細い路地に悲鳴が響いた。
三階建ての建物は灰色のトタンで覆われ、投棄された生ゴミや誰かの吐瀉物や舞い込むホコリが分厚い汚れとなって黒く張り付き、ところどころ剥がれた塗装からは赤茶けてまだらになった錆が見えた。石畳に覆われた地面に高い建物を両脇に挟んだ薄汚れた路地裏から一刻も早く脱出したくはあったのだが、後ろから鬼の形相で迫ってくる男二人から逃げることに忙しくてどうにもそれどころではない。どこかも解らない場所にいきなり降り立つこととなったこの状況では、どの道をどう行けば安全な大通りに出られるのか不明であったし、迷子になったら人に聞くが手っ取り早いが初見で出会った、今まさに私をどうにかしようとしている男たちに道を訊ねることが不可能なことはもはや火を見るより明らかである。何よりもまず私を驚かせたのは、そう、これだ。
「キャーッ!キャーッ!キャーッ!」
「てめえーーーっ待ちやがれっ!!」
声が出る!
自分の声帯が正しく震える感覚を得るのは実に半年ぶりのことであった。半年!なんと長かったことか。あまりのことに驚愕とも歓喜ともつかない悲鳴が出てしまう。懐かしくも甲高い声はトタンの外装に跳ね返って路地裏に響いた。くそっ!なんてすばしっこいアマだ!と後ろから悪態をつく声が聞こえる。不思議なことに足取りが異様に軽やかで、少し地面を蹴っただけでグンと身体が前に進む。私ってばこんなに足が早かったかしら?やっぱり、ここは地獄で、死んだからそのあたりの融通がきいてしまうのだろうか。
自分が死んだかもしれないというのは、今のこの不可解な状況を説明するにはいちばん腑に落ちる可能性であるように思えた。男が訪ねてきたあの時、私にとってはつい先ほどとも思える出来事のさなか、姿を変えた吉良吉影と思われるその人の背後にはっきりと見えた。あのスタンド。触れたものを爆弾に変え、彼の意のままに爆破することができる恐るべき能力。「君の手を握って、さらってしまいたい」とろけそうな彼の声を思い出した。私の手、ついてる。ここにある。きっと彼が私の手首だけを残して、あとは肉片のひとかけらも残さず消し去ってしまったのだろうと思うのに、やっぱり幽霊であるからなのかしら、身体のどこにも欠けたふうな様子はない。後ろから追いかけてくるのは地獄の番人で、私に責め苦を与えるためにいる…とか。手の中にひとつ残された破片を見た。あの時とっさに拾い上げたミルク瓶の破片である。LUCKY LAND MILK、地元特産の新鮮な牛乳は杜王町民に愛され続ける銘柄で私も大のお気に入りだった。ちょうど名前のあたまの方が欠けて、CKY LAND M…のみが読み取れて、なんとも哀愁を感じる。長辺が10センチほどのその硝子片を握った手のひらは少し切れて、血が滲んでいる。走っている間に思わず強く握りしめてしまったらしい。
ここが一体どこなのか、本当にあの世とかいうやつなのか。私は死んでしまったのか。幽霊なのに痛みも血もあるなんて、実に不可解じゃあないの。確かめなければいけないことがたくさんあった。ああ、配達されたばかりのミルク、ちょっとでも飲んでおけばよかったな。こんなことになるなんて。目の前に煉瓦造りの塀が見えた。ちょうどよく行き止まりだ、覚悟を決めよう。ダッ、と両足を踏ん張り疾走していた身体を止めて、後ろからしぶとく追いかけてきた足音をふたつ、聴いた。
「はあっ…はあっクソッ…手間取らせやがって…もお〜逃げられねえぞ」
「バラして売っちまうか?若い女の臓器は高く売れっからなあ」
蛮族かこいつらは?臓器売買なんて現実そうそう耳にする機会のない会話である。いよいよ現実味を失ってきたが、捕まったらまずいことになりそうだ。大丈夫、闘い方は知っている。そして勇気の出し方も。私はふるさとの町を取り巻く事件の中で、幾度もその黄金の精神を見てきたのだ。右手を胸の前まで上げると、瓶の破片をさらに強く握り締めた。硝子の食い込んだ手のひらから血が流れ落ち、腕を伝った。男たちは私が反撃をするか、自害をするかと考えたようだ。「おいおい、無駄なことはやめろって」と口元をニヤニヤと歪めながらどんどんこちらに近寄ってきた。その場に佇んだまま逃げようとしない私に気を良くして、二人はそのまま私の傍に立ち、手を伸ばしてこようとした。
瞬間、したたる血を彼らの顔に向けて飛ばす。パッと宙を舞った血液は、ひとりの頬につき、もうひとりの唇に飛んだ。
「なんだ?てめえ…こんなもん」
下卑た表情で思わずといったふうに唇についた血を舐めとった男の声を遮るように声を出した。「摂取させるなら粘膜がいい」
「侵入がたやすく、いっとう容易に作用する」
「……なに?」
訝しげにする男の姿は一瞬ののち、地面に沈む。まさに、言葉通りの意味で。
”オーライ・スティル”
私のスタンド能力。私の体液を媒体にして対象者の触れる無機物を触れている時間に応じて、全てやわらかくしてしまう。また、私に近づけば近づくほどその効力は高まる。半径1メートル以内では底なし沼に足を踏み入れたようなものだ。男の身体は一瞬で肩まで石畳に沈んで、溺れて狼狽する叫び声が路地の壁に反響した。もう片方の男は相方に起きた出来事を理解するやいなや、己の頬にはっとしたように手を伸ばした。私の血液がすでについている場所である。ううん、察しは良くて結構なことだけど、すでに遅い。粘膜よりは遅いが皮膚についただけでも十分に、私のスタンドは効力を発する。その足の下の地面はすでに溶けたキャラメルのように緩慢に沈み始めた。
「ほらっ!走って!溺れちゃうわよ!」
「はあっ!?はっ?はあっ!!!」
パンッと手を叩くと男は息を荒げてフライパンの上で煎られたようにバタバタと足を交互に上げた。触れれば触れるほど、軟化は進む。足を常に地面から離さなければ身体は沈む一方だ。放っておけばどこまで沈んでいくのか知れない。もしかしたらマントルまで行けてしまうかもしれないが、試したことはないのでわからない。そもそもそこまで行くあいだに窒息してしまうだろうし…。すでに地面から出ているのは顔だけ、何とか気道を確保しているだけの状態となった男からスタンド能力を解除してそれ以上は沈まないようにしてから、地面から飛び跳ね続けるもうひとりの男を見た。男は跳ね続ける疲労と、恐怖と、屈辱と、この不可解な状況を理解しかねてか顔を真っ赤にして額に冷や汗を浮かべていた。私がグン、と距離を縮めるように近付くと彼は飛び跳ねて後退した。しかしその後ろは塀に阻まれて行き止まり、さらに距離をつめると壁にすがるようにつけた男の背はグニャリと煉瓦塀に埋まった。別に殺して臓器を取ろうというわけでもないのに、そんなに怯えることないんじゃあないの?と思ったが、ここまで怯えられているのならついでだ。迷子の常套手段、地元の人間に道をたずねろ、だわね。
「私、道に迷っちゃったようなの。親切なお兄さん、ここがどこだか教えてくださる?」
恐怖をその顔いっぱいに浮かべて震える声で男は答えた。「ツ、ツ、ツバシ町…11丁目……」聞いたことのない地名だ。少なくとも確実に、杜王町の近辺でないことだけはよくわかった。それだけでも臓器売買される危険に犯されながら応戦したかいがあったというものだ。…ほとんど一方的な攻防ではあったが。最後に大通りに出られる道を聞き、追いかけてこれないように彼の胴体を壁に充分沈みこませてからスタンドを解除した。きっと誰かに掘り出してもらえることだろう。背を向けて歩き出した私の背後で悪態をつくような声が聴こえたが、振り返ることはしなかった。ただひとつだけ、気になった言葉があった。
「ちくしょー…あのアマ、念能力者だとは…」
……念能力者?