悴んだ手先をそっと

「代入させるのこれを、ここに。わかる?」
「…わ、わかります」
「ほんとに?」
「ごめんなさい。全然わかりません」
「はあ…まじか」

目の前の夜久先生は、一つため息を吐いた。その息は白くて、季節の抒情を感じざるを得ない。もう1問やろう、と腰掛けていたのを浅くさせてこちらに近づいてきた先生にどきりとした。いいや、かれこれ30分くらいずっとドキドキしてる。

「何がわからない?」
「ええと、+がなんで−にされてしまうのかとか、なんで突然4が出てくるかとか」
「代入することは分かる?」
「まあ、意味はなんとなく」
「うん。じゃあとことんやるしかない」
「うそ、」

夜久先生は小さい割に大きくてゴツゴツした手が、私の机の上でテキストの中を行ったり来たりしている。骨格が綺麗だなあ。ぼうっとしていると、すかさずおい、と呼び止められてデコピンをされた。おでこが痛いというよりも熱い。一点の熱が巡って、やがて顔全体を赤くしてしまう。見ないでね、夜久先生と言おうにも先生は真剣に教えようとしてくれるので、言えない。夜久先生の睫毛は長くて、まるで女の子みたいだ。

「おまえ受験いつだっけ」
「1月の後半、とか」
「ということは後1ヶ月かよ…」
「はい」
「…とりあえず、やろう。やりこまないと」

熱心な先生だなあと思ったのが最初。眺めてる内に、段々と見えてくる少年みたいな笑顔とか、真剣な眼差しとか、そういうのが全部、私を虜にさせてしまっていた。分からないと言えば先生は私に時間を割いて教えてくれる。内容はちんぷんかんぷんだけれど、2人っきりで過ごす時間は堪らなく幸せで、足りない脳みそを満たすのには十分だった。

「これ、合ってます?」
「!あ、あってる」
「やった!」
「やったなあ、」

嬉しそうに笑ってくれる。本当はどう思ってるのかなんて全然わからないけど、先生は不意に私の頭を撫でてくれる。すごいぞ、と私に目線を合わせていう先生はやっぱり凄く優しい。そして、その手は大きくてやっぱりゴツゴツしていた。

「今のうちに教えたいけど…、時間だなあ」
「え?、あ本当」
「ううん、…明日くる?」
「え?」
「俺んちでよければ、教えようか」

暖房が効きすぎて頭が痛くなっていた。一瞬聞き間違えじゃないかと思った。先生はなんの気もなく、スーツを正している。私はというと、えと、それで、今なんと?

「いいんで、すか」
「うん」
「行きたいです、」
「ようし。頑張ろうな」

ネクタイを少し緩める仕草にこんなにも魅力を感じてしまう。声が上ずらないように必死に落ち着かせて、逸る鼓動を抑える。それから夜久先生はにっと笑って、まとめた荷物を持った。
じゃあな、と言う声が耳に入るのが遅いのはなんでだろう。



(好きだからです)


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