恋だった、とは言わせない

ずっと恋だと信じていたものは恋ではなかった。八月三十一日。
純粋な青が網膜の奥を刺す。真っ青な空にただ唯一の不純物として浮かぶ雲が、まるでこの暑さに駆られる世界の代名詞とでも言いたげに広がっていた。

血管を沸騰させるほどの暑さに気を揉むほどの余裕はない。中学三年生、苗字は初めて恋の砕ける音を聞く。それは今まで聞いてきたどんな音よりも軽やかで、大胆で、鋭利で、青かった。
当分もう恋なんて到底出来ない、と思う。それに悪いのは大体、幸村精市という男だ。
「恋だったな」
口にすれば感じた予感はあっさりと確信に変わった。苗字を見つめたまま幸村の手からじょうろが落ちて屋上のコンクリートに黒い染みを作る。涼しそうだ。
続ける言葉もないのにぽかんと口を開けている幸村が何だか滑稽だったから、軽く笑ってやった。

「溢したよ、水」
そう指摘すれば幸村は一拍をおいて止まった時間が動き出したかのように足元のじょうろを拾う。花壇の土はとっくに湿っていたが、その上から再び幸村が水を遣るのを止めはしなかった。どうせ生き急いですることもない。
「暑いねえ、本当に溶けるんだけど。後でコンビニ寄らない?」
「え?…ああ、別にいいけど」
幸村の寝惚けたような返事を聞いて、これは当分帰れそうにないと息をつく。苗字は校舎へ繋がる屋上の扉を開けて中へ入った。夏が好きなのと直射日光に当たるのとでは、全く話が違うのだ。
日陰の中から幸村を眺めて待つ。背中をだらりと階段の手すりに寄り掛からせて耳を澄ませば、遠くから授業をする声が聞こえた。今日は補習授業の最終日である。
お世辞にも涼しいとは言えない温さの風が肌を撫でて、やはり授業に顔を出すよりこちらの方が気持ちがいい。なにより、それが悪いことだと知っていて、何も言わない幸村を見るのが苗字は一等好きだった。

「ねえ、さっきの何?」
花壇から目を離さずに幸村が呟く。ひとり言のような声を苗字は拾った。それ以外にすることもなかったからだ。
「さっきの?」
「恋だった、ってやつ」
「ああ、恋だったなあ、って思って」
「だった?」
「だったなあ」
オウム返しのように一つ一つ丁寧に返してやると幸村は口を閉ざした。蝉の声より、じょうろから流れ出る水の音だけがはっきりと耳に届いている。つくづく青いな、と思いながら苗字は幸村を見ていた。
流れる雲、校庭の掛け声はサッカー部だろうか、そういえばまだお昼ご飯を食べていなかったとお腹に手を当てながら思い出す。
「俺と、恋だった?」
幸村が顔をあげて苗字を見た。
「お前と、恋だった」
手すりから背中を離して苗字は幸村を見る。
「俺は、ちゃんと恋だと思ってたよ」
その言葉が全てだ。一歩前に踏み出した幸村の脚を苗字は見逃さなかった。
二段飛ばしで飛び降りるように階段を駆け下りる、着地の衝撃をもろに膝で受けてしまったけれどもう止まれなかった。ワンテンポ遅れて、屋上から凄い音を響かせながら続けざまに階段を駆け下りる音がした。
パタパタと上履きの音を鳴らして、まだ授業をしている教室の前を走り抜ける。静かな廊下に、煩い音だ。先生に見つかってしまうだろうか。それでもこの音に気が付いて廊下に顔を出したとして、そこはもう走り抜けてしまった後で誰の人影も見えないだろう。
後ろを振り返れば幸村が迫ってきていたので角を曲がって人気のない校舎へ移った。さすがの運動部、脚の速さで逃げ切ることはまず無理だ。このまま走り続けるか降参するか迷って、けれど今更降参する気にもなれず、苗字は再び勢いよく階段を飛び降りる。
手前、首元を後ろから引っ張られて何か柔らかいものの上に尻餅をついた。
「待てって言ってるだろ!」
「言われて待つ奴いる?!」
柔らかかったものは幸村のお腹の上だ。降りようと思って身体を起こすともう、一度首元を引っ張られて潰れた蛙のような声が出た。
乱れた息を整えれば代わりに廊下の静けさがうるさい。蝉の音が辺りを覆いつくして、あつい、そう思った。
「俺は恋だと思ってた」
少しも乱れていない息で幸村がそう言うのを、苗字はただげんなりとした顔で見つめている。
これが恋だと言うまでは離してくれそうにない、そんなことはすぐに分かったけれど、これが恋だとは死んでも言いたくなかった。
恋をしたことがないからではない、恋をしたことがあるからこそ、これが恋ではないことを知っているのだ。
「こんなものは恋じゃない」
何だかもう涙が出てきてしまいそうだ。こんなものが恋であってたまるか。

夏の終わりの屋上、退院して間もない幸村が花に水を遣っているのを見た。
テニスコートではテニス部の面々が思い思いに練習をしていたのに、屋上にいた彼は制服を着ている。
有名なテニス部のことだ、全国三連覇を掲げていたはずが関東大会で優勝を逃した話は、噂話に疎い苗字のところまで届いていた。
残念だったね、と声をかければ幸村は顔をあげる。練習に顔を出さなくていいのか、なんて野暮なことは聞く気にもなれなかった。
こちらを見た幸村は悔しい顔も、悲しい顔もしてはいない。ただ少し目を細めて、清々しいほど遠くまでよく通る声で言うのだ。
「俺たちはまだ諦めていないよ」
命を燃やした熱さを持て余した夏が終わる。
底の見えない青い空に目が眩んでまるで世界の全てが変わってしまったようだ。音が聞こえたのはその時だった。
身体を下から突き上げる経験したことのない熱量。全部、幸村のせいだ。喉元に持ちうる感性の全てが引っかかって詰まってしまったようで、思わず嗚咽ともつかない声を出す。
こんなものが恋であっていいはずがないと思った。

「苗字」
窘めるような声が降ってきて、苗字は思い切り顔を顰めた。悪いことなんて何もしていない。
「幸村、お前は恋のやり方も知らないの」
知っているなら間違っているのは自分の方だと気が付くだろう、首元を掴んでいた手を振り払って苗字は幸村の肩を強く押し倒した。そうされることを全く予想していなかった幸村は呆気なくよろめいて、呆然とこちらを見るばかりだ。
「幸村」
屋上で聞いた音を思い出す。軽くて綺麗な音だった。きっとあれが恋の音だったのだろう。それが薄氷のように砕けてしまったのは、上に乗せるべきものを間違えてしまったからだ。
こんなものを恋と呼ぶには、重すぎる。
「恋の終わりを見せてやる」

静かに、微かな怒気を孕んだ声で苗字が言う。名前の後ろの開け放たれた窓から覗く空が、夏を終える準備をしていた。
きっと夏の暑さだけではない熱が全身を巡る。
自分の胸倉を掴まれながら幸村は今まで見てきたどんなものよりも、熱烈な愛の告白を受けているようだと思ったのだ。