memo

▼2026/06/09:念の為確かめておこう、貴方は生きているだけで頑張ってる。いいね?

今日のタイトルは友人に宛てたものだ。彼女はずっと頑張り続けている。『頑張り続けている』と書くと友人は謙遜若しくは否定しそうだけれど。
私からすると、彼女には頑張っている印象がある。確かにマイナスな事も多いだろう日常で、それでも生きる事を諦めていない。将来に不安を感じるのは誰しもある事だけれど、私達みたいに精神を病んだ経験がある・現在進行形で病んでいる者は一般的な生き方をする人よりも強く不安を感じやすいし、そもそも『不安を感じる』事自体が病気の症状だったりする。友人のブログを見るに、彼女も私と同じように気分の波があり躁と鬱を交互に経験しているようだ。どちらかと言えば鬱傾向の方が強いだろうか、けれども躁に寄っているらしき行動の記録も見る事がある。
常に軽度の躁状態の私とは少し違う彼女の躁症状は、普段鬱に寄り勝ち故に激しい印象だ。短時間に色々な事をしているように思う。極端な行動なのが心配だが、彼女のことが特定され過ぎるのもよろしくないのでここに書く事はしない。
で、友人は頑張り続けていると言う話。彼女は現在ご家族の介護をお母様と二人で担っている。介護が必要なご家族の病気は難しい病気で、徐々に身体の自由が利かなくなっていくものらしい。それでも意識は明瞭なままとされるため、心(つまり脳)は或る程度元気なまま思うように動かせない体とのギャップで苦しんでいる感じだろうか。
私は現在介護が必要な家族はいないけど、二十四時間の介護生活が大変であろうことは想像に難くない。正直私なら何かしらの理由をつけて逃げ出してしまうだろうと思う。それを彼女は彼女なりに奮闘して家族を支えている。これを『頑張り続けている』以外の表現で表して良いものだろうか。
自分の疾患だけでも人間のキャパシティはいっぱいいっぱいになる事が多い。身体的な物にしろ精神的な物にしろ、痛みを抱えた状態でそれでも他者を支えたり介護する必要が出てくることは珍しくない。でもそれを実行に移すまで、そして継続させていくのはしんどいと思う。

彼女はお母様と話し合い、役割分担をして自身の持病と或る程度折り合いをつけつつご家族の介護を続けているらしい。ブログに綴られる彼女の日々を知るにつけ、大変な思いをしていると感じては何か出来ないものだろうかと考えている。私に出来るのはこうして彼女を鼓舞する文を書き励ます事くらいしかないが、それでも力になれているだろうか。

彼女以外にも、メンタルに不調を抱える友人は何人かいる。皆苦しみながら様々なものと戦って、時には受容したり如何にか折り合いをつけたりしつつ生きている。

私たちはこの世界以外に居場所を持てない。私は一時、この世界に生まれたのは間違いだと感じている節があった。本当は別の世界に生まれる筈だったのに、何らかの誤りでこの世界に生を受けてしまったような感覚だ。誤解しないでほしいのはそれでも生まれてきて良かったとは思っているという事。でないと今この文を書いている私は存在しないし、私は反出生主義者でもこの世を悲観しているわけでもない。ただ、時折この世界からズレたところに居る様な気がするだけだ。
彼女がこのように感じているとは思ってない。彼女は目の前の仕事(介護だけでなく家事や彼女の取り組みたい事)に一生懸命だからこそ悩んでいるのだし、私の様に理屈を捏ね繰り回して世界を斜に見てはいないだろう。

一度彼方側にいきかけた身からすると、あんな経験を友人達にはしてほしいと思えない。せめてもう少しだけでも生きやすくなってくれればよいと思い続けている。それは彼女に対してだけではなく、彼女の周囲の環境、ひいてはこの国と世界に対しても。

何故こんなにも生きにくいのだろう。何故生きる意味や理由を考え込んでしまうのだろう。そんなの無くても生きていくことはできる筈なのに。現に、生きる意味も理由も考えず日々を過ごす人々は沢山居る。でもその『生きる』は本当に私達が望む生き方だろうか? 私達は心から納得して、苦しさを抱えながらも幸せな時は大いにそれを謳歌していたいはずだし、その上で『生きていて良かった』と感じたいはずなんだ。その為に彼女も私も頑張り続けているんだと思う。少なくとも私はそう考えている。
思えば彼女との友情は私の人生の半分以上を占めている。オンラインオフライン問わず、一番付き合いの長い友人だ。
世界から居なくならなくて良かったし、これからも居続けて欲しい。実はね、昨日は私の誕生日だったんだ。このくらいなら叶えて貰えそうかな? 苦しいならいつでもメッセージを送ってくれていいし、幾らでも話を聞くから、せめてどうか、自分で自分を終わらせず、なるべくなら傷付けずに生きていてください。


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