寂しさに意味はない。暑さが骨の髄に染み込んで抜けなくなってしまう前に、夏の残骸を押し出そうと、瀬生は繋いだ手をぎゅっと握り直した。
不二と並んで歩く帰り道に、これだけ沈黙が続いたのはいつぶりか。年に一度の大喧嘩でもしない限り、これだけ無言の時間が過ぎることもないだろう。
幸か不幸か今の二人は仲良く手を繋いでいる。
ずっと蝉に話しかけられているようだ、と瀬生は思った。
不二の声でもなく、不二の顔でもなく、ただ斜め上の、屋根と天井の境界線を眺めている。瞬きをせずとも、木漏れ日から差し込む陽光が瞼の裏を透かす。おそらく毛細血管の赤色が、黄緑の木立と交互でカメラのフラッシュのように網膜に焼き付いた。
無言で校門を潜り、無言で交差点を渡る。すれ違った男女が何か話すのを、ラジオのように聞いていた。
不二と瀬生がさよならをするのは大抵、駅の改札だ。瀬生が電車で登校しているのとは違って、不二の家は駅を真っ直ぐ行った住宅街にあった。不二の家を通り過ぎて隣駅まで歩いて行けない距離ではない。しかし瀬生は電車に乗るのが嫌いではなかった。夏の昼間の車窓からの眺めが、特に。
けれどその日、瀬生は無言のうちに駅の前を通り過ぎた。月に一度、こういうことが稀にある。そういう日のさよならは、不二の家の前か、もしくは不二が瀬生の家の前に送り届けた時に交わされる言葉だ。
駅から不二の家まで十分ほどしかない長い通りをじっと歩く。このままどこまでも歩いていけそうだった。
永遠かと思われる炎天下で、彼らにしては長い長い沈黙を破ったのは、もう少しで不二の家が見える、その少し手前のことである。
「寄り道しようか」
コンビニが一つも見当たらない住宅街で不二が呟く。繋いだ手はとっくに汗で湿っていた。
「まだ帰りたくないってこと?」
「キミが寂しくなるなら」
肝心なことばかり濁す男だ。寂しいか寂しくないかは自分で決めろ、と言いかけて、やめた。実際、それが図星であったからだ。
「大丈夫、明日にはもう寂しくなるなるから」
一体全体、何が寂しいのだろう。学校は午前中に終わって、好きな人と手を繋いで帰っている。家に着いたら借りていた映画を見るつもりだ。来週だって、友達と遊ぶ予定がある。
たとえば、と瀬生は視線を探るように回す。たとえば、真昼の住宅街に佇む不二。
隣の家からカレーライスの匂いがする。食器のぶつかる音も。不二が穏やかな生活音の中にあって、なんだか寂しい。
普遍的な生活音が不二に集結する。けれどその生活感の中に己はいないという拒絶、彼が普段、何を話しながら夕飯を食べ、何をしながらリビングで寛ぐのか、真に彼の傍で生活している人間にしか分からない繊細で、長く積み重ねられた不二の息遣い。それを知るにははまだ遠い距離が、寂しさの一因なのかもしれない。
「強いんだね」
「忘れるフリが上手くなっただけだよ」
寂しさは消えない。忘れたように思うことが出来ても、いつかふと思い返す。これは生まれる前、もしかすると人類の有史以前から繰り返されてきた問題なのかもしれない。なんだか寂しい。今も昔も同じ日本語が、何度この列島で口にされてきたことだろう。
おそらく、自分はこの寂しさを知っている、と瀬生は直感で思った。おそらく、これはいつかの寂しさの鱗片である。理由のない寂しさは記憶の彼方に埋もれて、本人が忘れた頃にふいとその顔を覗かせる。そうしたとき、人は忘れてしまった寂しさの正体が分からず、ただ立ち竦むしかない。
「ボクもキミみたいに、寂しいと思ったことを忘れられるかな」
「それは、あんまり忘れてほしくないな。とても辛いだろうけど」
「どうして?」
宙に浮いた不二の言葉をすくう。あなたのためなの、と言うことは大体、その人のためではない。優しさにありとあらゆる種類があるように。
「不二がなにか忘れたら、私が寂しくなるから」
果たして今のは率直な告白ではなかっただろうか?アスファルトに干からびたミミズが張り付いている。そうしてずっと離れないでいることが出来たら、多少は楽になれるのだろうか。
「そうだね」
セミがまだ見ぬ相手を探して腹を鳴らす。不二は呟いて、続けた。
「君が寂しくて、よかった」
八月三十一日、正午。あと十二時間もしないうちに、夏が終わる。