酸化した世界を還元せよ



巳弦は鏡の前で全身を確認した。長手甲と一つになった西洋から渡来した襟とりぼん。十字架が背に描かれた羽織に袖を通し、大広間の襖を開けた。

城内のどこからも叫び声が聞こえ、怒号が聞こえる。始まった幕府軍の総攻撃に巳弦と四郎、もう一人の指導者と数名の兵が大広間に残っていた。ここで待たねばならない。本丸を突破してくるだろう幕府軍を。

………しかし顔つきが変わらぬまま座している巳弦や四郎に反して、皆が苦しそうに咳き込み、恐怖していた。火矢が放たれたようで、城内あちらこちらから出火。水で消してもどうしようもならないからこその、無抵抗だ。

四郎の前に座っていた巳弦の袖を引っ張った四郎は他に聞こえぬようにこう言った。まるで迫った今際で悔い改めるように。

「奇跡など、誤った夢を見させてしまった事を、とても後悔しています。貴方にその奇跡を、誤った夢を掴ませてしまい、際限なく身体を傷つける結果となってしまったことも。」
「……たとえ貴方が後悔したとしても、私はこれで良かったと思っています。この奇跡があったから、貴方の負担が減らせました。ふふっ、同罪ですね。救うはずの奇跡が、全てを傷つける奇跡だなんて思いもよりませんでした。――それでも、一つ。私は絶対に奇跡の手解きを受けた事を後悔しません。」
「……そうですか。さぁ、もうすぐ来るでしょう。意思を見せ続け、彼らに報いますよ。」
「はい、勿論です。」

ごうごうと燃え盛る火の手。視界を灼いて地獄を見せ、空気を焼いて死を早める。これぞ我らの終焉なのか。安らぎに満ちた天国へ向かう前に見る、犯したはずのない過ちの精算なのだろうか。

そう思った同時にすぐ近くから足音が響く。来てしまったのか。襖を開けるのではなく蹴り外した幕府軍は、次から次へと一揆軍の首を取っていく。中には手足でさえもうばわれた人も。
飛ばされた首が、瞼の下に戻ることのなかったひび割れた瞳が自分を見ている気がした。そこに篭っていたのはどんな思いだったのだろうか。

その光景に腰を浮かせた巳弦はこちらに悠然とした姿の、嫌味な印象の悪い笑みでにじり寄ってきた男を黄金で射抜く。

「貴様らが若苗巳弦と天草四郎だな?」
「はい。」
「一揆の指導者、総大将としてその首頂いていく。」

立ち上がった巳弦は両の手を広げて、四郎の前に庇い出た。役人はふんと鼻で笑い、奇跡を起こしてきた手を切り落とす。ぼとりと落ちた巳弦の両手。

「な、何をしているのです!?退きなさい、巳弦!!」
「いやです。」
「……ほう、死に際に殊勝な心がけだな。女だてらに肝が座ってて結構。」
「お褒めに預かり光栄です。けれど、四郎様への道は通しません。たとえ何処がなくなろうとも、貴方の道の障害になりましょう。」

両手が落とされたと言うのに、目の前の女は平然とした顔をしている。痛みに歪むでもなく。そして淡々とした姿に恐怖すら覚えた。その恐怖を振り払いたくて、今度は横に薙ぐように両太ももを切り落とす。
足という支えを失い、胴と頭だけになっても尚、巳弦の目には熱い矜持と意思が見えた。次は怯みを振り払うべく腹を切断。

―――それでも、巳弦の顔は瞼を閉じることもなく、生きていると証明するかのように爛々と瞳が輝いている。身体なぞ無いも同然だというのに。

「巳弦、巳弦!!」

四郎は正座したまま、巳弦に呼びかける。すぐ傍に寄って治癒するわけでもなく。四郎にはここで巳弦に駆け寄ることはできない。大将首、首魁としてあるべき姿がある。なさねばならぬ事がある。

苦しい。何が嬉しくて巳弦の身体が一つ一つ欠けていくのを見なければいけない?痛みを把握できなくても、痛いはずなんだ。それなのに、四郎の前から退こうとしない。どうして、四郎に続く道を塞ぐのか。分からないけれど、これもまた先日学んだ『感情』なのかもしれない。

「……ひゅ……はぁ、倒れませんよ。四郎様まで………。」

四郎も死ぬ。この後に及んで彼だけが生かされる可能性などない。分かっているけれど、巳弦は退きたくなかった。

…………ただ、ほんの少しでも希望を与えた齢十七の奇跡の少年を、世界に留めておきたい。 
指導者としてなのか、若苗巳弦の個人的なものなのかは分からない。けれど、そうするべきであると何処かで誰かが言うのだ。

自分たちの奇跡が生んだ地獄の中だとしても。四郎ならば、この時間稼ぎで彼らへの最後の報いができるかもしれない。

無駄な死に、無用な死にならないようにと願っても、それが叶うことはなかった。こんな彼らの死に意味があったなど言えようか。

「巳弦!!」

四郎の悲痛な声に、大丈夫だと振る手がないのを思い出した。

「し、……ろうっさ……ま……。」

これが、痛いということなんだろうか。苦しいということなんだろうか。呼吸が詰まって言葉が出にくい。吸っているはずなのに、酸素が抜け出てしまうような感覚に襲われる。

しかし、それ以上答えることは叶わなかった。
目の前の役人は、刀を振り上げて、まるで化物と対峙しているかのような表情を浮かべながら、巳弦の首目掛けて振り下ろした。


天国になど行けやしないな。なんて、暗転してしまった世界で独りごちた。




――――――――…………………

――――――……………

―――………


ああ、一番避けたかった収束。
ただ只管に無意味な死。
無用な痛みを負わせて主を踏み躙る。

この戦いの収束に、彼らの納得する価値を。
彼らが笑って誇れる幕引きを。
苦しみのない、優しく暖かい安らぎの死を。

負けると分かっていても、最低限掴みたかったもの。
導きたかった未来。
そのどれもが奇跡を起こす二人の手から零れていった。


納得する、価値ある戦いになった訳がない。

一人残さず斬る様は蹂躙や虐殺に他ならないのだから。
彼らが握った十字架を踏みつけるその姿は、巳弦達の戦う意思などこれっぽちも届いていないことを示していた。


笑って誇れる幕引きな訳がない。

この籠城戦の最中に訴え続けてきた、認めて欲しかった全ては戯言と聞き流され、人の尊厳など無視するかのように斬捨てられたのだから。


苦しみのない、優しく温かい安らぎの死?

彼らの顔は苦悶に満ちている。
涙を流し、絶望した顔のままこと切れている。
首を落とすに飽き足らず、手や足を失った姿もあれば、袈裟を大きく斬られた子供も転がっている。
ぱちぱちと木や畳が燃える音、充満する煙。
こんな地獄のような場所で死を迎えた人の心が、安らぎに包まれてくれるだろうか。
優しく暖かい主が癒やしてくれる彼らに、苦しかった死に際の傷が消えてくれるだろうか。


願わくば、彼らに主のお導きで安らぎの天国へ。
そして、お役人方には平等に導き愛す心を。




―――ゆっくりお休み下さい。四郎様。

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