コップの中の氷が、カラリと動く。傾けたわけではなくて、ただ溶けて落ちた。それだけ。

「・・・帰ろ、」

積み重なった書類を投げ飛ばしたくなる衝動と闘いながら、仕事をするのにももう疲れた。時計の針が限りなく上を向いた時間。睨めっこし続けたパソコンに、もう勝ち目はないらしい。

「・・・あ、まだいたんですね」
「!おつ、かれさまです」
「ふ、おつかれさま」

薄まりすぎたコーヒーを一気に飲み干して、パソコンを折り畳む、そんなタイミング。知った声に背筋がピンと伸びる。振り返ると、そのメガネ越しにしっかり目があって、からだの奥が密かに脈立った。

「遅いね?いつも?」
「いや、今日、たまたまです。明日の会議の資料まとめてて」
「あー、あんなのテキトーでいいよ。手抜き手抜き」
「手抜き、」
「そう。どうせ内容なき集会なんだから」

櫻井さんは、仕事ができる。それを主張するタイプではなくて、"ソツなくこなす"人だ。捌けるし、周りのフォローもできるし、誰にでも優しくてスマート。きっとうちの部は、彼なしでは成立しないと思う。

「櫻井さんは、なんでこんな時間に?」
「近く通ったら明かりついてたから、誰だろと思って」
「あっそういう・・」
「みょうじさんだったのね。働き者は」
「はいすみません、」
「もうパソコン閉じてるってことは、帰る?」
「そのつもりです」
「おっけーじゃあこっち締めるわ」
「あ、りがとうございます」
「遅いし、タクシーで帰りな。近くまで送るよ」
「いえ!申し訳ないです」
「いやいや危ない」

電気を消して、施錠をして、着々と帰りの支度を整えながら、心音がだんだんと大きくなるのが分かった。櫻井さんとエレベーターに乗ってタクシー乗り場まで?どんな展開なのだと、使いものにならない頭が軽いパニックを起こす。

「すみません・・なんか、」
「え?謝ることないよべつに」
「いやわたしが残業してたばっかりにお手数をお掛けして」
「それは気にすることじゃないよ」
「櫻井さんって、ほんとに優しいんですね・・・」
「なに?見直した?」
「いや、もう、感動してます」
「なんだそれ」

エレベーターに2人きり。櫻井さんの柔らかい匂いが、狭い箱に充満している。優しい声は共鳴して、わたしの耳をいっぱいにさせる。それらは、小さな刺激のはずなのに、全てがダイレクトに、わたしの脳を攻撃していた。

「優しくする人は、選ぶけどね」
「え」
「わざわざ残業してる部署に上がって来ないよ」
「?じゃあなんで今日、」
「名前ちゃん」
「!」
「だといいなって、思って?」

ネイビーのスーツがこちらを振り向く。狭すぎる箱。元々ない距離を詰めた櫻井さんに、身動きが取れない私。

「ちょっ、待ってくだ」
「俺には気をつけろって、誰かに言われなかった?」

メガネの奥の瞳が、わたしを捉えたまま離さない。かがんで、わたしの目線まで合わせたその顔の良さに、たじろいでしまう私は、弱者もいいところ。

「誰にも・・・!っ」
「あー、じゃあもう遅い」

じゃあもう遅い。

簡単にくっついてしまう唇と唇の距離が、言葉の答えだった。どうする?という目でこちらを覗く櫻井さんは、どうしようもなくズルい大人の顔をしていた。



@@ゆるしてあげない





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