「あ、起こした?」
「んや。全然」
「そう。よかった」
伸ばしたら届く距離ではあった。だがそれを出来るほど名前はこっちを気にしていないようだったし、それに薄暗い中で光る画面に夢中であったから、するのをやめた。やがて用を終えたらしい名前がソファから腰を上げて、なにか飲む?と俺に尋ねる。
「あー・・・うん」
「え、?」
「何がある?」
「コーヒーと、麦茶とお酒」
「あコーヒー」
「はあい」
部屋は少し肌寒い。外へ出ればむしむしと暑苦しいのだろうが、それを試す体力はどこにもない。大人しくコーヒーを用意してくれる彼女を待った。やっぱり寒すぎたのでエアコンの温度を2度上げて、やがてくるコーヒーの匂いに焦がれる。
「・・・え」
「ん?なに」
「コーヒーってインスタントじゃないの」
「ふふ。最近豆から挽くことにハマってる」
「へえ。ミルとかドリッパーとか、わざわざ買って?」
「うん。わざわざ買って」
「す、ごいですわ」
「でしょう?」
ふやりと笑った。その顔が昔から好きで、一瞬で心のなかを占拠していくので、苦しかった。やがて鼻のなかをいっぱいにするコーヒーの匂いが身体中を占拠するのに、心だけは未だに名前の笑顔がとどまるままで。
「そんなこともできるようになったんですね、」
「え?さっくんの中でどんなイメージなのわたしって」
「なんか、こだわらない主義みたいな」
「おおざっぱみたいな感じですか」
「いや、そこまではいかないけど、てきとう?みたいな」
「だって、でぃーが美味しいって言うから作りたくなったんだもん」
「ああ、小野?」
「うん」
「・・・ふうん」
口に入れたコーヒーは熱かった。夏だというのにアイスではないのが季節違いだが、寒いと思っていた先ほどを考えるとありがたい。どう?と名前は俺に感想を窺って、やっぱりインスタントとは違う深い味わいを問いかける。
「うん、いいんじゃない」
「え、上から?」
「あ、下からがよかった?」
「マモかよ」
「え?」
「あ、マモライ行きたいね」
「突然だな」
コーヒーにこだわりだしたわけがつまらない理由だったから、ということより彼女から出てくる小野の名前にまだ慣れてないというのが大きい。どちらにせよあまり面白くないはなしだった。それがどうしたと、口から零れそうになる戯言だったから。
「、小野と行かなくていいの」
「え、でぃー?」
「うん」
「んんー、でもマモライはいつもさっくんと行くから」
「そう、だけど」
「さっくんと行かないと、へんな感じ」
「・・・そう」
「あと、あいつはいろいろ騒ぎそうだから」
「あいつて、」
伸ばしたら届く距離だったのは確かに俺のはずなのに、それをすり抜けて小野が優しい声で名前の名を呼んでいた。べつに気に留める必要のない日常が音も立てずに少しずつ崩れていくのに気づいた時には、もう遅かったんだ思う。
だから、こういう時に限って頼ってくる彼女を突き放せない。ばかっぽいくせに、艶めかしくて。いつも不安しか与えてくれない、そんな人。
「だって、ずっとそうでしょう?」
「、まあな」
夏の暑さはうだるい。後味が優しいコーヒーが身体から抜けきらないような、霞んだまんまの自分の気持ちは、誰も知らなくていい。