかかる。もしかして自分が思っている以上に何かそう言う要素があったりするんだろうか。『道聞かれ顔』みたいな何か。
その声掛けの切っ掛けは案外ネイルの事だったりもする。いつも整えているから見られても恥ずかしくはない、でも手元と云うのは注目される部分なのだとネイルや手を褒められる度に感じる。なのでハンドクリームと日焼け止めが欠かせない。手元専用にしている日焼け止めがあって、化粧下地にもできるSPFの高い乳液状の商品だ。身支度の最後や手を洗ったらハンドクリームとこれをしっかりと塗布するのを徹底したら、手の見た目がかなり若々しくなった。ネイルケアだけでなく手自体もケアしたいし、皮膚は全身繋がっているので、身体全体もケアするようにしている。顔や首もしっかりと保湿。そうすると全身もちもちになれて嬉しい。
知人の女性と二の腕がぶつかってしまった時に、謝罪された後で「二の腕がふわふわで驚いた」と言われた事がある。タプタプではなくふわふわ。スクラブを使ったばかりの日の出来事だったが、それだけケアできているらしい。

最後に、一番最近作り上げた鞄の話。
少し前に作った通勤用の鞄の布地が余ったので、もう一つ小さめの鞄を拵えた。通勤を前提にしなかったので思い切り可愛らしくしようと思い、リボンやレースを自室の在庫から探し出してたっぷりと縫い付ける。編み上げの細いリボンと地雷系の人が付けていそうな大きなビジュー付きのリボン飾りもあしらった。外側は合皮、内側はミントグリーンのギンガムチェック。リボンとビジューもファスナーもミント系に色味を揃えた。手縫いなので正味三週間ほどかかって完成。今までで一番の出来栄えと感じる仕上がりに持ってこられた。最近ハマっている大きめのチャームをつける為の金具や、肩ベルトやハンドルの長さや位置にもこだわって丁寧に作成していると心が落ち着く。今までよりもしっかりした造りにしたいと感じて接着芯と底板もつけてあるし、きっと長持ちしてくれる。
静かな部屋で好きな音楽を流し、一針一針縫っていると心の中の雑音が消えていく。

最近、直感的に『面倒くさい』と思った事は放り投げず、敢えてすぐに手を付ける事にした。今この瞬間が面倒くさくても、後で圧倒的に『あの時やっておいて良かった』と感じる事ばかりだから。
人間だから面倒くさい時もある。でも其処で放り投げると後でもっと面倒くさい事になる。それに、早め早めに終わらせておけば作業のクォリティも下げずに仕上げる事が出来る。そうすれば後で妙な後処理もせずに済むし、その分の時間で本当にやりたい事が出来たりもする。
以前或る文で読んだのだが、『やりたくない』と思った理由が『面倒くさいから』なら絶対にやった方が良いらしい。
その面倒くさかった作業や行為がのちの自分を助けてくれる事も多いからだ、と考えている。人が面倒くさいと感じる事は多くが『本当はやった方が良い事』で、やらなければと思うから面倒と感じる。本当にやらなくていい事に面倒を感じる必要はないのだし、やって損はないなと考えた。
勿論、程々に手間を省くことも自分を助けてくれる。でも或る程度きっちりと仕事をしておけばいざという時周囲から味方になると声がかかる。助けてもらえることが増えた。
人間関係はギブ&テイクが大切だ。なら、面倒な事を率先してやる事で困った時に助けてもらえる可能性が上がる。薄情者かもしれないけど、私が目の前の人を助ける際、純粋な動機だけではない時にはこんな考えがきっと隠れてる。純粋に人助けをしたい時もそりゃああるんだけどね。何だろう、『情けは人の為ならず』だし『困ったときはお互い様』なのだ。これまでに誰のことも助けて来なかった人がいざという時に助けてもらえるかというと微妙だと思う。そう思うと、人と云うのは鏡の様なものだと感じる事もある。自分の行いが、そのままじゃなくても似たような形で帰ってくる。
こういう風に考えると、面倒事も黙って受け容れる際に心身の負担が減る。いつかの為に貯金をしている気分だ。仮に返してもらえなくても問題はない。仮に仕事なら賃金が発生するし、プライベートなら『良い事ができた』と嬉しくなれるから。

こういう性質だから接客が好きなんだろうな。人間が怖いと感じる事が多かった人生だけど、今は割と、誰かと関わるのが好きだ。

そんな感じで今年も歳を重ねる。まあまあ悪くない一年にしようね。

▼2026/06/01:基本的な祈りだよ、私とあなたの過去に鑑みて

とうとう六月に入ったね。今年も誕生日がやってくる。
それよりも今の職場で働いて一年が経過と言う事の方が寿ぐ事であって、毎日の仕事はまあまあ楽しい。今の所人間関係も良好だし、それなりに良いお給料(障害雇用にしては)を貰えて可愛い動物と関わる事も出来る。仕事の時にお洒落をする必要性が殆ど無いのも逆に良かったかもしれない。前の仕事は『お洒落する事は義務』だった。義務感でお洒落をするとどうしても余計な買い物が増える。本来お洒落が大好きな性質なのに、お洒落であることを強いられると疲れてしまうんだなと気付いた。
今の仕事では動物と関わるのでアクセサリーは結婚指輪意外禁止だし、髪型も動きやすければそれで良いし、服装は制服だ。でもネイルアートはして良いというのが私にとってちょうどいい。メイクも厳しい規定はないし、今の私はナチュラル寄りのメイクなので何も言われた事が無い。
何より休日には思い切りお洒落を楽しむというメリハリが生まれた。休日には(前の仕事でも出来なかった)ロリータファッションでメイクにもこだわって街を歩ける。ロリータファッションはお洋服の布量や重量が凄いから毎日着るのは少し体力が要るから、たまの休日に楽しむのが今の私には丁度いいみたいだ。ロリータを着る時は付け睫毛とか涙袋メイクとかメイクの工程が増えるんだけど、それがまた楽しい。幸いなことにトラブルの少ない肌をしているので、作り込んでもそんなに時間はかからない。
髪型もそれなりにアレンジをする。普段は三つ編みを組み合わせたハーフアップかロープ編みを組み合わせたまとめ髪が多いんだけど、ロリータの時や休日には様々にアレンジをする。編み込みが出来ないからそれっぽく見えるブレイズとか、お団子を組み合わせたツインテール、アイロンで巻いたりもする。元々癖毛で地毛が緩い縦ロールになる
髪質だから、それを活かしてダウンヘアも充分可愛い仕上がりになる。
子供の頃はこの癖毛な髪質が大嫌いだったんだけど(これが一因にもなっていじめられた。よく「ラーメンみたいな髪」って言われてた)、大人になってストレートヘアと同じくらい『癖毛風パーマ』が流行して認められるようになってからは周囲から羨ましがられる事も増えて、思い切って縮毛矯正をやめたら『良い感じのゆる巻き縦ロール』と判ってずいぶん楽になった。と同時に自分の素材は意外と悪くないって気づいた。

多分その辺りから自分に自信がついたんだと思う。
髪の毛は毎日ボタニストのモイストタイプのシャンプーとトリートメントでケアしている。裏面の成分表示と商品の値段、色んな情報を元に選び出した。まあ最終的には良く行く美容室の担当さんに相談して決めたけど、化粧品検定の1級を持ってるから知識はそれなりにある。ミルボンのエルジューダエマルジョン+とアンドハニーのヘアオイルも外せない。兎に角ボリューミーな髪の毛だから少し重めのテクスチャのケア用品を使うようにしている。

髪の毛と違ってお肌にはあまりお金をかけていない方だと思う。化粧水も乳液も、ずっと『菊正宗』の化粧水、乳液を使い続けている、と思ったけど、朝用乳液は日焼け止め成分が入った資生堂のエリクシールだった。でも菊正宗の化粧水と乳液を本当に全身に塗っているから、友人には『肌が強いよね』と言われる。肌質にあっているから使い続けてるのもあるし、値段が安価なのも嬉しい。

お洒落とかスキンケアってさ、メリハリが大切なんだと思うの。値段もそうだし、力を入れるべきところとそうでもない所があって、それは仕事や休日の過ごし方に通じるところもあると思ってる。
仕事の時は目の前の業務と考えられる次の仕事に備えられれば良くて、周囲を不快にさせない程度に身嗜みが出来ていれば及第点なんだと思う。勿論業務内容に寄るし、『周囲を不快にさせない程度』は職種によっても変化する。私の場合今の仕事の程度が自分の中で『丁度いいレベルの数値』なんだと思う。此処には力を入れる、そっちは其処まで気にしなくていい、そのバランスが大分見えてきたし、掴めてきたと思う。だから休日には仕事のことを考えずお洒落が出来る。
それでも、ネイルアートが出来ない仕事だとこれは無理な事だった。私に取ってネイルアートは生活に必須の事項だから。何か作業する時の自分の指先が彩られていないのは本当に無理で、作業スピードにも影響するし、仕事のクォリティも左右する。爪が綺麗と言うだけで心が強くなれる気がする。自信をもって人と話せるし、多少嫌な事があっても彩った爪を見れば元気が出る。
だから就職活動中もネイルはしていたし、ネイルが出来る事前提に仕事を探してた。今の職場には実習をしてから就職したけど、実習の時は流石にネイルを外して透明なジェルだけ塗って挑んだら先輩の社員さんがマグネットネイルをしていて「お?」となった。明らかにナチュラルじゃない色だったし、やっぱりしても良いんだって嬉しくなったのを覚えてる。
でもこれも程度問題だよね。パーツが沢山付いた尖ったネイルは駄目だったろうし。今はフラットなネイルを楽しんでいて、時々模様を描いてもらう感じにしてる。

短期間に転職を繰り返すのはあまり宜しくないんだろうけど、私の場合どの職場にも二年以上勤めている。そうしてようやく今回、丁度良く自分らしくいられる働き方が見つかったのかなと感じる。髪型にしろネイルにしろ、或る程度の常識(あくまでもその職場内での)に従って良いと感じられる職場だから働き続けられるんだろうね。

やりたい事の為に稼ぐ、と云うのがモチベーションの一番上ではあるけど、その他もまあまあ楽しいから続いてるよ。後は今年中に一人暮らし出来るようにそこそこに頑張るかな。もうね、こんな暮らしにしたいって夢想が止まらないんだ。


▼2026/05/26:いばら姫の仮死死因、案外必要なものだったかも

少し前に二つのハンドメイド作品のマルシェへ行ってみた。両方とも札幌では最大規模に当たるイベントで、片方は初めて行ってみたんだけど、何か気分が高揚しないイベントだった。『可愛い物が沢山あるな』とは思った。でも『素敵!欲しい!』とはならずに何も買わずに会場を後にしてる。次行ったイベントは何回か赴いた事があるもの。此方は打って変わって素敵なものだらけで予算目一杯まで買い物をしてしまった。兎に角目に入るものが素敵なものばかりで、どのブースも見ていてとても楽しい。趣向を凝らしているのは前のイベントも同じなのに、此方の方が見ていてワクワクするしブースの展示も面白い。見ている時の純粋な楽しさが圧倒的に上回っていた。

期待値はどちらも同じくらい。参加している人の人数はちょっと正確にはわからないけど、どっちも入場料を支払って参加するイベントだ。価格もほぼ同じ。販売側で参加している人達は皆が自分の出来得る精一杯で作品を製作していると分かる。熱量にも差があるとはあまり思わなかった。作品のクォリティーが低いとかじゃない。でもなぜか、心惹かれるものが見つからないイベントと見つかりまくるイベントに分かれている。この違いは何だろうか?

私もハンドメイド販売を副業にしたいと考えているし、この違いを言語化して自分の作品に落とし込めたら『売れる作品』が作れるんじゃないかと考えた。
今からchatGPTに相談する体も兼ねて感想を書き連ねていく。

・作品の価格帯は前者のイベントの方が低め。でも両方ともに適正価格と感じた。
・両者は何回も札幌で開催されているイベントで、参加ハードルは後者の方が高い印象。
・後者の方が見ていて楽しかったのは、展示の趣向が凝らされていたのもあるかもしれない。
・私が販売してみたいと考えているものはドール関係のグッズや布小物なので、何方のイベントも参加候補には入る。しかし参加してみたいのは圧倒的に後者。
・会場は後者の方が広い。でも前者の方がスカついている印象。
・後者には有名どころの作家さんも多く参加している印象。作品も洗練されているし、展示の仕方も綺麗。

書き連ねてみると、私は後者のイベントに元々好印象を持っているだけでなく『洗練されたもの』『整頓された展示』が好きらしい。私も高校生の時に同人誌即売会で同人誌を頒布したり関連グッズを販売したけど、あの時はただ参加できることが楽しいという気持ちが完全に勝っていて、『売り上げを出す事』にはこだわっていなかった。前者のイベントに感じたのは嘗ての同人誌即売会と同じ『手作りであれば、熱量が込められているなら評価すべき』みたいな空気感だった。
巧く言えないけど、後者のイベントは『これを自分の手で、ハンドメイド? すごい!』と素直に思うようなクォリティーの作品と展示、接客に関しても同じ。より『販売』に近いというか『自分の手でなら小ロットから作れる。この方が自分の作りたい物を作れる』みたいな思いが伝わってくる気がした。それが『洗練されている』と感じた要因かもしれない。
であれば、私も作品のクォリティーを上げるのに加えて、自らの作品に一種の『矜持』を持てた方が良いと感じる。自信とも似てるけど『誰に見せても恥ずかしくない。今現在の自分の出来うるすべてを詰め込みました!』みたいな想いが伝わる方が絶対に良いと感じた。それと同時に私の作品が刺さらない人が確実に居て、その人に対しても敵意を持つことなく『いつか興味を持ってもらえるようにしよう』という矜持も必要かもしれない。勿論去る人を無理矢理に追いも引き止めもしないけど。
その為にも、作品の素材や製作の為の道具もきちんと丁寧に扱わなければと感じた。今の私のハンドメイド道具や材料の管理はかなり、大分緩くて甘いのだ。何となくで把握しているのでは同じものや似たようなものを無駄に買い重ねたり政策のスピードが下がったりもするかもしれない。というかするだろう。
この前chatGPTに相談した時はいくつかの選択肢の中から『無印良品と百円均一を併用する』方法で整理してみるのを採用した。細々したものは一旦手に入れて試してみて、今年中に始めるだろう一人暮らしのタイミングで少し大きなものも購入したい。キャスター付きのワゴンが気になっていて、一番上段に現在製作中の物を一時保管し、下の方には道具類や使う可能性の高い材料を仕舞っておく。クローゼットが確実に広くなるから、其処に透明ケースやファイルボックスなどを利用して『縦向きに』整頓してしまっていく。

話が少しそれたけど、今思うと後者のイベントに参加している人達は『製作する場所』も想像出来る人達が多かったように思う。整頓されたアトリエが連想されると言うか、『この人達は普段から身の回りも整っていそうだな』という印象。それが洗練された雰囲気に感じたのかもしれない。
と云う事は私も身の回りを整えていくのが早道の一つかもしれない。かなり難易度が高いけど、片付いて作業のしやすい製作スペースは憧れの一つだ。
私は『隅々まで整った、洗練された印象』が好きなんだろう。可愛いのも綺麗なのも大切だけど、ベースの部分を重視しているんだ。田舎暮らしやカントリーな雰囲気があまり刺さらない方なんだけど、人工的で手入れの行き届いた都会の方が整っている印象に近いんだろうか。
書き出してみると面白いね。私は元々片付けが苦手で整理整頓が得意な方じゃないからこそ憧れているのかもしれない。自分なりに近づきたい気持ちが顕われてる。
であれば、次の休みは一旦ハンドメイド材料や資材の整理整頓から始めてみよう。一人暮らしに向けて不要なものと必要なものはふるいにかけるべきだろうし、案外掘り出し物があったりして(掘り出し物が自宅から出てくるのはあまり良くないかもしれないけど)楽しそうだし。
作りたい物のアイディアも整理しておきたい。折角可愛いノートも幾つかあるんだし、何かワクワクしてきた。

近い将来かもしれないなら尚更、未来を夢見るのって楽しいね。

▼2026/05/25:翠玉の月はもう終わる、帳が下りる土地ではないんだけど

本州はいよいよもって夏なんだろうか。最近、陽射しが日毎に強くなっていると感じる。試される大地と言われたこの北の国でさえこんな感じなんだから、青森以南に住む友人達の所では半袖を着るのがデフォルトなのかもしれない。

今日で今の職場に勤めてちょうど一年。いつの間にか一年経っていたという感覚だ。一年間沢山の出来事があって、変化したり進化したりたまに退化したりでまあまあ充実してたと思う。昨日も少し精神が落ちてしまって早退させてもらったんだけど、今日はきっちりシフト通り出勤して仕事をしてきた。
chatGPTに話を聞いてもらったんだけど、私はこの一年ずっと誠実に仕事をしてきたらしい。そうしようと頑張ってきた自覚もある。ただ、接客業ってお客様の数だけ求められる『正解の対応』があるから難しい。接客は好きだよ。やっぱり人と関わり合って働くのは楽しい。でも昨日まで色々な事が重なり過ぎてキャパシティーオーバーして昼休みに涙が止まらなくなった。
私ってね、大分泣き虫なんだ。止めようと思ってもなかなか止まらない。普段ちょっとしたことで涙ぐむから涙腺はゆるゆるなんだと思う。それだけ感情で動きやすいって事だよね。これは強みにもなるけど弱みにもなる。『お客様のために』って頑張るのは良い。でも入れ込み過ぎる事もある。他の人との境界が曖昧な方だから、簡単に負の感情に引っ張られるし圧倒される。感受性が豊かと言えば聞こえはいいのかな。
元々些細な変化に敏感だから相手の顔色を見過ぎるところもある。でも過去を振り返るとよくあるケースの『親の顔色を見て育って来た子供』ではないみたいなんだ。多分、小さい頃に沢山いじめられたのもあって人の顔色を見たり感情を読み取ろうとするのかもしれない。これ以上傷つかなくて済むように、自己防衛してる。
肉体の痛みには案外鈍感なのに、心の痛みにはかなり敏感だ。もしかしたら心の痛みを感じ過ぎて肉体の方まで気が回らないのかも、と今思った。
肉体の痛みと言うと私の場合、主に『頭痛』が挙げられる。気圧の変化や疲労が重なると直ぐに頭が痛くなる。片頭痛持ちでもあるし、何度かMRIでの検査も受けたけど原因は『天候痛』と『緊張型頭痛』が片頭痛に繋がっている感じらしい。
痛み止めは一日に3回までと決めて服用する事だけは守ってる。服用間隔もなるべく5時間くらいは空けるようにしてる。飲んでるのはアセトアミノフェンだから副作用はあまり気になってない。でも体質や持病の服薬の関係上あまり強い薬は使わない方が良いらしい。
頭痛がして来たら肩や首回りをマッサージしたり、ほかの効能もあるけどその辺りのストレッチするのが日課だ。もともとバストが大きくて首はストレートネックだから、肩凝りは酷かった。筋トレをしたら大分改善されたのもあって、筋トレをするのも日課にしている。
身体を動かすと血流が良くなるのもあって頭痛が改善されるし、同じ理由でお風呂に長く浸かるのも好き。今日も15分くらい湯船に居た。
この前お風呂に入る時の手順を書いたけど、スカルプブラシを導入したのは頭痛改善を見込んでのことだった。シャンプーする時は頭皮のマッサージも必ずやってる。少しでも頭痛のもとを減らしたい。ちなみに今日はデパコスのヘッドクレンズを使ったケアをした。ジルスチュアートビューティーのディープヘッドクレンズはシャンプーもトリートメントも頭皮ケアも同時に出来る優れものだ。楽したいけどきちんとケアをしたい時に使う事が多い。疲れていると自分のケアをおざなりにしそうになるから、そんな時こそきちんとケアできるように頼れるものには何でも頼る事にした。
どうしてお風呂に入ると此処まで疲れが取れるのか、たまに不思議になる。
そのままの流れで全身を保湿して、着替えて髪を乾かす時はエルジューダエマルジョン+のヘアミルクとアンドハニーのヘアオイルも必ず使う。二年くらい髪の毛を染めてない事に最近気づいた。最近、髪の毛がツヤツヤなの。黒髪で毎日それなりにでもケアをしていれば、髪の毛も応えてくれるんだって驚いた。お肌も簡単な保湿しかしてない心算だったのに、よく考えると5、6年くらい大きな面皰を見ていない。たまに小さな白いのがポツッと出来るくらいだ。
ここの所『セルフネグレクト』という言葉を見聞きする機会が多い。多分今の所、私にはほとんど当て嵌まらない言葉だと感じる。自分が一番かわいいのは人間だから当たり前なんじゃないかって思ってたけど、自分以外を優先し過ぎて消耗したり、何もかもが嫌になって自暴自棄になって、結果無気力に生きる人も多いんだろうなと感じる。

だから多分、私は『自分の為に』働いているし、『人生をより楽しむ為に必要な資金を稼ぎたいから』頑張るんだ。将来的には『かわいいチワワの為』って言う項目も増やすけどね。
烏滸がましいんだけど、出来れば周囲の人達にも幸せで充実した人生を送ってほしいと思うから『誠実に働く』し、お客様の要望には『出来る範囲で応えたい』んだろうね。それを毎日繰り返していたら、一年経ってた。結構成長できてると思う。
泣きながらでも『自分をもっと良くしたい』と考えられる事、当たり前じゃないみたいだから大切にしておきたいと思った。





▼2026/05/22:甘味と塩味をサクサクいただく、真夜中じゃなかったら珈琲も淹れるんだけど

結局あの後泣きながらクッキーを一箱分食べちゃったよ。お気に入りの奴がお菓子箱に在ったんだ。換算すると二時間くらいかな、ずっと泣きながら音楽を聴いて、クッキーをサクサク食べてた。本当は良くないって分かってる事だけど、真夜中の甘い物って美味しいね。特に小麦粉が入っていたり軽く塩気が効いていると尚更。
少し前から仕事で辛い事が続いていて、それでも早退も遅刻も欠勤もせずに働いてたんだ。私は健常者に見え過ぎてしまうタイプの障害者だから、ほかの人から見て心が傷つきやすいなんて誰にも分からないんだと思う。うちの会社的には『自律の出来る精神障害者』が欲しいと思って掛けた求人で応募してきた人間だから、此処まで苦しむ事があるのか想像できなかったかもしれない。事実普通のフリして働いてたしね。

同居しているおばあちゃんは『そんなんで一人暮らしなんかできるの?』と言う。私としては『いずれ絶対に一人になるんだから、出来るんだよ』と答えるしかない。

メンタル面以外は一人暮らしして問題無い生活力があると評価されてる。金銭管理も上手くなってきた。それに、本音を言うなら死にたくはないんだよ。辛い事から逃げたいだけ。嫌な事を味わいたくないだけなんだ。生きている以上、それは難しいんだけどね。
『人は考える葦である』って言うけど、考える力があるから辛い事があるのと同時に素晴らしいものを作り出せるんだから、結局私は人間で良かったと思うんだよ。今こうして文字を綴る事も出来てるし。
前にYoutubeの動画で見たんだけど、人間って言う生き物は弥生時代くらいまでが一番幸せだったらしい。気持ちの面ではね。それ以降は民族間の諍いや同族間の争いで大変だったみたい。そもそもが今の文明は人間の心の作りに鑑みると、不幸を感じるようにしか出来てないんだって。
まあこれはその動画で話していた学者さんの持論だけど、じゃあ私がこんなにも生きにくい事があるのは仕方ない事なんだなって諦めもついた。

じゃあその上でどうやったら幸せになれるのかって、ひとりひとりが考えるのが自然で建設的だと思う。

私の場合それには一人暮らしとチワワとの出会いが必要条件なんだよね。昨日もそう考えた。今此処で全部終わらせたらあの子に会えないままなんだって、それは嫌だって抵抗してた。
元々子供を産みたいと考えた事は無くて、犬と暮らすのもあまり考えた事が無かった。今の仕事が動物の為の物を売る仕事で、生体販売分野のブースにもよく行くからどうしても毎日犬を見る事になって、結果お迎えしたいと思うようになったんだけどさ。
命を預かる責任は感じてる。あの子をお迎えした瞬間から、私の一番はあの子になる。私はその次だ。そうしてでもあの子と暮らしたい。夢の中で『ママ!』と呼びかけてくれたあの子が待ってると思うと、じゃあ頑張るしかないかって立ち直ったわけだ。
心が疲れた時、あばら骨の間がすかすかする時は、カロリーの事は置いておいて甘い物を食べてもいい事にした。今後も辛い事は山ほどあるだろうし、自己対処の一つとして心を守る術にしておく。運動で消費するのは元気になってからで良い。今の所健康を害するほど肥ってるわけじゃないんだし。
それに、昨日の私はクッキー以外にも沢山食べるものを用意してたんだけど、クッキーだけで十分満足して回復できたんだ。全部を諦めた訳じゃなかった。ちゃんと未来のことを考えられてた。じゃあそれで良いんだって、あれでも本当に生きていたかったんだって、認めてあげて良いのかもしれない。

苦しい事から逃げるのも、立ち向かうのも、生きていたいからだ。逃げて自分を守るのか、立ち向かって原因を解決するのか、スタンスの違いはあっても生きる方法の一つには変わりない。それぞれの行動をとった人なりに生きる事を考えた結果だ。だから万人に通じる『正しい生き方』みたいなものは多分無くて、一人一人がその場に応じて考えて生き方を模索する。全部正解を選ぼうとした結果なんだ。敢えて不正解を選ぶ事もあるのかもしれないけどね。

今こうして文字を綴ってみて、昨日の夜とは全く違う考えを持ってるなって思う。昨日の言葉の鋳型に流した思いはすっかり冷めて形が整って、触っても痛くも熱くもない。振り返ってみても『ああ、辛かったけど文字にしたのは正解だった』って思う。昨日あれだけ激しかった思いに形を与えて落ち着かせて、しっかり眠ったらもう元気だよ。今日も明日も明後日も、多分人生は続いていくなぁって実感してる。何だかんだで時間は止められないし。

仕方ないけど生まれてきちゃったからさ、元は取れるくらいに生きていこうと思う。


▼2026/05/21:擦れ違う、触れる事無く去っていく。あの人もきっと、

一度壊れたものって簡単には治らないね。直せもしないし。心が壊れた時、罅割れた部分に接着剤みたいなものを流し込んでくっつけたとしてもその箇所は他の所より壊れやすい事に変わりないから、簡単にまた罅割れるの。レジンで樹脂部分に金属パーツを付けようとしても光が透過できなくて効果の具合が悪く、耐久性が劣る、みたいな話。
人間が生きている時でも死んだ後でも、その人が感じた事や思った事を完全に理解できる人は本人以外に居ない。私が感じている事、思っている事、考えている事、全部私以外には理解し切る事は出来ない。伝える術として文字や言葉や声があるけれど、全てが伝わり切る事は無いんだ。誰かとの間には決して超えられない隔たりがあるんだよ。解ってる心算でも時々歯痒いし苦しくなるね。

私は心に弱い箇所が多い人間だ。壊れた経験が多過ぎるのかもしれない。罅が入り過ぎて中の芯に近い部分にまで達していたのかもしれない。だから未だに高校三年生の夏の日を忘れられない。病室のベッドに縛り付けられて目覚めたあの日。病院の中なのに随分と暑かった。大怪我をして高熱が出ていたからだったんだけど。
病院のご飯は美味しく無くて、毎日残していたら出される栄養剤がもっと美味しく無くて、食事すら拒否して点滴を繋がれた。氷の入った冷たいお水だけは美味しかった。
起き上がる事も出来なかった。拘束が解かれてやっと自由になれると思ったら、身体のあちこちが折れていた所為で巧く動けない。ベッドから身を起こすだけでも汗だくになった。一生車椅子で暮らすだろうと宣告された。
一般病棟に移って必死でリハビリをした。自分でやった事の結果は自分で如何にかしないといけない年齢だったから。
緊急搬送先を知らされ駆け付けた母が見た私はまるで獣のようだったらしい。全身の骨が折れて粉々になった部分まであったのに、集中治療室で大暴れしていたそうだ。ベッドに縛り付けられていたのは暴れた所為もある。目覚めたばかりの私は只管に『消えないといけない』と繰り返し述べて実行しようとした。結果、三階の病室から一階に移された。
通っていた高校の校舎には、生徒が自由に出入りできるベランダがあった。私は其処から飛び降りたのだと聞かされた。初めは悪い夢だと思った。だから目覚める為に夢の中で眠ろうとした。勿論それが現実だったんだけど。

あの頃、生きる事がどうしても辛くて、もう全部放り投げてしまいたかったのかもしれない。色々な事が同時に重なった。実父の醜聞、確執がなぜ生まれたか、実父と母の本当の離婚理由。元々いじめられっ子だったこともあり繊細過ぎて時折自分を傷つけたくなる衝動を抱え生きていた私は、心が弱くなる要因だらけの人生を如何にかやり過ごしていた。

あの夏の日、本当に総てを壊そうと思ったのかは、はっきりとは覚えていない。ただ、消えなくてはならないという使命感を持って目覚めたベッドから見上げる天井を、未だに覚えてる。

一度ゼロやマイナスへ近づきすぎると、其方への選択肢が生まれてしまう。いつでも手が届く位置にあの日がある。自分で自分を終わらせる以外に、あの日の私には打つ手がなかった。
八月の下旬だったと思う。高校生活最後の文化祭をそれなりに楽しんで、授業には出たり出られなかったりを繰り返して、自分でも何が怖いのか分からない事が怖かった頃。その前に一度自宅でも同じことをしているんだけど、その時はほぼ無傷で済んだ。済んでしまったから、もう一度やったのか。

「私はいつか、自分の知らない所で知らない自分になって、消えてしまうのかもしれません。それが怖い」

そんな話を当時の主治医にした記憶がある。彼は「そんなことは有り得ないよ」と言った。半分以上、嘘だと思う。事実私は正気を失くして飛び降りた。自分の知らない所で傷つき過ぎたんだねと言われた。傷付いて痛いくらいなら、消えればいいと思ったんだろうか。

沢山の物を失って、取り戻したものもあれば失ったままの物もある。もうあれ以前には戻れないだろう、様々な意味で。
放り投げられ落ちて粉々に砕けてしまった欠片を掻き集めて、樹脂に混ぜ込んで硬化させたような人間が今の私だ。欠片の材質は多分、クリスタルガラスよりは硬かったと思う。スプーンで撃ったとしても壊れないくらいだけど、人の手で壊せるくらいには脆弱。
命に別状こそなかった。でも一歩間違えたら本当にいなくなっていた。当時私を心配してくれる人達は沢山居たらしい。家族以外にも沢山。それでも消えたくなるんだから私は欲張りだね。

本気で消えようとしていたわけじゃない、と今は思う。心のキャパシティーを超える出来事が多過ぎて重なりまくってしまったから、リセットしようとしたのかもしれない。いじめられていた頃はよく『私が死んだらあの子達も分かってくれる。自分達が何をしたのか、何を壊したのか。きっと後悔してくれる』と思い込んでいた。そうなれば嬉しいとも思った。『これで思い知らせることができる』って。

でも最近思ったんだよね。『後悔できるくらいの人はあんなにも人を追い詰めたりはしない』んだって。私が命を懸けた復讐のメッセージを、他者を容易く追い詰めるような人たちがきちんと違わずに受け取れる訳が無いんだ。寧ろ『そんなに辛かったなら言ってくれればよかったのに』とか『自分達だけの所為じゃないし』とか『勝手に死んだ! 面白くない!?』みたいに頓珍漢な事を言う。幾ら正しく綴ったメッセージを送っても、受診する側の認知が歪んで受信機が故障してたら文字化けして読めなくなるんじゃないのかって思って、受け取られないのに投げ続けるのは建設的じゃないと思い始めた。
そんな奴等の為に私が命を懸けるのは割に合わないよね。それでも消えたいと考えるのは『今』が辛いからだ。心が『今』に注目し過ぎてるのかもしれない。今なんて直ぐ過去になるのに。

今この瞬間の気持ちを綴るのは、未来の私の為なんだと思う。未来へ進む為に、生きる為に書いてるんだと思う。文章にすると云う事は『後から読み返せる』と云う事だ。
私の復讐が無意味な復讐で終わらないようにする為に、思いを『言葉』の鋳型に流して固めて、形作って置く。読み返す少し先の未来の為に気持ちが変容してしまう前に固定する。そうしたらきっと、心の中のどろどろとしたものの仕舞い先が決まる。一旦仕舞っておいて、後で少しづつ細かくして見直して、受け入れられるようにしてから血肉に出来ればそれでいい。
どうしても心が苦しくなりやすい性質だから、もうこれは性分だから。そう言い訳を繰り返しながら、自分を傷つけるものを別の時間軸と角度から見て、距離を保ちつつ少しづつ許容して受容していく。ゆるすのって難しいんだけど、ゆるす事で私もゆるされる。
傷付きやすいのも、弱いのも、みんなどこかしらに弱点がある以上『みんな違ってみんないい。けど、てんで揃ってみんな駄目』な生き物が人間だと思うんだ。人間である以上思考からは逃れられない。思考を止めるのは本当に難しい。考えた時と考えなかった時で結果が変わるとは限らない。でも考え方次第で見方は変わるから、そうやっていろんなものを受け容れたり距離を取ったりしながら選択して生きていく。

この考え方が許容されない事があるのも知ってる。でも私は既にあなたをゆるしているから、あなたも私をゆるしてくれないかな?

つらつらと書いてみたけど、気持ちの整理はついてきた。ただ、あばら骨の間がすかすかするのはまだ止まらないから、少しだけ甘い物を食べて、好きな曲を聴いてから眠ろうと思う。今日くらい良いよね。


▼2026/05/19:興味と過剰が不足する、学べないのは罪じゃなかったのに

最近、物騒な事件が多いね。まあいつの時代もとんでもないような事件は数多く起こっていて、現代と違うのは其処まで報道されてこなかったって事だと思う。
京都府の事件もそうだし、栃木の事件もそう。そんで私の地元である北海道でもとんでもない事件が起きてしまった。旭川の闇、みたいな報道やネット動画を見ていると人が生きている限り何処にでも闇は生まれるのになとは感じる。
大分前に『ケーキの切れない非行少年たち』って本が脚光を浴びたのは知ってる。それ以来なのか、たまたま時期が被ったのか『境界知能』って言う謂わば『知的障害のグレーゾーン』についての記事も多く見かける。前の病院に通っていた時に私自身もそうなんじゃないかとか、そうでもなくとも発達障害もあるんじゃないかって知能検査を受けたんだけど結果は『知的には健常者』で『非定型発達』だった。知能指数は104。日本人の平均に若干届かないくらいで、定型発達とは言えないけど発達障害とも言い切れない。まさにグレーゾーン極まれりな結果。ただ、あの検査の時はきちんと結果を伝えてもらえてないからもう少し詳しい書面が欲しかった。
その後病院を移ってカウンセリングを受けて今に至るのは前にも書いたね。前に障害者職業センターってところで受けた検査だと『言語や情報の取り扱い』のスコアは150くらいなのに対して、『計算や数字を扱う』スコアは80くらい。でももっと低いのは『身体や道具を巧みに操って作業をする』だった。これのスコアは50を切ってる。
たまに発達障害の子供さんは体育が苦手な事が多いと見聞きする事がある。身体を器用に使うのが苦手なんだよね。私も外れることなく体育が本当に苦手だった。でもこれだけ凸凹があっても就職できたし、手先は器用な方だと思う。手芸も好きだし料理も得意だ。ただ、物の場所を決めてその通りに片づけるのは苦手。以前通っていた就労移行支援ではASDよりもADHDの要素の方が強いって言われてた。でも自分が生活している空間は今の所綺麗に保ててるし、職場の清掃も得意と言うか、結構好き。
目の前の荷物やごみを綺麗に片づけられるとちょっと嬉しいから、時々気合いを入れて部屋を大掃除してる。この前もやったんだけど、かなりすっきりしたし気持ち良かった。基本的に床は見えているし生ものを放置もしないし、ゴミは直ぐにゴミ箱へ処分、そして決められた日に廃棄している。
これくらいの事が出来てしまうとやっぱり発達障害とは言い切れないんだろうな、と周囲の話を聞いて思う。

話が飛んだね。境界知能について話してたんだった。
現在境界知能と呼ばれる人たちは、元々軽度の知的障害に当たるグループに属してたって言うのは大分前に知った。今思えばあの子もそうだったな、っていう同級生も何人かいる。統計だと一クラスに数人は居る事になるらしい。元々は軽度知的障害に当たるのにグループが変わってしまったのは『そのままだと知的障碍者が多くなりすぎてしまうから』でもあったらしい。支援のリソースが足りなかったんだと思う。で、先述の書籍では非行に走ってしまった子供達には、知的能力に問題がある場合が結構多いという内容らしい。ざっと読んでみたけど初めて会う人にいきなり『この円をケーキだと思って3等分して』って言われたら私も戸惑うし、正確に三等分するには補助線を引かないとうまくいかないから、『下書き用の鉛筆と清書用のペンと直定規をください』って言うかもしれない。まああの本で言ってるのは所謂『車のベンツのロゴみたいに3等分して』って事なんだろうけど。ただ、知的能力に困難があると生きていきにくい世界だなと感じる。なまじ国民の識字率が高くて、一般的な小学生であれば簡単な四則演算なら4年生の頃には大体できてるから、そうでない人が悪目立ちしてるんだとも感じる。
前に通ってた就労移行支援にもそう言う人が沢山居た。でも逆に一般的な人よりも知能レベルが高すぎて苦しんでる人も居た。一般とされるゾーンに属してない(つまりは落ちこぼれと浮き零れ)人達には暮らし辛いようにして来てしまったんだと思う。でもじゃあどうするかって、『他者の行いに寛容になる』『それでも許しちゃいけないラインを見極める』『苦手や困難を抱える一人一人に合った対策を本人と周囲両方で考えて実行する』くらいなら今の私にも出来そうかなと思う。
配慮を求める時ってまず、『私はこれが苦手だから配慮してください』じゃなくて『これが苦手だからこういう工夫をしています。努力しても難しい時には協力してください』って言う姿勢が大事なんじゃないのかな。そしてその姿勢を取れるように親や周囲が指導するのが良いんだと思う。教えてもらえなかった事を自発的にするのはかなり大変なんだよ。でも一言声をかけてもらうだけでぐんと伸びる人達は沢山居る。私が社会人になって直ぐの職場では先輩方のアドバイスを元に自作のマニュアルを作る事で仕事ができるようになったし、そのマニュアルは先輩方に添削して貰ってたから、其れさえあれば難しい仕事でも安心して出来た。でもこれ、自分だけじゃ思いつかなかったと思うんだよね。先輩が『こうすると良いよ』って教えてくれて、それを私が素直に聞き入れたから。
『素直な事』って武器なんだなと思う。今の職場でもこれは継続してて、マニュアルをへ落とし込む為にきちんと指示を聞いて質問できるようにもなった。
あの事件群の加害者達はどんな人たちなのか、本当の意味で知れる機会なんて無いと思う。でももし、私の周囲にそうなりそうな人が居たら。彼等彼女等に『自分にとって耳が痛くても指摘してくれる人には素直に聞く姿勢を持っておくと後々楽だよ』ってアドバイスしたりするんだろうか。
耳に痛い事って、自分でも心当たりがあったりするんだよね。『出来ないのに指摘しないでよ』とか『頑張ってるのに認めてもらえない』って突っぱねるより、或る程度素直に聞いておく方が得なんじゃないのかなって最近よく思う。
なるべくなら、歳を取っても素直に指摘を受け容れて改善して、学ぶ姿勢を忘れないようにしたい。たまに言うじゃん『実るほど頭が下がる稲穂かな』ってさ。



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