すべてがわたしを不自由にさせる。生きること笑うこと話すこと、毎朝起きて歯を磨いて着替えて外に出ること、とか。すべて。

「あのね、杉田さん」
「はい」
「違うの。これはつまり、あの」
「名前が俺のためにしたんでしょ?うん、分かってる」

杉田さんは怒らない。なにも出来ないわたしに決して怒らない。それが救いでもあり寂しさでもあった。底をこちらに向けて寝転ぶ鍋。蓋は斜め上でそっぽを向き、その下には茶色い液体が芸術的な広がりをみせている。4時間かけて煮込んだとか、そういう話しはもはやどうでも良い。

「いつ、こぼしちゃったの?」
「かるく、1時間前」
「あーなるほど。だからちょっと固まってるのね。・・・とりあえず中村に写真送るわ。綺麗な飛び散り方だし」
「そう、ですかね」
「うん。綺麗だよ。名前もそう思ったでしょ?」
「・・・うーん、」
「だから泣かなくていいじゃない?ほら、一緒に片付けましょ」

携帯を握っていた手がわたしを掴んでくれるまでは、あっという間。その手が、あんまりあったかいから更に鼻につんときた。杉田さんはこういうひとだ。わたしを愛してくれているし、わたしに寄り添ってくれるし、わたしを受け入れてくれる。とんでもないひとに出会ってしまったのだ、わたしは。甘やかすとかそういう次元の話ではない、もっと思慮深く寛容な愛でわたしを懐におさめてくれる。

「優しすぎ・・・」
「ん?なんだってー?」
「杉田さんが、好きだって」
「名前ちゃん突然なによ。恥ずかしい」
「そうやってお茶目なふりしてわたしを笑わせようとしてくれるのも好き。写真に撮ったくせに明日にはわたしにもう思い出させないようにフォルダから削除するところも、やさしくて好き」
「、あれ。そんなに気にしてた?」
「ちがうの。杉田さんが気にしてくれる分、わたしも杉田さんを気にしたいの」

好きだから、大切な人だから、気を遣ってくれる杉田さんに、返したいものがいっぱいある。わたしの足りない頭や心では対応できないことが多いけれど、それでも出来ることを探したのに、結局それも水の泡。いや、床のゴミと化している。その時に、杉田さんへの申し訳なさよりも自分への情けなさが先にでるわたしが嫌い。なんて、つまらないひとなんだわたしは。

「そっかあ。気にしてくれるのかあ」
「、やだ?」
「いや?嬉しい。嬉しすぎて、ちょっと恥ずかしい」

照れくさそうに杉田さんは笑った。目じりが少し下がる、その優しさが沁み出る小さなシワに心を惹かれながら、やっぱりもっとこのひとに愛されたいと思う。愛されることで、ひとは触れるものすべての温もりを知るんだ。わたしは杉田さんに出会うことで、それを知ったから。

「・・・さっき、」
「ん?」
「さっき、撮ってた写真。やっぱり消さないで。あと、わたしに送ってください」
「え。い、いいけど」
「杉田さんがきれいだって言ったから、やっぱり、わたしも手元に残しておきたい」
「・・・そう?じゃあ送るよ」

杉田さんに愛されたい。もっと愛されるわたしになりたい。それは、わたしがもっとわたしを愛するしかないのかもしれない。自分を許さないと大切なひとまで窮屈にさせてしまうと、おばあちゃんのトイレに書いてあった言葉を思い出しながら、ずるずるとしみったれた涙を拭った。濡れた手は、すぐに杉田さんのあたたかさによって乾き、次を生み出してくれる。

「名前って、変わってるよね」
「え?そうですか」
「うん。でも、なんか、俺と同じかもよ」
「な、にが?」
「ん〜好きな人の好きなものがフォルダにいっぱい、みたいなとこ?」
「ん?それはどういう」
「ちなみに俺の携帯は、名前の写真でいっぱい」

見る?と杉田さんがわたしに目配せをした。涙を拭いたおかげで鮮明に映る世界には、やっぱり杉田さんのやさしい瞳が存在していて、わたしの身体はそれに呼応する。不自由を解く魔法。

@@それは、愛。





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