気が付いたときには何もかも手遅れであった。
まだ青い空が目に馴染み切らない高二の夏、五条悟は恋を知る。
ただでさえつまらない座学の、その最高峰を争うかと思われる授業を抜け出して、五条は鮮やかすぎる黄緑の芝生を踏み分けた。
真夏日の前日のような、決して無視できない生温さを肌で感じながら、校舎裏の日陰を探す。空き教室は駄目だ。いつ担任に見つかるか分かったものではない。
それゆえ幸か不幸かその日、五条が問題児の模範解答のごとく学校を抜け出さず、行儀よく日陰を探した先で、一つ上の先輩である瀬生に出会ったのは、ほんの偶然だった。
「オイ、昼間からいい身分じゃねえの?」
「ウオッ…ああなんだ、五条か」
わざと後ろから声をかければ、校舎裏に点在する木陰のうちの一つ、最も校舎から離れた木の根元で寝そべっていた瀬生が、びくりと肩を跳ねらせて上半身を持ち上げた。危うくその手元から紙パックのカフェオレが滑り落ちるのを、五条が咄嗟に受け止める。
「相変わらず二日酔いのオッサンみてえな驚き方するな」
「どつくぞ」
顔を顰める瀬生を雑にあしらって、五条は木陰に割り込んだ。そのことにまたしても隣から文句が聞こえたような気がして、なんとなくその脚を蹴ってやる。
この学校で初めて後輩と呼ばれる人間と出会って三時間で、瀬生は「年上を敬う気はないのか」と苦言を呈することを諦めていた。
しかし彼らにとって先輩を敬うことと懐くことは似て非なるものらしい。
最初こそお互い、最低限の関わりしかなかったものが、今では後輩の方から用もなくわざわざ探しに来ることが増えた。五条曰く、暇だったから、らしい。
「マジであっちー…こんな日に教室のエアコン壊れるとかねえだろ」
「それでサボってきたの?」
「まあな」
瀬生の持つ紙パックの表面に水滴が付いているのを眺めながら、何か冷たいものを買ってくればよかった、と五条は思う。
「そういえば、夏油は?」
「任務」
「それは大変だなあ」
本当に思っているのかいないのか、どちら付かずの声で瀬生がぼやく。何か話すことがあるわけでもないが、瀬生はパラパラと捲っていた本を閉じた。そもそもちゃんと読んでいたかどうかも怪しいが。
「てかこのまえ売店に入荷されたアイス、めっちゃ美味しかったんだけど五条食べた?」
「ヤ、まだ。でも気になってる」
「買うならチョコチップのやつがいいよ」
「へー」
適当に相槌を打ちながら、七月の終わりの気だるい暑さにいっそのことそのアイスを買って食おうか、と考える。しかし数秒思案した後、この場を立って離れることもなんだか勿体なく思えて、五条は何事もない顔で少し浮かせた腰を下ろすのだ。
暇を持て余したように、手の中でくるくると紙パックを回しては、成分表を眺めだす瀬生を五条はぼんやりと眺める。小さくそよぐ風が瀬生の髪を微かに巻き上げていく。お世辞にもきちんと手入れが行き届いているとは言えない黒髪が、五条の手の甲を撫でた。
「悪くねえな」
それは確かにアイスの雑談の延長線上だった。
しかしおそらく、五条悟にとっての恋というものに、何か覆しようのない決定打が打たれたとしたら、間違いなく今この瞬間だろう。
相変わらず蒸すような温度の空気が鬱陶しかった。日差しは容赦なく木陰の外を照りつけるし、見上げた空に広がった青さに思わず目を細める。
授業をする声が、夏の盛りを知らせる風に乗って耳に届くのを、五条はどこか遠い場所の出来事のように聞いた。
先ほどまで滲みそうだった汗はいつの間にかさっぱり引いている。心底暇そうに遠くを眺める瀬生を見ながら、なんとなく、一緒に昼寝をしたいと思う。
「なあ、このあと予定あんの?」
言ってから、下手なナンパのようだと五条は心の内で顔を顰めた。
何か言いたそうに瀬生は数秒黙って五条を見る。
「あるけど、ないって言った方がいいのかな」
眠そうに欠伸をしながら顔を上げる瀬生に、五条は気づかれぬよう、そっと髪から手を離した。
そうしてから自分の恥ずかしさに気が付いたのか、不服そうに顔を背けながら呟くのだ。
「食えねーやつ」