青の亡霊

まるで人様の人生には興味のないような男だった。
「ちょっと、その傷どこで作ってきたの?」
「よそ見してたらコケた」
夏も盛りの八月、高専の廊下ですれ違った瀬生を引き止めたのは五条だった。
身体に隠れた彼女の右手の、掌の付け根にやや大きな掠り傷。目隠しで顔の上半分は見えないが、恐らく眉をハの字に曲げながら五条は瀬生の手をとった。
「硝子に見てもらった?」
「まあね」
五条悟の勘は鋭い。少しでも躊躇えば、たちまちそれが嘘であることを見破られてしまうだろう。ここ数年で嘘をつくのが上手くなった、と瀬生は薄々実感していた。
瀬生が学生として制服を身にまとっていた頃、腰の高さ程度であった植木は今では優に彼女の頭を超えている。まだまだ現役のつもりではいるが最近、自分の指の関節の皺に、押し寄せる加齢の波を感じたと言えば大袈裟か。
月日の瞬きの内に、五条が己の六眼を制御するため、サングラスから目隠しへ変えた姿に違和感を抱かなくなっていた。
穏やかに流れる時間は良くも悪くも過去を忘却させる。脳は緩やかな変化を無意識のうちに甘受する。いつ五条悟という人間に、こうもあからさまな優しさが備わったのか、瀬生は思い出せないでいた。
「…ならいいけど。そうだ、この前の任務のお土産、僕の机の中にあるから後で取りに来てよ」
「ン」
この男の人間性にほど近く、軽薄な会話が終わろうとしている。先を行こうと足を踏み出した瀬生の重さに耐えきれず、年季の入った木製の床が、ギイと音を立てて軋んだ。
「ねえ」
後ろから呼び止める声に、瀬生は頭だけ振り返らせて応じる。五条は数秒黙って瀬生を見たまま、淡々と言葉を続けた。
「最近ウチ来ないじゃん。半休だけど今度の日曜空いてるから、久しぶりにデートしよう」
なにも数少ない休みをわざわざ恋人のご機嫌取りに使う誠意を見せなくとも逃げはしない、と言いかけて瀬生は開いた口を閉じる代わりに頷いた。
「いいよ。その日なら私も空いてる」
「じゃあ何がしたいか考えといて」
瀬生は、人の優しさを無碍にするのは苦手だと思う。たとえ相手がこの男だったとしても。
「それならお家デートがいい」
「へえ、珍しい。いいよ、お家デートで何したい?」
「えー…じゃあ、昼寝とか?」
瀬生の回答を聞いて、五条はあからさまに顔を顰めた。仮にもデートと名のつくもの、この世のありとあらゆる恋愛を味わってきたこの男にとって、お昼寝というのは不満があるらしい。
「なにそれ。仮にも一カ月ぶりのデートだよ?他に僕とやりたいことないの?」
「だって五条、土曜の夜まで任務なんでしょ?日曜くらい寝といた方がいいよ」
「ああそれは大丈夫、気にしなくていいよ。僕、最強だから」
誇らしげに口角を上げながらそう言い放つ五条に、瀬生は頭の中が全て煮えくり返るような、苛立ちにも似た怒りを覚えた。最初から行き場なく生み出された怒気は、瀬生の視線を宙に彷徨わせる。
お前のための提案だ、とは口が裂けても言いたくなかった。優しいものが苦手だ。優しさと称されるものの前では、ありとあらゆる行為が正当化される。
重苦しい鈍器で殴りかかるようなその言葉の暴力性に、瀬生は未だ対抗する術を知らなかった。
「久しぶりに五条と寝たいの」
「嘘つけよ」
率直にこの男に休養を取らせようと悟らせた、最初の一言が失言だったと心の中で後悔する。こうなった以上、五条はどこかへ出かけないと気が済まない性格であることを、瀬生は十分すぎるほど分かっていた。
まるで大きな子供が意地を張っているようだ。そういうところが可愛くて好きだ、とはまた別の理由で口が裂けても言えないが。
「瀬生さあ、どうして僕にそんな気を遣うわけ?恋人の前だよ?」
積み重なった不満はいくらでもある。しかし決定打はおそらく、それらとは何ら関係のない、単純な一言だったように思う。
「気を遣う?」
窓の向こうで見えない油蝉のけたたましく鳴く音がする。
「いつ私がお前に気を遣ったのよ」
季節は移ろいゆく。かつての少年を置き去りにして。
「ふざけるなよ、五条。少なくともお前の青春は、優しいものなんかじゃなかったはずだろ」
夏の空の青さに目を細めるのは、それがいたく、容赦のない眩しさだからだ。
「優しい僕は嫌い?」
「……優しくなくても好きだって言ったの」
「そんなの」
言いかけて、五条はガシガシと自分の頭を掻いた。手を腰に当てて、深い溜息を吐く。
「せっかく大人っぽく君の前で格好つけようとしたのに」
「なにしてもお前は格好悪いからそのままでいいよ」
握りしめた右手が痛い。躓きそうになって、咄嗟にアスファルトへ手を付いた代償がこれだ。でも別に、それを憎いと思ったことはない。
「本音を言えば、オマエさえいなければ日曜は一日中寝てたい、来客なんてまっぴらごめんだね」
わざとらしく五条がため息をついて肩を竦める。
窓の外、グラウンドから生徒の声が聞こえてきた。山の奥、生徒の割に広すぎるこの校舎でさえ、昔は窮屈に感じていたものだ。
「本当は眠たいけど…でも今は起きて瀬生の顔を見たい気持ちの方が勝ってる」
僅差でね、と五条が付け足す。鮮やかすぎる思い出は、それが過去のものであることに気付けない。
「ちょっとは僕も変わった、ってこと」
高専を卒業し、教師となった五条はこの春二度目の一年生を請け負った。対する瀬生は呪術界とつかず離れず、どうやら少なくとも師の才能は無かったようだ。
向いていなかった、と言えば口当たりは良いか。思い出を過去のものに出来なかった、と言うのが正しいだろう。
対してこの男は、想像していたよりずっと強かったらしい。
思い出の中で生きるのは簡単だ。しかし一度思い出の中から出てしまえば、後は途方もない広さの荒野をたった一人で歩いていくしかない。
たとえその途中で誰かが手を差し伸べてくれたとしても、思い出に守られた少年が外へ最初の一歩を踏み出すとき、人は一人である。
「本当でしょうね、それ」
「やだなあ、僕がいつ瀬生に嘘なんてついたんだよ」
「そうだったね、嘘はつかなくとも浮気はするもの」
「え」
彫刻のように固まる五条を置いて瀬生はその脇をすり抜ける。
「待って!え!?それ何年前の話!?僕最近は誰とも浮気してないんだけど!」
支離滅裂な文脈を口走る五条を横目に、瀬生は無言で顔を顰めた。ずっと勘違いしていたのは自分の方か。
ずっと子供のままでいい、と願うこととそれに縋ることは違うのだと、この男はもうとっくに知っていたのだ。無理やり大人になろうとしていたのは五条ではなく、
「腹立つ〜!」
「ちょっと瀬生!?」
こうなったら日曜は、五条が眠いと音を上げても連れまわしてやるのだ。優しい恋人だと言うのなら、その恋人がちゃんと大人になるまでもう少し我慢させておこう。
そこまで考えて、かつての火遊びの弁解をする男の声を頭の後ろで聞きながら、瀬生は軽やかな足取りで次の仕事へと向かうのだ。
「日曜十時にハチ公前集合ね!」



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