memo

▼2025/06/24:朝が来るのが怖いから、ずっと東へ背を向ける

つい最近、統合失調症の患者が殺傷事件を起こして起訴されたニュースを聞いた。
毎回思うんだけど、何故に統合失調症だけは病名がきちんと報道されるんだろう。私は結構迷惑だし不服だし、それなら全ての疾患(精神疾患だけでなく)を明記して報道してくれないと不公平じゃない? と考える。多分だけど『福祉にきちんと繋がり、それを拒否しなければ犯罪を起こさない人だった』と強調したいのかね。『福祉』とひとことで言っても種類も質も色々なんだけれど。
一番可哀想なのは被害者であるべきだ、今回の事件に於いては。普通に生活していて接点すらない人物に衝動のままに死傷される、そんなの理不尽以外の何者でもないし、それを自分にとっては全く関係のない事柄(今回は精神疾患)で相手は無罪を主張してるとか、そりゃあ障害者が差別もされるよなって思ってしまう。
結構ありがちと言うか、持たれがちな誤解なんだけど、障害者は全員が善悪の区別のつかない危険人物でも無ければ純粋培養された天使でもありません。たまに規格外に分類されてしまう人がいるというのは普通の健常者の人達と同じ。だから障害者も同じ法律で裁かれるべきだと昔から思っています。刑務官の負担が増えてしまうのだけは申し訳ないけど。今は懲役刑じゃなくて拘禁刑になったんだっけ、その内容を障害者に合わせるのはアリだと思う。でもそもそも罰の対象としないのはおかしいというのが私の主張。だってそれって人間扱いしていないというのとニアリーイコールだから。優遇と配慮と区別と差別、全部違います。微妙かもしれないけど。
でも、そのニュースを見ていてふと思ったんですよ。

私って本当に今、統合失調症なのかなって。

いや、多分間違いなく統合失調症の症状が如実に出ていた頃はあるんですよ。でも今は健常の人とあまり変わらないのかなって色々な場面で思う事が増えて。薬がかなり適合しているのはあります。確実に。服薬管理が徹底できているのも睡眠時間を確保も自分の努力だけじゃないけど、或る程度は身に着きました。家事能力も役所関係の手続きを調べるのもスマホかパソコンがあれば簡単な世の中だし、一人で飛行機とホテルを手配して旅行もしたし、それらの為に一般企業の障害者雇用でお金を稼いで医療保険諸々も払えてる。今は公共料金の支払いが家族任せなくらいかな。でもそれだってやり方は自分で調べられるじゃないですか。目の前の魔法の板があれば。

でもこの状態まで持って来るまでには十五年くらいかかってるから、やっぱり病気なんだろうな。相変わらず離人感は強いし。接客してる時とか職場の人と話す私は基本私じゃないので。常に自分に違和感がある。自分で居られる瞬間の為に趣味をしているところはあるかもしれない。文章を書く自分や絵を描く自分、縫い物や手芸や料理をする自分は演じていない自分だから。筋トレとか有酸素運動の時は何も考えられないのでまた別のお話です。
こう言う症状がある統合失調症の人ってどれくらいいるんだろう。一般的な症状なんだろうか。どっちかって言うと『統合失調感情障害』とか『解離性障害』に近い気もするんだけど。ただ、幸運だったのはリストカットとかアームカットとかの自傷行為にはあまり至らなかった事。痛い事が嫌い過ぎて無理だった。その代わり買い物し過ぎるとか無茶な食べ方をする方の自傷行為はあったかな。今は随分治まって良かったけど。たまにね、夜食を食べちゃうことはあるんだけどね。

話がそれたけど、精神科の病気を持ってるからって減刑はしないでほしいし無罪を主張なんて勘違いも甚だしいと思う。何で人を傷つけた責任を取ろうとしないのって思う。障害者を差別してほしくないなら健常者と同じ罰を受けるべきだと思う。それが無理なら障害者全てが社会から隔離対象と見做されるよ。
昔、障害を持っている人に殴られた事がある。顔を何発かね。高校生の時。今思えばあれ重大インシデントなんだよね、病院の中での出来事だから。車椅子の男の人に手招きされて、困ってる事でもあるかと思ったらいきなり殴られるから怖かった。その人はもう一生を病院で過ごすんだって言われたけど、でもそれだと看護師さんとか他の患者さんを暴行する可能性はある。でも支援はしなくちゃいけない。罰も受けない。理解できていないから。それって大分、不公平な気がする。じゃあどうすれば良いのかは分からないし、その人にも人権はあるんだって理解はある。でも、被害者になっちゃった私にも人権はあるんだよ。
あの時は多分病院関係者と私の両親とで話し合いがされたとは思う。結局あの後その加害者の人に会う事は無かったけど、今はどうしてるんだろうか。
今回の被告人がどんな風に自分の病気と向き合っていたかは分からない。必死で戦っていた最中かもしれないし、服薬や通院が途切れがちだったかもしれない。家族は頑張って支えていたかもしれないし、放りっぱなしだったかもしれない。それらすべての中間地点に居たかもしれない。テレビの報道だけで判断するのは早計だ。だって被告人とは会ったことも話したことも無いし、私は医者でも臨床心理士でも看護師でもない。彼の病状を長く見てきた人と話す機会も無ければ近所の人に様子を聞く事も出来ない。

だから、報道の在り方を考える方が取り掛かりやすいんじゃないかと思う。報道って起こった事を総て正確に伝えていればそれで良いのかって言ったらそうじゃなくて、真実とか事実によっては『敢えて』暈かして伝える事も必要なんじゃないかって感じる。例えば有名人が亡くなった『死因』とか、『状況』。「極端な選択をしてしまった」くらいに留めておかないと引っ張られちゃう人っているじゃん。知りたいのはその人が『いつ』亡くなったって言う事実くらいで、『何故』『どうやって』『何を使って』『何処で』『どういう状況で』『こんな言葉を残して』とか要らないんだよ。それらは本当に親しい人達だけが知るべき情報だと思う。でも知りたがる人も多いし、知らせたいんだろうね、沢山の人達が。
そして『知る権利がある筈だ』って自分達の『報道する権利』を振り翳すの。それで傷つく人がいる事実を無視してね。別に被害者の家族とか加害者の家族とか家とか学校とか特定する必要ないでしょ。子供が殺された事件は重大なものだって言って、被害者の友人とかにも突撃取材する。友人も子供だったり傷ついていたりするのに。小学生がひき逃げされた事件で、幸運にも軽傷で済んだ子供に直接インタビューするのってどうなんだろ。事件の光景がフラッシュバックしたらどうすんのさ。大丈夫って本人が言ってたとしてもまだ子供なんだから、守るべきでしょうに。

多くの人が知る権利を主張したからこうなったのか、彼等が報道する権利を行使したかったからこうなったのか、『鶏が先か卵が先か』みたいな話になって堂々巡りで終わるんだけど、考えるのは止めない方がいいんだろうな。人間は考える葦であるって言うでしょ。思考ってものを与えられてしまった以上は考えるべきだと思うんだよね。

こんな考え方だからか、テレビはあまり真剣に見なくなりました。考え過ぎると疲れるからね。批判するのって気持ちいいんだけど、される側になり得る行為だからあんまりしたくない。天気予報とか重要な事件とか法案とかだけ確認したら消してます。選挙についてはネットを見た方が早いし。
今回の参院選も多分仕事だから期日前投票に行ってきます。毎回出口調査に捕まるのだけは仕方ないか。ロリータで投票所に行ったりするし、期日前投票に真昼間に行く若い女ってだけで注目されるらしいですからね。毎回こんな感じ。
報道をする人達とか国を動かしている人達に意見を届けたい時って、どうやったら一番効果的なんだろう。三島由紀夫みたいなのが最悪なのは分かるけど、私個人の意見を聞いて欲しい時の窓口ってあったりするのかな。総理官邸に郵便で送るのは絶対に遠回りですよね。

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