あとは祈れ(18years old 8/2)

 燦々と頭上を照らす太陽に気が付かないフリをして、瀬生は屋上のフェンスに額を押し付けた。
 じわじわと首元が汗ばんでいくのを、額に食い込むワイヤーの痛覚で紛らわす。跡が残ってしまうだろうか。教室へ戻る前に鏡をチェックしなければ、と心のノートに書き留める。
 数分前に買ったカフェオレはもうほとんど飲み干してしまった。冷たかった紙パックも今は温い水滴が指を伝うだけで、なんとかそれを首筋に宛ててみたが、さしたる効果は期待できそうにない。
 受験の追い込み、高校三年生の夏期講習、その昼休みになってまで教室の机に向かっている気力は、瀬生には無かった。何が好きで黒板を眺めながらご飯を食べるのか。外は暑いけど、それでもいい。
 見下ろした校庭の端に無人のテニスコートが見える。目を瞑れば、ボールの跳ねる音が耳の中に反響した。
「ここにいたの」
 夏の暑さを掻い潜るような、静かな声が後ろから聞こえて、瀬生は身体の重心を戻した。
「不二」
 柔らかい茶髪を揺らして屋上のドアを閉める。「教室にいないから、ここかと思って」と不二が付け加えた。
「どうしたの?」
「別に。次が空きコマで暇なんだ」
 言いながら歩み寄る不二に、瀬生は曖昧な相槌を一つ打った。得意科目も違えば受験する大学も違うのだから、瀬生も不二もお互いの夏期講習の時間割を知らなかった。
「次、なに?」
「古典」
「へえ」
「不二は?」
「あとは小論文だけかな」
「へえ」
 短く区切られた文節は滑らかに瀬生の耳へ滑り込んだ。地上で蝉の鳴く声が遠い。ゆっくりと顔を上げれば、不二はおかしそうな顔をして口角を上げた。
「おでこが大変なことになってるよ」
「知ってるし…」
 相変わらず日差しは容赦なく後頭部を照らす。無言のうちにテニスコートへ視線を投げかけた不二の横顔に、始業のチャイムが永遠に鳴らなければいい。
 スマホで時間を確認しようという気は起きない。まるで、いつくるか分からない罰の執行を待つ罪人のような気分だと、瀬生は思った。
「まあなんだかんだ言って、来年の今頃には私たちは大学生になってるんだろうね」
 希望的観測、というより、諦めを含んだ声で瀬生が呟く。あと半年でこの学び舎を卒業してしまえば、この時間はもう一生、過去のものだ。
 青すぎる空は、あまりにも鮮烈な色彩を網膜に焼き付ける。たとえその青を失っても、焼き付けられた色彩は決して忘却を許さない。二度と手に入れられないものに、人はどう手を伸ばせばいいのだろう。
「別々の学校に行くのは寂しい?」
「んー…なんだか、泣きたくなるね」
 憎たらしいものを見つけたように、瀬生が唇を尖がらせる。もう悲しさや悔しさだけで涙を流すことはなくなった。代わりに、未来のことを考えて涙が出る。それから、ずっと昔にあったことや、人の強さに触れた時もそうだ。
「泣いていいよ」
 不二が小さく笑う。瀬生は一つ、ため息をついた。
「気分じゃない」
 風に乗ってどこかの教室の話し声が聞こえる。校庭の端をゆっくりと教師が横切った。あの人はきっと校舎を去る教え子を見送って、来年もここで一年を繰り返すだろう。泣くだけなら、いつでもできる。
「このまま抜け出してみようか」
 瀬生の真似をしてフェンスに寄り掛かった不二が、内緒話をするように声を顰める。その瞬間、瀬生は世界の音が遠のいていくのを感じた。
 細い前髪が眩しい日差しを遮って、不二の白い肌の上にくっきりと黒い影を落としている。風がそよぐたび、輪郭を変えた影が不二の頬で踊った。
「不二にしては珍しいこと言うね」
「今まで言っていたキミとは、もう会えなくなるからかな」
「今生の別れみたいに言わないでよ」
 キッと隣を睨めば、不二は軽やかに視線を受け流した。けれどそれ以上の反論も出なくて瀬生は口を閉ざす。今生の別れになるとしてもおかしくなかった。
 それぞれ違う場所で違う世界へ進めば、あるいは今までよりもっと多くの人と出会えば、かつての思い出の上に埃が積もってしまうことは十分、考えられる。人は、ずっと同じではいられない。
「未来はどうなるか分からないからね」
 不二の声が好きだと思う。決して気に障ることなく、どんな騒音の中だろうと一直線に耳へ飛んでくる。この声も、そう思ったことも、いつか忘れてしまうんだろか。
 大人になれば学生の頃の恋愛など、「そんなこともあったね」と笑い合って話せるようになるんだろうか。不二を忘れてしまっても、それだけは嫌だと思った。
「ねえ不二、キスでもしようか」
 本当に人肌恋しくなるのは冬でも秋でも春でもなく、おそらく夏だ。
 蒸せるような熱さの中で自分と世界の輪郭がぼやけていく。街中の雑踏を歩くとき、ビルとビルの間で陽光を透かす鮮やかな緑を目にしたとき、ふと無性に誰かに会いたくなる。その誰かが見つからないまま、夏は終わる。十二月三十一日より、八月三十一日が寂しいのはそのせいだろう。
 黙ったまま瀬生を見ていた不二がゆっくりと顔を近付けた。視界を覆い尽くすほどの蝉の声が夏の空に吸い込まれて、しかしその高さに誰一人として声を取り戻すものはいなかった。








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