あまり恋をするのが好きではない。こう言ってしまうと、己の意思で好き勝手に恋ができると思われそうだが、そうではないから好きではない。
恋は簡単に思考を鈍らせるし、するべきことを見間違う。そして何より、理性とは裏腹に一喜一憂する自分自身が鬱陶しくて、仕方ない。
だから恋とはそれが完全に散った後で、あれは恋だった、と気が付くやり方が一番楽である。とは、瀬生が貴重な中学二年生の夏の三時間目を使って考えた持論である。
「それってちょっと屁理屈じゃない?」
「当事者になったこともないのにそういうこと言うんだ」
不二に教えられた通りの手でグリップを握りながら、瀬生は力任せにブンブンとラケットを振った。もう少し肘を曲げた方がいい、と不二が呟く。滲んだ汗で手が滑った。
今行われているダブルスが終われば次は不二の番だ。その前になんとか話しかけようと、そわそわする女子の視線を一身に浴びて、不二は何食わぬ顔で瀬生のフォームを直した。
学校の体育でやる程度のテニスを必死で練習することも無駄なように思えたが、それを踏まえても瀬生のテニスの才能は壊滅的だった。
「ボクだって儘ならない恋をしたことくらいあるよ」
「嘘だあ」
からかうように笑いながら、返す言葉を間違えた、と瀬生は思う。この手の話で不二が嘘を言うものか。ただ明白な事実ほど嘘であってほしいと瀬生が願うものだ。
「じゃあ恋をしてどうだった?」
期末テストの手ごたえを尋ねるように瀬生は聞く。このうちの三割は好奇心で、残りの七割は恋を知ったような顔をする不二への八つ当たりだ。
「確かに、本で見るほど気持ちのいいものではなかったね」
言いながら目を伏せた不二に、瀬生は喉のすぐそこでどす黒い嫉妬の塊が停滞するのを感じた。
そんな分かったような顔をしないでほしい。初恋ごときに夢はもう見ていない。けれどもし、不二が自分と恋をすることがないのであれば、君は一生、恋を知らなければいいと思う。
「瀬生は、どうだった?」
至って穏やかにそう言う不二に、瀬生は目のやり場に困って、結局不二の目を見てげんなりとした顔で言った。
「最悪なものにはなる予定」
遠くで騒ぐ生徒の声がする。軽快にコートを跳ねるボールの音が、七月に入って一層高くなった空の青い天井へ吸い込まれていく。蒸し暑くなった風に吹かれた汗が、首筋で冷えるのを瀬生は上の空で感じていた。
「キミのその話、聞いてみたいかも」
間抜けな恋にも程がある。
「…不二ってもしかして私のこと嫌い?」
「まさか。でもキミがそこまで言う相手のことは気になるな」
君のことだよ、と怒鳴ってやりたくなるのを瀬生はなんとか我慢した。
代わりに、世界で一番苦手なものを食べてしまったような顔をしてやる。
素知らぬ顔をした不二が、いつか絶対的に自分を好きになってもがき苦しめばいい、という祈りを込めて。
「君には一生、教えてあげない」
そう啖呵を切った日の午後、散々迷って瀬生は不二の部活を見に行くことにした。
体育の時間だけではどうにもならない瀬生のテニスを見かねて、不二が誘ったのだ。瀬生自身、自分の才能の無さにはほとほと諦めがついていたが、不二の好意を無駄にする気もなかった。
下駄箱に着いた時点で、昼間より一層たちの悪くなった熱風が身体に纏わりつく。
下校する生徒の波に逆らってグラウンドへ出れば案の定、テニスコートには人だかりが出来ていた。
見覚えのある同級生の女の子たちの顔を遠巻きに、瀬生は裏へ回り込む。ここでは幾分か見やすさが劣るが、人は少ない。なにより後ろにはもう木立しかないから、涼しかった。
誰からも見つからなさそうな場所を探して、瀬生は腕を組んでフェンスにもたれかかった。
不二の姿はいとも簡単に見つかる。果たしてこれは恋の力か、はたまた偶然か。
難なくボールを返していく不二をぼうっと眺めながら脚をゆらゆらと揺らす。あれくらいなら私にも出来そう。このとき不二が試合ではなく、ただのウォーミングアップとしていくつか実力が下の後輩の相手をしていた、と気が付いたのはそのすぐ後のことだ。
どこからともなく集合の声がかかって部員たちが練習をやめて集まっていく。何やら顧問が短い指示を出した後に不二がコートへ入った。対する相手はおそらく同じ学年の男子部員だろう。瀬生はその顔と何度か学年の廊下ですれ違ったことがあった。
「ザ、ベストオブ、ワンセットマッチ!」
教科書に載っていたまんまのコールと共に試合が始まる。不二のラケットから放たれたボールは、見事な直線を描いて相手のコートへ落ちた。
見学していた部員から小さな歓声が上がる。フィフティーンラブ、と審判が言ったような気がしたが、瀬生にはそんなことはどうでもよかった。
ただ一瞬、不二の手から放たれたテニスボールとその横顔に、負けた、と瀬生は直感した。本物の恋の前で、人間はこれまでになく無力だ。
恋に叩き起こされた心臓が一度大きく跳ねたのを皮切りに、警報を鳴らすように心拍が早まった。不二には勝てない、と根拠もなく思う。失恋など待っている場合ではない、ということも。
持論など、欲しいならどこへでもくれてやる。これだから恋は嫌なのだ。理屈ではどうにも出来ない。だけど、どうにかならなければ困る。死ぬほど。
強力な磁石に目線が吸い付けられてしまったようだ。モナリザを発見したときの人類も同じ気持ちだっただろう。
今世紀最大の衝撃をよそに試合は順調に進んでいく。どうして皆、普通の顔をして見ていられるのだろうか。これは恋というより、大火傷だ。
ボールを打つたび揺れる不二の髪も、ラケットを捌く手首も、打ったボールの描く軌道の美しさにも瀬生は見とれていたが、なにより悔しいのはその横顔だ。その瞳はきっと、自分を映さない。
テニスコートはまるで不二の独壇場みたいだ。そこに入れるものは何もなくて、恋だの愛だのは一切無力で、そのくせボールを追いかける横顔はこれまでにないほど真剣で、情熱的で、きっとコートの外の人間をその瞳では振り返らないだろうという確信に、ただ途方に暮れるしかなかった。
テニスしか見ていない不二が好きだ、と思う。これではまるで、初めから失恋が決まっているみたいじゃあないか。
審判の大きな声とギャラリーの歓声で、瀬生はようやく試合が終わったことに気が付く。ベンチの前で少しも息を乱していない不二が部員からタオルを受け取っていた。もう勘弁してほしい。
すっかり気が抜けてぼんやりとコートを眺めている瀬生の視界で不二の姿が段々大きくなった。
「来てくれたんだ」
頬の汗を拭きながら、瀬生の方へ歩み寄ってそう言った不二に、瀬生はフェンスに寄り掛かったままの姿勢を戻すことも忘れて、ただ間抜けな顔で口をぽかんと開いた。
「あれ、ボクを見に来てくれたんじゃないの?」
「え?あ、ああ、うん、そうだけど…」
先ほどの面影が全く消え失せた顔で不二が笑うのを、けれどこの顔も好きだ、と瀬生は認めざるを得なかった。こんなはずではなかったけれど。
「私がいるってよく分かったね。ここ、コートから見えにくいでしょ」
「そうかな?ボクはキミが来たとき、すぐに気付いたけど」
これだから人たらしは嫌だ。不二が誰かと話していることに気が付いたのか、遠くからチラチラと刺さる女の子たちの目線を、瀬生は知らぬ顔で一蹴した。この気持ちが誰かに分かってたまるものか。
フェンス越しの近いようで途方もなく遠い距離を心底憎たらしく思いながら、瀬生は今しがた思い出したような声で言う。
「そういえば不二、昼はああ言ったけど実は私、好きな人がいるんだよね」
脈略のない台詞に不二は驚いたように少しだけ目を開けた。
「あっさり認めたね。それってどんな人か聞いてもいいのかな」
「うーん、やっぱり最悪な人かな。その人、恋をされるのに向いてないよ。でも、それでもいいやって思ったんだ」
中学二年生の夏が終わる。不格好な頭で考えぬいた持論はいともたやすく崩れ去った。失恋に恋をする人間は、一体どうやって失恋すればいいのだろうか。
だけど少なくとも、自分が頭を悩ませて眠れない夜に、不二もどうにか眠れていなければとても嬉しいと思う。
コートから不二の名前を呼ぶ声がして、瀬生はなんとも言えない顔をした。いっそのことテニスボールになってしまいたいが、テニスボールでは彼にキスできない。
「でも恋って、どうしようもなくなってから本番だって気がする」
言い逃げのように呟いて、呼ばれてるよ、と瀬生が手を振る。不二は困ったような顔をして笑った。
「ボクもちょうど今、そう思っていたところだよ」