まだ太陽の登りきらぬ時間に彼はやってきてこう言った。非常に残念だがお別れのようだ、と。明るい色のスーツはキチンと手入れをされており清潔な印象を受けたが、特徴的なネクタイの柄が上品なストライプのシャツの上で主張を強くしていた。髪は黒く、猫のような瞳はその中に見られる黒い光彩もまた吸い込まれそうな暗い色をたたえていた。顔は精悍ではあったが、非凡というほどには突出した点も見受けられない見知らぬ男だ。見知らぬ男であった、はずだ。朝ぼらけの中、配達されたばかりのミルク瓶は霞むような白い日に鈍く照らされ、青のような黄色のような乳白色のやわい冷気をまとい、私の手をほのかに冷やした。男は瓶を握ったままのその手を取ると頬ずりをし、ため息のような声を出す。惜しむような吐息だった。
「私は誰より平穏に生きてみせるよ」
そのためにはお別れをしなくてはいけない。少しの間をもたせてから「君の手は」と男は続けた。
「君の手はなんて美しい手だろう。つやがあり、おうとつのひとつひとつがピンとみずみずしく、いつまでも腐らない」
そして何より君が素晴らしいのはどんな女より”静か”である点なのだ。君と別れるのは口惜しいが、致し方ない。男がもう一度私の手の甲に頬をよせ、その拍子に私は手に持っていたミルク瓶を取り落とした。門扉の足元にはコンクリートで作られたわずかな段差があり、落下したミルク瓶はちょうどそのヘりに当たってパンッと音を立て、勢いよく割れた。慌ててかがみこもうとしたとき、彼の背後に影が見えた。猫のような耳をもった白い影、もはや言うまでもない。男の正体は解りきっていた。そして何をしにここに来たのかも。白い影が私に触れた。”それ”の名前を私は知っている。
「このまま君の手を握り、さらってしまいたい」
キラークイーン、悪魔のごとき爆弾魔。彼の”スタンド”である。
そのあと、そしてそのあと…どうしたか。
私には記憶がない。
気付くと私は見知らぬ街にひとり、佇むはめになっていたからだ。
「(落ち着け!わたし!)」
さて、状況を整理せねばなるまい。素数を数え、冷静になり、私は事の発端をさかのぼるべきである。見覚えのない路地裏の生臭いすえた空気を吸い込みながら、それとは正反対のあの街の空気を思い出した。寒さの極まる1月、杜王町の空気。今から半年ほど前のことだ、私は奇妙な能力を身につけた。
杜王駅から車で約15分、杜王グランドホテルから北へ広がる海岸線に立ち並ぶ別荘地のそのはずれにある自宅へ、仕事を終えバスで帰りつこうとしていた私は、曲がり角で突如として立ちはだかった男に矢で射抜かれた。男の手から放たれたその矢は私の喉を確実に射抜いたが、奇妙なことに私が命を落とすことはなかった。確かに風穴があいたはずの喉はふさがり、朝になってから服を血まみれにして無傷で道路に倒れ伏す私を近所の住民が発見したのだ。これは後で知ったことではあるが、あの矢に射抜かれ命を落とした人間もいるというのだから生き延びられただけ幸いであったのだろう。とは言うものの、私はそのあと一週間のあいだ原因不明の高熱で苦しみ生死の境をさまよった。その際に身につけたのが”スタンド能力”なるものであった。その代償か、それとも射られた精神的ショックがそうさせたのか、私は外傷を持たずして声を失った。精神的なものであると医者は言うが、いつ治るか、どうすれば治るかの見込みもなく、唯一の肉親であった祖母を二ヶ月前に亡くしていた私はこれからどうやって生きていくべきか途方に暮れ、打ちひしがれた。
その時、手助けをしてくれたのが左隣の家に住む男性だった。名前を吉良吉影さんといい、大きな日本家屋に一人きりで住むサラリーマンだった。彼は、声を失ったため受付の仕事をやむなく辞めた私に在宅で出来る職を紹介し、病院に付き添い、親類もおらず一人きりで暮らす私に何くれと気を遣い家に足を運んでくれた。時には手料理をごちそうしてくれることさえあった。私が塞ぎ込むのをやめ、すっかりと元気になってからも関係は変わらなかった。そして彼は、私の手を撫でて言うのだ。「君の手は美しい」と。
優しく、知的で、姿かたちの整った彼のその少々…かなり…歪んだ性癖を知った頃には私はすっかり彼のことを好きになってしまっていた。そして気付いた。彼は女性の手が好き。それから、うるさくしゃべる女は嫌い。頼まれるままデザートを運んだ私の指を舐めしゃぶる彼の口元がこれ以上ないほど雄弁に物語っていた。”喋らない”かつ”手の綺麗な女”こそ彼が最も欲しているものであり、私はそれにちょうど良かったというわけだ。パズルのピースがぴたりとはまるみたいに、私の存在は彼の都合にちょうど良くはまった。悲しくは思ったが、世の中は割れ鍋に綴じ蓋だ。そういうふうに出来ているのだからなんの理由であるにしろ、恋した相手に求められるならば僥倖だ。声を失ったこと自体は不便ではあるが、もはや悲しくはない。「”奇妙な能力”などおまけに過ぎない」そう思っていた。事実、私はこのとき能力の使い方をよく知らないままでいたのだし、それを活用する場などもなかったのだから当然である。降りかかった災難は災難でしかなく、恋をした幸運もむろん幸運でしかない。東方仗助という少年を含めた幾人ものスタンド使いたちに出会うまでは、そうだった。
トラサルディーという初めて訪れるイタリアンレストランで出会った東方仗助と虹村億泰の二人と、そしてそのレストランのシェフが私と同じように”奇妙な能力”を持っていると知ったとき、向こうも私が能力者であるとすぐに感付いた。どうにもスタンドというこの奇妙な能力は、精神エネルギーが具現化したものでありそしてその姿は同じ能力者、つまりスタンド使いでなければ目視することができないというのだ。私は一連のその説明と、出された水(キリマンジャロの五万年前の雪解け水だそうだ)を飲んでから目から止めどなく流れつづけることとなった涙との、どちらに狼狽えるべきかしばし悩んだ。「スタンド使いはひかれ合う」これも教わったことである。彼らと出会ってから、そして彼らが飛び込んでいく事件に巻き込まれるうち、私はこの平和な街で起こっている恐るべき事件を知ることとなり、やがてそれは疑惑に変わった。私が恋をしている隣人のその正体。彼は…そう、彼は、おぞましい殺人鬼なのではないか?
6月も終わる頃、仗助くんの友人が死んだ。私は実際に会ったことのない子で、重清くんという子だ。「スタンド使いに殺された」のだと仗助くん達が言った。疑惑は確信に変わる。殺された重清くんがスタンドに託したという犯人のボタン。特徴的な模様の入ったそれは、吉良さんのものであったからだ。言うべきだ。仗助くん達に、空条さんに、言ってそして、それから…。そうだ、まずは私が問い詰めて真偽を確かめればいい。だけどもし違ったら、全くの誤解であったら。いいや、笑って誤魔化せばいい、それかまずスタンドを出して見えるかどうかを試す…ううん、ダメだ。私のスタンドは一体型であり仗助くんや億泰くんのようにはっきりとした姿を持っていない。うんと、そうだな、じゃあスタンド攻撃をしてみる、ちょこっとだけなら私の能力では害はない。だけどもし彼が犯人ならば、私は殺されるだろうか?重清くんと同じように身体のカケラひとつも残さずに消されてしまうかもしれない。想像すると、怖くなった。彼に嫌われることも、彼に殺されることも、同じくらい重大でどうしようもないことに思えた。ちょうど、真っ暗な大きな穴を覗いている気分だ。穴はどこまでもどこまでも続いていて、私はいつか、必ず落ちるのだ。
そうして悩んだまま幾日かが過ぎたころ、吉良吉影はその姿を消した。追い詰められた彼は、"シンデレラ"の持ち主である辻彩を利用し殺害して、その姿の全てを変えて雑踏にまぎれ消えてしまった。殺されるにしろ嫌われるにしろ、そして彼がいずれ誰かに裁かれるにしろ、同じことであったのだ!二度と会えない。犠牲者は増えていく。誰も訪ねてこない電気を落とした家の中で、後悔ばかりが胸をついた。吉良との逢瀬があったことを仗助くん達には言えるはずもないが、どちらにせよもはや彼の新しい姿は私にも捉えられない。殺された重清くん、彩さん、大勢の人たちのことを考えると気が狂いそうだった。私は、穴を覗いている。いつかきっと落ちる、地獄だ。
そして、7月の朝がきた。家の前にポイ捨てをされたゴミを片付けて、ついでに配達されたミルクの瓶を受け取り家に入ろうとしたとき、その男は来た。姿は変わっていたが、吉良だった。彼は少し喋り、その美しいスタンドを出して、私に触れたのだ。そして。
そして、これは推測に過ぎないのだが、私は死んだのではないかと思った。きっとあのとき、キラークイーンに爆破されたのだ。
「なんだあ〜こんなところにお嬢ちゃんがいるぜ」
「おウチがわかんなくなっちゃったのかなあ〜?オレ達が連れていってやろうかあ?イイとこによォ〜」
……う〜ん、地獄としてはちょっとお粗末かもしれないな。