memo

▼2026/10/11:神無月十一日のよしなしごと。

さっき投稿したのとは記事を分けたくて、今日二度目の日記を書いてる。
最近Youtubeで目にした『アファンタジア』『ハイパーファンタジア』と言うワードについて考えることがある。と言うか、言葉自体は知らなかったけど概念が近い事についてはずっと昔から考えていた。『アファンタジア』は頭の中で『視覚的なイメージで想像する事』が出来ない状態、属性の事。『ハイパーファンタジア』はその逆と言うか、頭の中で『非常に鮮明且つリアルにイメージする事』が出来る状態、属性の事。ハイパーファンタジアの『想像』は五感に亘っていて、見た目だけでなく味、感触、匂い、音もリアルに思い浮かべられるらしい。
此処まで書くと何となくわかって貰えそうだけど、私は明らかに『ハイパーファンタジア』の人間だ。例えば小説を書く時、私は脳内に映像が流れるからそれにフレームを仮で合わせコマ撮りみたいにして切り取り、写っている物や情景を文字に変換していくことで文章を書いている。イラストを描く時もかなり似ていて、此方に関しては使いたい画材を優先して決める事もあるけど、脳内に鮮明なイメージが浮かぶのでそれせ合わせて指先と筆先を動かす。その際音も非常に重要で、周囲が全くの無音であればいいけど、そうでない場合の方が多いので作業用BGMを探して選択し、イメージに合う曲が無い場合には検索して購入したりもする。
音楽が先行して文章やイラストを描くイメージが降ってくることもある。純粋な楽しみのために音楽を聴いていると脳内にはオリジナルのAMVみたいな映像が出来上がるし、この考え事をしたい時はこの曲、と言うのが決まっている。
触覚に関してもそうだ。想像するとその瞬間に触っていなくても手触りや肌触りが感じられるし、味覚として味もはっきりわかる。匂いに関しても嗅覚は喪っても想像上や夢の中では幾らか蘇る。例えば石鹸の香りや、昔育てていたハーブの薫り、雨が降る前の匂いも。触覚に伴って温度も何となくわかるし、「氷に触る想像をしてみて」と言われれば冷たさと一緒に指の下で融けていく感触も解かる。夢の中では出逢った事の無い物の感触が何故か分かる。まだお迎えしていないチワワの濡れた小さな鼻先の感触がリアルに伝わってきたし、彼女のふさふさした毛の感触も手に伝わってきた。
経験した事のない事でも、今自分の身に起こっていない事であっても共感してしまって感情が動かされる事が良くある。お陰で物語に没入してしまい登場人物に怒りを向けたり同情してしまい涙ぐむ事が良くある。音楽以外でも音を聴くと脳内にイメージが浮かぶ。風の音、雨の音、風鈴の音、この声の人はきっとこんな服装が似合う、あの音を立てる物はきっと硬くて、でも軽いとか。
夢の中で強い痛み(物理的な物)を味わう事もたまにある。高い所から地面に叩き付けられたり、蜂に刺されるみたいな。逆に失った嗅覚が蘇って、懐かしくて心地よい香りに包まれる事もある。食べた事のない美味しいものを味わう事もある。

こういう状態で生きて居ない人の人生を、私は経験したことが無い。
『目の前に無い物をどうやって見るの?』と訊かれると、『思い浮かべたらすぐ見えるよ』と答えるしかない。私の頭の中にはどうやら現実に近すぎて、でも別のベクトルからすると遠すぎる鮮やかな世界が広がっているらしい。そして、私は『私でない私』の事を想像することが良くある。これは元々の特性上、そして持病の関係で『私』から離れた外側や心ではない内側から私を観ている事が多いからだと考えている。

もしも私が私じゃなかったら。
もしも違う世界で生まれて生きていたら。
もしも目の前のこれが全く違う何かなら。
もしも地面が蕩けて歪んで、沈み込んでしまったら。

こういう想像をする時点で大分想像力が豊かだけど、同時に私は感受性も鋭くて強すぎるきらいがある。誰かの言葉遣い、声の調子から色々なものを想像してしまう。目の前の情景や誰かの態度からも様々なものやパターンを想像してしまう。
これって楽しかったり面白かったりすることも多いんだけど、同じくらい煩わしくて辛い事もあったりする。自分が感じていないものをリアルに感じ過ぎて怖くなるし、不快感に纏わりつかれたり過剰に怖がったり、それらを理由に実行に踏み出せなかったりするから。
今の私は初めましての人や場所が大好きだけど、昔はそうじゃなかった。今でも慣れた感触のものたち(手触りだけでなく)に戻って来ないと息がつけないことがある。そのくせ新しい物には興味津々だし、世界はとても面白くて刺激に満ちていると知ってしまっている。

そしてこの前聞いたんだけど、私は『ハイパーファンタジア』に加えて『共感覚(シナスタジア)』も持っているらしい。私の場合文字には固有の『色』があって、数字や音にも色がある。視覚的な『色』のイメージが色々なものについていて、数字の『6』は明るい青みのミントグリーンでアルファベットの『T』は菫青色で、丸い形はやや薄い朱色、砂糖は淡い黄緑と桃色の合わさったイメージだ。好きな曲を聴いていると好ましい色のイメージが浮かぶし、その色が好きだから繰り返し聴く事もある。手触りにも色がある事がある。水色と黄色では手触りのイメージが違う。水色はふわふわとしていて、黄色はつるつるしている。
この感覚も、どうやら一般に多くあるそれではない様だ。
文章にも色があって、私の好きな作家数人を挙げさせてもらうと京極夏彦先生は茄子紺色、有栖川有栖先生はやや薄い煉瓦色、綾辻幸人先生は深い松葉色、有川浩先生は明るい水色に銀色が重なっている。
ちなみに私が書いている文章はまだ文体が決まっていないので様々に変化するけれど、オリジナルで書くならセルリアンブルーかカーネリアンのイメージだ。

『イメージ』『想像力』と言うものが、私の中ではかなり大きな力らしい。
目の前に無いものでも見えるし聞こえるし触れるし味わえる。文字には書かれた色に関わらず色がついている。不思議だと思う。私は私以外になれないのに、私の外に私が見て感じたものを作ったりアウトプットできる。つまり、誰かとイメージを共有できてしまう。

ここまで書いてきて、もしも誰かに誤解させてしまっていたら申し訳ないんだけど、私は『想像力がある事』を幸せだし楽しく思っているけど、それが至上の事とは考えていない。『賢い証拠』、『頭が良い事』とも結びつけたくない。イメージできない事は『イメージできないだけ』でその人の評価に直接結びつく事ではないと思ってる。イメージできなくても実行できる人はいるし、賢い人も沢山居る。例えば将棋で有名な藤井聡太さんは脳内に盤面そのものをイメージしないであれだけの戦績をあげているらしい。イメージする事自体が出来なくてもとても美しく精緻なイラストを描く人も知っている。脳内に文字しか浮かばないのに、それだけで素晴らしい物語を書き上げる作家さんの話も聞いた事がある。

不思議だし、人間が面白いのはこういう所かもしれない。私は私だから苦しむ事があったり逆にとても幸せだったりするんだけど、想像する総てを味わえるんだとしたら或る種幸運なのかもしれないし。たまたまそう生まれたんだと思うけど、色々なものに興味を持って面白がれるように育てられた節もある。そんなに一般的じゃない感覚の面白さって割とあるし、それを共有できるデバイスのある時代になってきた。

誰でも誰とでも繋がれるし、繋がらない自由もある。表現する自由もあれば、されない自由もある。コインの裏と表みたいだ。
人間って多面的な生き物でそこも素敵な所だと思うから、沢山の色の多面体として生きてみてもいいかもしれない。


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