▼2026/09/21:虹の裏 鏡の国より面白い 硝子より屈折するカタチ
昨日はこのブログで母の事を散々に批判したんだけども、結局のところ親子なのは変わりないなぁと感じた今日。私が嫌だと感じる母の部分と自分自身に思う嫌な所が結構似通ってるなぁと思えた出来事があってね。考えが似ているからぶつかり合う事が多いのかもしれない。母は母として私を愛して案じてくれているし、それを了解して心に留め置く事も大切な気がする。認知の歪みなのか私の特性上、どうしても受け入れらない言われ方みたいなものがあるんだ。母は割と簡単にそれを踏みぬくところがあるように感じる。でもそれを伝えても母はやめられないんだろうし、私は巧くそれを主張できなかったから拗れてしまう事があるんだろうね。母は絶対的に正しくなんかなくて、でも時折私はその事を忘れてしまうし『正しい母像』みたいなものに縋ろうとして苦しくなってしまう。
自分が間違っていると認めることが得意じゃないし、間違っているなら正しい方向へ連れて行ってほしいと縋りついてしまうから。自分で自分の事を適切に判断するのが苦手なのかもしれない。これが仕事ならマニュアルなり規則なりに従っていればいいから楽なんだけど、私生活だとその法則は適用できないじゃない。この場面ではこれが正解だけど、少し時間が経ったら別の答えの方が適しているとか。人間として生きるのって難しいなと思う。言葉や態度、行動かをどう捉えるか、捉えられるか、意識し続けなければならない事に、時々疲れてしまう。
でも、だからこそ、自分の中で『これをしたい』と感じられるものがあるなら大切にしておきたいんだ。それが誰かを傷つけることじゃなく、正しくない側面も持ちつつも行為自体の魅力に天秤が傾くのだとしたら。
レンズは厚みを増すと小さなものが大きく見える。私は視力が良くなくて極度の近視なんだけど、近くの物を見続けようとして水晶体が分厚くなりすぎると、遠くのものが見えづらくなるよね。そして視野は狭くなる。周囲にある色々なものが目に入らなくなって損をしそうな人生を送ってきたのかもしれない。それを母は知っているから私を強い言葉で止めるのかもしれない。
ただ、言い方やタイミングが総て適切かと言うとそういう訳でもない。勿論私も正しいばっかりじゃない。繰り返しになるけどね。
与えられる愛情と、受け取る側の愛情を収める場所の形が若干に違うんだろうな。ぴったり合う事ってそんなに多くは無さそうだけど。子供の頃はそもそもその『形』っていう概念が無くて、与えられるものはみんな吸い込んで心が育っていくんだ。或る程度育って、形を持って初めて自分はその形のものを欲しがっていなかった、別の形にしてほしかったのだ、と気付くのかもしれない。
誰かが愛情を求める欲って際限のない所があるけど、その要求にどこまで合わせるべきなのか、親子でも答えはなかなか一致しないんだと思う。結果すれ違いや行き違いが起きて確執の種が生まれる。それが芽吹かないように無意識に抑え込むのも理性だと思う。時折別の場所で息抜きをしたり家族以外の信頼できる誰かに話してガス抜きしたりしてさ。こうして文章にしていると、私は直接話すとか手書きの文章よりもタイピングの方が巧く言葉を扱えるなって感じるよ。修正も楽だしね。現実でも饒舌だけど、何だろう、脳で考えて文字にしていく段階で何かのフィルターを通して考えの灰汁みたいなものが減っていく感じがするんだ。口で話すよりも透き徹った自分の意見、みたいな印象になる。話し言葉と書き言葉の違いなんだろうか。
母が間違っていたのでも、私が間違っていたのでもないと今は感じる。与え方と示し方、受け取り方と感じ方の相違。不一致が多いとどうしても苦しくなる。だから、今また実家の両親と暮らすとなると私は呼吸の方法が分からなくなりそうなんだ。同居の祖母にも似たような意味合いの事を言われてる。
きっと誰にでも『適した距離感』があるんだよね。
「あなたは私を案じてる、でも近づき過ぎれば傷つけ合う事も多い。私は私としてあなたを傷つけず生きる為、一人を選びたい」というのが今一番しっくりくる答えだ。叶えたい夢もあるしね。
人はいつか必ず一人になる。その時までに生きていく術を増やしていきたい。不安が無いわけじゃない。でも動かない事もそれはそれで不安。結局何を選んでも何か後悔するなら、幾らかマシな後悔を選びたい。
全く同じ形をした人間が二人と存在しないのは生き物として存続する為の効率性もあるんだろうけど、全く同じじゃない人間同士が最善に向けて努力し合い続ける関係を築けるっていう、面白くて興味深い、一種のバグみたいな尊い生き方を見出す機会を与えられてるのかなって思った。