妄語

ああ、まただ。
目が覚めた私が頭の中でそうぼやいた。もう何回目になるだろうか。死ぬ度に誰かの身体に乗り移るのは。
ある時はほどよく筋肉がついた女性で、その前は軍に所属する兵士だった。今回はどんな私なのだろう。

霞む目をゴシゴシと擦った。
手の大きさから見て子供ではないらしい。ベッドの横にきちんと揃えられたスリッパを履き、この体に染み付いた記憶を頼りに洗面所へと向かうとやや暗めの茶髪に同じような瞳の色が鏡の中に現れた。
唇の色は若干紫がかっていて健康と評されるものではないようだ。

「……日本人か」

それほど彫りの深い顔立ちではない。背も高くもなく低くもなく、家具や思わず口をついた言葉からして日本人というのは間違いないだろう。

しかし国籍がわかっただけでは全く足りない。職業や名前も調べなければ。
勿論それだけではない、家族構成や友人関係もあるだろう。今から調べるか、全てを切ってしまうか。
いつになってもこの目覚めの日だけは憂鬱だ。人様の人生を乗っ取る罪悪感。法で裁かれることは永遠にないだろうが、いうなれば人殺しと然程変わりはないのだろうとも思う。

「……瀧衣理。年齢は二十五歳……未婚か」

鉛のように重い気分になりながらもこうして生きようと努力をするようになったのは、昔もらった言葉が忘れられないから。こうなったからには精一杯生きなければと思うから。
とはいえ、財布を物色するあたり人殺しより物盗りにも思えてきて自嘲の笑みがふと唇を歪めた。
幸いにも免許証をすぐ見つけることができ、最低限のプロフィールは手に入れた。財布の中身と通帳には中々の金額が入っている。最近振り込んできたのは名義からして出版社であるらしい。二十代の出版社員にしては大きい額だ。

「ご飯にしよ」

ぐう、と鳴り続けるお腹を鎮めねば。そう思って手を伸ばした冷蔵庫にはこれといった食材も作り置きもない。瀧衣理がどのような生活をしていたのかこの数十分でほんの少しずつわかってきた。
少なくとも、健康的な生活ではなかったことは理解した。

「いらっしゃい……あっ衣理さん!こんにちは!」
「こんにちは」
「今日は何も持ってないんですね?脱稿したんですか?」
「え?あ、そう、うんそうなんです」
「どうしちゃったんですか、敬語なんて。疲れで少し変になっちゃってるんじゃないですか?」

朗らかに笑うこの女性は私と知り合いのようだ。
「いつものお席、空いてますよ。どうぞ」そう彼女に示されたのは店の一番奥にあるボックスの席。食事を用意するといって背を向けた彼女を見送ってから席に着いた。
店員に敬語を使うのは日本人として普通だろうが、それを変と言われるなら恐らく彼女との仲が良かったのだろう。

「お待たせしました。いつものです」
「ありがとうござ……ありがとう」

いつもの席に、いつものメニュー。財布にあったレシートから判断したが、やはりここが行きつけのカフェで間違いないようだ。

「もー、本当、今日はどうしちゃったんですか?眠気覚ましであったかーいコーヒーでも。コーヒーは私からのサービスにしておきますから」
「ちょっと頭がぼーっとしてて。ありがとう」
「いえいえ。脱稿おめでとうございます、お疲れ様でした」

ほんのりと湯気が立っているコーヒーは口の中から喉へと飲み込まれていく。砂糖もミルクも入れていないが私好みの味だった。自然と緩む口元についたソースを紙ナプキンで拭った。

「あれ?衣理お姉さんだ」
「衣理さん。お久しぶりですね」
「久しぶり」

カランカランという軽やかな音と共に部屋へ入ってきたのは可愛らしい女の子とその女の子の前を歩く小さな男の子だった。
残念なことに名前を呼ばれてもこれまでの記憶がそう都合よく蘇ったりはしないが、今までも同じような経験は何度もしてきた。高校生らしい制服を着た女の子にも、眼鏡をかけた小学生くらいの男の子にも変に思われるわけにはいかない。
にこやかに声をかけてくれた二人に笑顔を作って手を振った。

「どうしたの、衣理お姉さん。何かいつもと違うね?」
「そうなの、衣理さん仕事終わったところで少し疲れてるみたい。蘭さんとコナン君も衣理さんのところに座る?」
「衣理さんいいんですか?」
「うん、もちろん」

本音を言えば、今これ以上の接触はしたくない。まさか人間の中身が入れ替わってるだなんてファンタジーを信じるわけはないだろうけれど、今までの経験からいって周りの人から変に思われるのは避けるに越したことはないからだ。

「じゃあ僕オレンジジュースとハヤシライスがいいな」
「梓さん、じゃあ私もハヤシライスで」
「はーい」

働いている彼女は梓、今来た女の子は蘭で男の子はコナン。名前は理解した。梓は私と仲が良いか、よく来るうちに打ち解けた店員と客という関係性だろう。蘭とコナンはよくわからないが見知った仲であることは間違いない。

「衣理さん、お仕事終わったってことはようやく脱稿したんですね」
「ようやく……あはは、うん」
「そろそろ僕達にも衣理お姉さんの小説読ませてよ」
「え?小説……」
「違うの?小説って前言ってたけど」
「ううん、違わないけど、やっぱ知り合いに読ませるのはね。恥ずかしいじゃない?」
「確かに、私も衣理さんの立場なら少し恥ずかしいかもしれないです」

なるほど小説家か。だから通帳の振込先は出版社で、一度にそれなりの額が振り込まれていたのか。小説家自体は初めての職業じゃないし文体さえつかめば何とかなるかもしれない。
成り代わった人物の記憶はないかわりに私は今まで過ごした記憶がほとんど残っている。この日本では考えられないような戦場にいたこともあるし、体験できないような経験もある。それらを小説に起こせばなんとかなるかもしれない。

「でも衣理さんの小説って本屋さんに並んでますよね?推理小説ならコナン君、もしかしたらもう読んでるかもしれませんよ」
「え?こんな小さいのに?」
「コナン君まだ子供なのに推理小説が大好きで。事件にもたまに口を出したりして役にたったりしてるんです」
「へえー……」

まだ十歳になっていないだろうに推理小説が好きで事件がどうとか、なんてすごい世界だ。今までの世界でもこんな子供はいなかった。
「すごいんですよ、コナン君は」蘭という名の女の子が誇らしそうに男の子を見つめた。オレンジジュースを両手で持ち、可愛らしく食事を楽しむあどけない子供がまさか血生臭い推理小説が好きとは誰が想像できるのだろう。

「で、推理小説なんですか?それとも恋愛小説とか──」

目を輝かせる蘭に答えてやりたい気持ちがないわけではないのだが、私自身わからない以上うんともすんとも言い難い。

「おや、今日こそ教えてくれるんですか?」

ニコニコと微笑む女の子を目の前になんと切りぬけようかと思案していると後ろから男性の声がした。




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